亀山努のトレードマークとなった「ヘッドスライディング」は真弓明信への一途な思いからだった
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:亀山努(前編)
1985年、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンナップを筆頭に"猛虎打線"が爆発し、阪神タイガースは球団史上初の日本一を達成した。圧倒的な攻撃力で頂点へと上り詰めた戦いに、しばらく天下が続くかと思われた。しかし、その2年後から阪神は"暗黒時代"へと突入することになる。2003年に優勝するまでの16年間でAクラス1回、最下位10回......。その唯一のAクラスが1992年の2位である。突然の快進撃はいかにして起きたのか? 当時の選手たちの証言をもとに「奇跡の1年」を振り返りたい。
ガッツ溢れるプレーで92年の阪神快進撃のシンボルとなった亀山努
1992年のペナントレース開幕を2日後に控えた4月2日夜。神宮球場から程近い焼肉店で、阪神ナインによる"決起集会"が行なわれた。開幕カードのヤクルト2連戦、つづく巨人3連戦の東京遠征5試合に関して、中村勝広監督は「最低でも2勝して大阪へ帰ろう」と選手に言い聞かせていた。だが、新選手会長の和田豊は、監督の言葉に疑問を感じ、異を唱えた。
2年連続の最下位から脱出するためには開幕ダッシュが不可欠──。そう考えていた和田は、ナインを前に声を張り上げた。
「2勝? いや、3勝して帰ろう。勝ち越して大阪に帰ろう!」
もっとも、その声は焼肉店に集結した選手全員に届いたわけではなかった。鹿児島・鹿屋中央高から87年オフにドラフト外で入団。当時、プロ5年目の若手外野手だった亀山努(現在は亀山つとむ)が、30年前の状況を振り返る。
「神宮の近くで決起集会、しましたね。でも、そのへんの話は主力が中心でやる話であって、僕らレベルは全然、話の輪に入らないで、ひたすらいい肉を狙ってるだけでした(笑)。和田さん、そんなふうに言ってたのかなと。同じチームのメンバーではあるけど、この遠征で勝ち越すために何とかしなきゃいけない、っていう中心人物ではなかったですから」
前年まで2年連続でウエスタン・リーグ首位打者に輝き、90年は盗塁王も獲得。俊足の巧打者タイプだった亀山だが、一軍昇格後は結果を残せず、定着できずにいた。あくまでも外野の守備固め、代走で途中から出る選手だった。92年もキャンプ、オープン戦で特別目立つこともなく、開幕一軍はつかんだものの、いつ二軍に落ちてもおかしくない立場。それが開幕5試合のなかで一変する。
「たまたま、その5つのなかで結果が出たんです。そしたら監督がそのまま使ってくれて。とくに、監督から話はなかったですね。初めてスタメンで行く時も、コーチの方から『2番で行くぞ』って言われただけで。たぶん、足が速いから2番になったんじゃないですかね」
開幕戦こそ、途中出場で回ってきた打席で空振り三振。それでも亀山は第2戦、9回に代走で出てホームでアウトになるも、延長10回にダメ押し2点タイムリーを放ち、チームのシーズン初勝利に貢献。巨人との第1戦は代走出場も、第2戦は「2番・センター」で先発出場し、3回、相手先発の斎藤雅樹から二塁内野安打。一塁にヘッドスライディングして間一髪セーフになった。
「タイガースは斎藤さんをまったく打てなかったんです。レギュラーが打てないんですから、自分もまず打てないなと。だけど、使ってもらっている以上は何かで結果を出さなきゃと思って。フライだったら意味ないけどボテボテだったら、当初、生かそうと思っていた足が使えるわけなので。それが高いバウンドになって、『行ける』となったらもう頭から突っ込んでましたね」
亀山努が抜擢された理由過去2年間で2勝11敗。阪神打線は斎藤を苦手にしていた。そこで中村監督は右サイドハンドの斎藤に対し、左4人のオーダーを組んだ。4番・サードのトーマス・オマリー、6番・ライトの中野佐資、新人で7番・ショートの久慈照嘉がいて、亀山が4人目で加わった。そしていきなりのヘッドスライディングにナインが衝撃を受けた。当時、和田が語っている。
「今までウチにはファーストに滑り込む選手なんていなかった。しかも頭から......。すごく思いきった走塁、そして守備もそう。今までのウチにはいないタイプだった。アイツがチームに新しい風を吹き込んだんです」
亀山が躍動したこの一戦、阪神は先発の中込伸が2回までに4点を失っていた。それでも3回に捕手・山田勝彦のタイムリー、新加入した3番のジム・パチョレックに満塁走者一掃の二塁打が飛び出して同点。5回に押し出しで1点を勝ち越すと、3回以降は立ち直った中込、8回からは抑えの田村勤が零封して逆転勝利。同年の新戦力と投打の若手が揃って結果を出していた。
反面、プロ20年目で38歳のベテラン外野手・真弓明信は開幕こそ「6番・ライト」でスタメンを果たすも3打数無安打。2戦目からベンチに控えていた。前年まで通算1830安打、287本塁打、830打点を記録し、83年は首位打者。「史上最強の1番打者」と称され、85年の日本一に大きく貢献した強打者も、若手に押されていた。その筆頭が、真弓自らキャンプで打撃指導をした亀山だった。
「監督が、真弓さんを外して僕を使ったということなんです。だからその後、勝ち負けとか、自分が楽しいとかしんどいとか、抜きです。『このままいける』と思ったこともまったくなかった。真弓明信というスーパースターを下げる代わりに使ってもらってるんだから、『そんなんだったら真弓を出したほうがいいじゃない』って言われることは絶対あっちゃいけないと思ってました」
中村監督が亀山を抜擢した理由には、前年12月に甲子園球場のラッキーゾーンが撤去された事情もあった。左中間、右中間が8メートルも深くなり、強肩で足のある選手が求められたなか、監督は「打撃で勝負強い真弓は捨てがたい。ただ亀山には期待している」と公言していた。しかし一軍で実績のない亀山自身、「真弓さんを外して僕」という起用は重責でしかなかった。
「そうすると、投げるのも、打つのも、走るのも、全力でやるしかない。打てなくても塁に出たい、とにかくセーフになりたくて頭から突っ込む。それで何試合まで持つか、全力でやり続けてどこまでいけるか、っていう気持ちだけだったので......たぶん、必死さは伝わったのかなと。もしも手を抜いたら真弓さんに失礼だと。それだけでした」
コーチの勧めで背番号を「67」から「00」に変更。プロとして目立つために赤い手袋、クラシックスタイルのストッキングを着用。すぐに目が痛くなるコンタクトレンズをやめ、ヤクルトの古田敦也に紹介された衝撃に強い眼鏡を採用。そうして臨んだシーズン、ヘッドスライディングが亀山のトレードマークになった背景には、「真弓さん」への一途な思いがあったのだ。
さて、巨人との3戦目、亀山の2盗塁2得点が勝利に直結し、開幕5試合を3勝2敗。広くなった甲子園に帰ってきての中日戦は1勝1敗、大洋(現・DeNA)戦は2勝1敗と勝ち越し、広島戦は1勝2敗。相手5球団すべてに当たって7勝6敗とした。開幕5連敗だった前年を考えれば、「開幕ダッシュ」とは言えなくても大健闘に値した。
その間、亀山は初の猛打賞を獲得するなど活躍を続け、4月21日、横浜スタジアムでの大洋戦では初回にプロ初本塁打。同23日には3度目の猛打賞で打率を.413とした。だが、翌24日からの中日3連戦はベンチスタート。理由は右太ももの軽い肉離れで、全力で走れないなか、25日の2戦目に事件が起きた。
(=敬称略)