少年時代のロッテ睇瑛斗に「左打ち」を進言したのは松永浩美だった。今季の活躍にも「アキならもっとできる」
シーズン終盤を迎えるパ・リーグにおいて、2位に15差をつけるリーグ断トツの38盗塁、リーグ2位の131安打(9月12日時点)をマークしているロッテの郄部瑛斗(たかべ・あきと)。「走・攻・守」三拍子揃った外野手として、プロ3年目にしてブレイク。盗塁王のタイトル獲得をほぼ確実にするなど、今後の飛躍が期待される若手のひとりだ。
ロッテにとって欠かせない戦力になっている郄部を小・中学生時代に指導したのが、かつて"史上最高のスイッチヒッター"と呼ばれ、阪急・オリックス、阪神、ダイエー(現ソフトバンク)で活躍した松永浩美氏だ。現在は九州を拠点に野球教室で指導をしている松永氏に、郄部との当時のエピソードや現在のバッティングなどについて聞いた。
プロ3年目でブレイクし、盗塁王のタイトル獲得が確実視されているロッテの郄部
***
――郄部選手を指導し始めたのはいつ頃からですか?
松永浩美(以下:松永) 小学4年生の時からです。私が埼玉県で主催している週1回(月4回)の野球塾「松永浩美ベースボールアカデミー(MBA)」に、ひとつ年上のお兄さんと一緒に見学に来たのが最初ですね。そこから中学3年生までの6年間、兄弟で通っていました。アキ(郄部)は、小学生の時は「鶴ヶ島エンゼルス」、中学生の時は「越生ボーイズ」という野球チームに所属していましたが、それらとは別でうちの野球塾にも通っていたんです。
――当時の印象はいかがでしたか?
松永 うちに来る子は、めちゃくちゃ上手いか下手かの両極端な傾向があるんですが、アキ(郄部)は全然ダメでした(笑)。「僕のボールはどうして飛ばないんですか?」と泣きながら聞いてきたこともありましたね。ただ、そうやって泣きながらでも質問してくる時点で、「ちょっと他の子とは違うな」という印象はありました。
――練習への取り組み方はどうでしたか?
松永 素直に人の意見を聞いて、真面目に練習していましたね。例えば、チームでバッティング練習などをやると、打つ以外の守っている時間のほうがどうしても長くなってしまう。アキは当初、ただ外野にいて、打球が飛んできたら捕球するという機械的な動きをしていました。
それである日、アキに「俺だったら、守っている時間もムダにしたくないから、こう考えて時間を使うよ」という話をしたんです。そうしたら、ボールの捕り方などいろいろ工夫するようになって、アキは「練習がすごく楽しくなりました」と言っていましたね。かといって真面目すぎるわけでもなく、オン・オフの切り替えもうまかったですよ。
――現在の郄部選手は左打ちですが、最初からそうだったんですか?
松永 野球塾に入ってきた時は右打ちでした。ただ、右は見た瞬間に「ちょっと難しいな」と思いましたね。小さい頃から身につけてしまった、あまりよくないクセがあったので。左で振らせてみたら、そちらのスイングは素直だったので、「左にしたほうがいいんじゃない?」と進言しました。
――右打ちと左打ちで、具体的にどんなところが違いましたか?
松永 右で打っていた時は、同じ方向にしか飛ばなかったんです。フェアグラウンドは角度が90度あるのに、そのうちの20度ぐらいしか使えていませんでした。そうなると相手も守りやすいですよね。いくらボールを遠くに飛ばせても、限られた方向にしか打てないのはダメです。
それが左の場合は、打球がいろいろな方向に飛んだんですよ。打球の方向が広がるとヒットの確率も上がりますし、左打ちにすればアキはもっと野球を楽しめるだろうなと思いました。
――他に、どんなアドバイスをしたか覚えていますか?
松永 スポーツはどの競技であっても、"頭で思っていること"と"首から下の動き"にギャップがあるものなのですが、それに気づかない選手が多い、という話をしましたね。頭の中で整理できただけで、実際にプレーしている自分の姿を見てもいないのに、「できている」と判断してしまうんです。
そういう話をしたら、アキは「自分の打っているところを見てくれますか?」と言ってきて。それでバッティングを見て「ちょっと違うな」と伝えると、「違うのか......」という表情になりましたが、その「違い」をしっかり理解して、すぐに修正ができました。そういった修正作業ができる子は、私の印象では1割もいないと思います。
――突き詰めていく力があるということでしょうか。
松永 アキはそんなタイプですね。中学3年生の夏には、ボーイズリーグなどの活動が終わって、高校入学までに6、7カ月くらいの空白期間ができてしまった。そこで私は野球塾の中でチームを作って、夏以降も毎週土曜と日曜に練習試合などができる環境を作ってあげたんです。アキはそのチームに入って、1度も休むことがありませんでした。
――その後、東海大甲府高へ進学することになりますね。
松永 最初は東海大甲府高ではなく、野球塾で一緒にやっていた先輩が進んだ高校を希望していました。ただ、その先輩は「フライを上げるぐらいなら転がせ」といった高校での指導方法が合わずに、伸び悩んでいたんです。うちの野球塾では「転がせ」とは言わず、「強い打球を遠くに飛ばせ」と言ってきたので、ギャップもあったのかもしれません。
そういったことを聞いたアキやお父さんから、「バッティングフォームを変えないといけないなら、その高校への進学はやめたほうがいいですか?」「どこかありますか?」といった相談を受けました。それで「知っているところだったら......」と東海大甲府の村中秀人監督に電話を入れて、「一度見てもらえませんか?」と紹介したんです。それが、国士舘大学を経てのプロ入りへとつながっていく。アキが持っている"運"の強さですね。
――東海大甲府高では3年の夏に山梨県大会を制し、甲子園でも3試合で13打数4安打と活躍しました。
松永 高校1年生の1年間(練習試合、公式戦)で、200本近くヒットを打ったという話を聞いた時は、「それくらいのことはやるだろう」と思いました。これはアキのお父さんから聞いた話ですが、バッティングフォームは頑なに変えなかったようですね。
村中監督にも、「この打ち方でずっとやってきて、ある程度の実績もあるので、僕はこの打ち方を変える気はありません」と言ったらしいんですよ。のちに、村中監督から「あんなに信念の強い子は初めて見た」という話も聞きましたが、アキらしいなと思いましたね。
――その後に進んだ国士舘大では、東都大学リーグ2部で歴代最多の129安打を放つ活躍を見せました。
松永 大学入学当初は高校と大学のピッチャーの質の違いに苦労している様子も見られましたが、そういった壁を乗り越えていきましたね。
――その後、ロッテからドラフト3位で指名を受けてプロ入りするわけですが、その際は何か話をしましたか?
松永 ドラフト会議の当日や翌日に何回か電話があったのですが......私がちょうど野球塾をやっていて出られなかったんです。それでドラフト会議の翌々日にかけ直したら、「ドラフトでロッテから指名を受けました」と。「知ってるよ!だからどうした」って返しましたけど(笑)。
「おめでとう」という言葉は言ってないと思います。プロに入ることはアキの夢ではあったんですが、そこで終わりではないですから。野球塾の頃から「プロに入ったら終わり、と思うのは大間違いだよ」と伝えていましたし、プロでいい成績を残していくことを目標にするべきなので。
――今季の活躍をどう見ていますか?
松永 能力からすれば、もっとできると思います。「ここを直せばもう少し打率も上がるかな」という部分は何カ所かありますが、私が口を挟むことではないです。プロ入りした時点で所属のロッテ球団、監督・コーチの指導を仰ぐことが基本なので、私は幼い頃に関わったとはいえ線引きしていますし、技術的なことは言うべきではない。本人が気づいて、もっと打ち始めるようになるのはいつかな、という楽しみはあります。
――早いカウントから積極的にどんどん振っていくバッティングスタイルは、昔から変わっていませんか?
松永 変わっていませんね。当時から、あまりストライクを見送ることはしませんでした。試合でカウントが悪くても「待て」のサインを出したことがありません。とにかく打てと。バッターが有利なカウントで打ってミスをすることもありましたが、「どうやったら一発で仕留められるのか」と工夫しながら練習に取り組まなきゃいけないと伝えたこともありましたね。
――安打数は現在リーグ2位。盗塁はリーグトップです。
松永 先ほども話しましたが、アキはもっとできます。長打率も伸ばしてほしいですね。打席に入った時に外野手が後ろに下がるようになれば、外野と内野の間に落ちるポテンヒットも増えますから。
――4月6日の日本ハム戦では、ファウルと判断した飛球がフェアゾーンに落ちてチームがサヨナラ負けを喫し、涙を流す場面がありましたね。
松永 大事な場面でしたからね。泣く気持ちはわからなくもないですが、あれを引きずったらいけない。ただ、よくすぐに立ち直りましたよ。
西武球場(現ベルーナドーム)での試合だったと思いますが、私も同じように自分のエラーでサヨナラ負けした経験があります。試合が終わって、西武球場の階段を上って引き上げていく時のつらさ、バスの中の選手たちの雰囲気、ホテルで食事がノドを通らなかったことなどを思い出します。でも、その直後の試合の1打席目に三塁打を打って打点を挙げ、試合に勝った。その時の私も「切り替えなければいけない」と必死でしたね。
アキには今後も、いろいろな壁が立ちはだかると思いますが、どんな成長を見せてくれるか楽しみに見守りたいです。