激闘来たる! カタールW杯特集

注目チーム紹介/ナショナルチームの伝統と革新 
第2回:アルゼンチン

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メッシが5回目の出場となるアルゼンチン

メノッティ派とビラルド派

 おびただしい、本当におびただしい、スタジアム中が真っ白になるほどの紙吹雪が舞った1978年アルゼンチンW杯。エル・マタドールと呼ばれたマリオ・ケンペスが、残り雪のような紙くずを巻き上げながらオランダのオレンジの砦のなかへ突入していった。

 1986年メキシコW杯、やけにだだっぴろく見えるアステカスタジアムの真ん中で、ふんわりと浮いたボールを、高すぎも低すぎもしないタイミングで丁寧に叩くディエゴ・マラドーナ。「天才」を乗せたままボールは疾走するホルヘ・バルダーノの道を拓く。

 アルゼンチンが優勝した2度のファイナルの印象はそう変わらない気もするが、チームのありようは同じ国の代表とは思えないぐらい違っている。

 初優勝に導いたセサル・ルイス・メノッティ監督は、36歳の若さで開催国アルゼンチンの命運を託されていた。どす黒い軍事政権と、長髪でヘヴィースモーカー、自由主義者の監督は奇妙なコントラストだった。

 メノッティが掲げたのは「民衆のフットボール」だ。アルゼンチンが伝統的に培ってきた技術と勇敢さ、攻撃に次ぐ攻撃で相手をこじ開けるスタイルである。

 2度目の優勝監督、カルロス・ビラルドは医師資格を持つインテリ。選手として活躍したエストゥディアンテスは、欧州では悪名高いラフプレーと守備戦術のチームだった。ビラルド監督のアルゼンチンは極めて不人気だったが、堅い守備とマラドーナの大活躍で優勝すると、メキシコのスタジアムには「ペルドン、ビラルド。グラシアス(ごめんね、ビラルド。ありがとう)」の横断幕が掲げられた。

 以来、メノッティ派とビラルド派は、国内の世論を二分することになった。

 攻撃と守備。それぞれ依って立つものが明確に違っている二派なのだが、どちらもアルゼンチンの伝統に則っている。それも両極端という珍しい例だ。

両極端の伝統

 1930年の第1回ウルグアイW杯で、アルゼンチンはウルグアイと決勝を戦った。当時の南米二強で、ブラジルが強くなるのはもう少し後だ。

その後第二次世界大戦で中止となった2大会(1942年、46年)は、もし開催されていたらアルゼンチンが優勝していたのではないかと言われている。「ラ・マキナ(=機械、マシーンの意)」と呼ばれた偉大なリーベルプレートの全盛期だった。

 ホセ・マヌエル・モレノ、アドルフォ・ペデルネーラ、アルフレッド・ディ・ステファノなど傑出した選手たちが同時期に出現していた。メノッティが掘り起こしたのはこちらの伝統である。

 一方、ビラルドが踏襲した伝統は強固な守備、とくに球際の強さが印象的なアルゼンチンだ。むしろこちらのほうが伝統としては根強い。

 ブラジルが砂浜のフットボールなら、アルゼンチンは草原のフットボールとよく言われる。深い草でボールが止まるのでフィジカルコンタクトに強いという、それなりに根拠のある俗説だ。

 リベルタドーレス杯で優勝を重ねたエストゥディアンテスなど、インターコンチネンタルカップでは欧州側から敬遠されるほどファウルも辞さない厳しさで知られていた。メノッティはそんな1960〜70年代のイメージを一新したかったようだが、ビラルドは堅実で現実的な路線をそのまま継承した。

 メノッティが率いた1978年のアルゼンチンは、ダニエル・パサレラを中心とした小柄なDFばかり。ちなみに現在マンチェスター・ユナイテッドのセンターバック(CB)として活躍しているリサンドロ・マルチネスも小柄で、パサレラの系譜を継ぐアルゼンチンらしいDFと言える。

 攻撃は2人のウイングにケンペス、オズワルド・アルディレスのインサイドハーフというドリブラーをずらりと並べた編成。錐(きり)で穴を開けるようなドリブルと狭いスペースでの即興的な連係が鮮やか。その後のマラドーナやリオネル・メッシに受け継がれる鋭利さが印象的だった。

 ビラルドは対照的に守備型の選手をずらりと並べ、攻撃はマラドーナに全権を与えた。マラドーナの補佐としてホルヘ・ブルチャガとバルダーノを付け、マラドーナの守備の肩代わりと攻撃面でのサポートに当たらせた。

 残りはもっぱら守備である。マラドーナがその天才を発揮すれば1点や2点はもたらしてくれるので、それ以上失点しないチームを作れば優勝できる。実際、それで優勝した。

 1990年イタリアW杯でも、ビラルド監督のアルゼンチンは決勝まで進んでいる。ラウンド16のブラジル戦はビラルドのチームらしい勝ち方だった。ブラジルの猛攻に耐えながら、満身創痍だったマラドーナがドリブルでDF全員を引きつけてクラウディオ・カニーヒアへラストパス、これが決まっての1−0である。

 この一戦こそアルゼンチン国民の心を揺さぶるようで、その後年末にはこの試合が放映されるのが恒例になっていった。我慢に我慢を重ねての一発逆転。これが心の琴線に触れるのであれば、こちらが本来の国民性を表しているスタイルなのだろう。

ビエルサ統合型

 1994年アメリカW杯を率いたアルフィオ・バシーレ監督はメノッティ派だ。メノッティ監督がウラカンで名を成した時の選手だった。

 ガブリエル・バティストゥータ、カニーヒア、マラドーナのアタックラインにアンカーがフェルナンド・レドンドというオールスターチームだった。しかし、グループリーグを通過したところでマラドーナがドーピング検査に引っかかって出場停止となり、チームもラウンド16で敗退してしまう。

 1998年フランスW杯は、メノッティ監督のチームのキャプテンだったパサレラ監督だったが、プレーぶりはメノッティ派とビラルド派の中間ぐらいでやや中途半端。準々決勝でオランダに敗れた。このタイミングでメノッティ派、ビラルド派を統合する人物、マルセロ・ビエルサが現れる。

 緻密な戦術はビラルドと似ているが、3−4−3の攻撃的なスタイルはメノッティ的だった。果敢な攻撃と強烈な前進守備の組み合わせは、対立していた二大派閥を結び付けている。2002年の日韓W杯ではグループリーグ敗退という思わぬ結果となったが、それまでの道のりは順調で大会の優勝候補だった。

 その後を継いだホセ・ペケルマン監督は、もともと監督のオファーを断ってビエルサを推薦していた経緯がある。ユース年代で実績を残し、満を持しての代表監督就任である。ビエルサの後継型だが、フアン・ロマン・リケルメを中心としたメノッティ寄りのカラーだった。

 この2006年ドイツW杯のアルゼンチンは、優勝する力がありながら準々決勝でドイツにPK負けだった。ただ、この時にスーパーサブ的な役割を果たしていた19歳のFWがその後のアルゼンチンのスタイルを決定づけることになる。

「特別出演メッシ」のスタイル

 今年のカタールW杯は、メッシにとって5回目のワールドカップだ。まだ10代だったドイツW杯は別にして、その後の4大会はアルゼンチン代表のスーパーエースとして君臨してきた。

 最も優勝に近づいたのは2014年ブラジルW杯だ。当初は攻撃的なスタイルだったが、ノックアウトステージからはマラドーナがいた頃のチームを想起させた。結局のところ、アルゼンチンはメッシに頼ってきたわけだ。

 ただ、さすがに35歳になるメッシにすべてを託すわけにはいかない。しかし、それがちょうどいいバランスをもたらしているようにも見える。10人がハードワークしてメッシの一発に賭けるのは従来と同じようだが、そこまでメッシに頼れないこともわかっている。

 そこでメッシにすべてを任せるのではなく、基本は10人で戦って、メッシを強力なプラスアルファとして活用しようとしている。この違いはかなり微妙だけれども大きな差かもしれない。

 というのも、メッシ以外の選手でほぼ攻守が完結しているのだ。


アルゼンチン代表の主要メンバー

 システムはオーソドックスな4−4−2で、2トップはメッシとラウタロ・マルティネスだ。メッシの守備負担や運動量の部分はエネルギッシュなラウタロが肩代わりしてくれる。

 そして9人のフィールドプレーヤーは球際に強く、奪ったボールをキープできるキレのある技術を持つ。CBのオタメンディが前に出るなどマンツーマン的な対応もあり、背中を向けた相手にはガツガツと足を出す。

 攻守に渡る対人の強さという伝統が発揮されていて、高い位置でもボールをとれるので、固められた守備を崩す手間がある程度省けている。そしてこのゲーム展開にメッシはほぼ出てこない。最後のところで登場して決定的な仕事をするだけだ。

 メッシに何とかしてくれと頼る従来型との違いだ。エキストラなパワーとして加える。だから印象としてはFCメッシにはなっていない。主演メッシではなく、特別出演メッシという感じなのだ。選手寿命が延びて、エースが高齢化した時代の新しいモデルとも言える。

 ベースは球際の強さと局地戦の巧みなテクニック。ビエルサ後継型と言うには土着性の強いイメージなのだが、アルゼンチンらしい底力が期待できそうだ。