晩夏の全米オープン会場に帰還した時、彼女の胸裏に蘇るのは、どのような感情だろうか----。

 ひとつは、郷愁。

 幼少期に会場近くのロングアイランドに住み、父親や姉とともにコートで練習もしたこの場所には、幼い日の思い出や夢がそこかしこに染みついている。


地元凱旋でリラックスした表情の大坂なおみ

 第20シードとして参戦した2018年には、頂点へと駆け上がり、センターコートで銀のトロフィーを頭上に掲げた。決勝で破った相手は、第17シードのセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)。彼女がラケットを手にしたその日から、無垢な憧れの目を向け続けてきた「アイドル」だ。

 2度目の戴冠は、2年前。コロナ禍と"ブラック・ライブズ・マター(黒人の生命尊厳運動)"にアメリカ全土が揺れるなか、黒人犠牲者の名入りマスクでコートに立ち続けた彼女は、無観客のセンターコートで頂点の空気を吸い込んだ。

 その栄冠から一転、昨年は3回戦で、当時18歳の新鋭レイラ・フェルナンデス(カナダ)に逆転負けを喫す。

「しばらく、テニスから離れます」

 涙ながらにそう宣言したのは、敗戦後の会見の席。彼女が再びコートに戻ってきたのは、年が明けた今年1月だった。

 そして、今シーズン。大坂なおみはここまでを「フィジカル的に多くの痛みに苦しめられた1年」だと振り返る。

「ナナ(トレーナーの茂木奈津子)にも言っているの。『私も歳をとったみたい。それともこれは"成長痛"かな』って」

 ジョークで会見の場を和ませるも、浮かべた笑みは、ぎこちない。実際に5月のクレーコートシーズンに入って以来、大坂はケガや痛みに苦しめられ、望むような成績を残せていないのが現状だ。

 5月のマドリード・オープンでアキレス腱を痛め、続くローマ大会は欠場。全仏オープンは初戦で敗れ、ウインブルドンを含む6月の芝シーズンはスキップした。

 満を持して出場した北米ハードコートシリーズだが、ここでも腰の痛みで満足なプレーはできていない。トロント大会の初戦で途中棄権し、続くシンシナティでも初戦敗退。3〜4月開催のマイアミ・オープンで準優勝して以来、彼女はここまで7試合戦い、掴んだ勝利はわずかふたつにとどまっている。

「チームなおみ」に大きな変化

 そのような停滞感を、なんとか打破したいと思ったのだろうか。大坂は今季、チーム編成を更新してきた。

 ひとつは、トレーナーの中村豊との決別だ。マリア・シャラポワに2度の全仏オープンタイトルをもたらした名トレーナーが"チームなおみ"に加わったのが、2020年の初夏。以降、中村は大坂とも2度のグランドスラム優勝の瞬間を共有してきた。

 その中村がチームを離れたのは、マイアミ・オープン後のことである。中村の力が最も必要とされるはずの、クレーコートシーズンに挑むタイミングでの別離であった。

 もうひとつの大きな変化は、コーチのフィム・フィセッテの離脱だ。大坂がフィセッテをコーチに雇ったのは、2019年末。"プロフェッサー"のニックネームを持つ理知的な戦略家は、大坂のテニスに新たな技術と、データに基づいた戦術理解度をもたらした。

 そのフィセッテと1カ月前に決別した理由を、大坂は次のように語る。

「私は、試合中に相手に対応するのが上手なほうだと思う。だから、どこに打つべきだとか、確率のことなどを言ってくる人が必要だとは思わない。今の私に必要なのは、自信を与えてくれる人」

 そう現状を分析する大坂が今、コーチとして身近に置くのは、彼女の父親。

 その理由を、「父は私のことを誰よりも長く知っている人物であり、私のテニスの上達もずっと見てきた」と語る彼女は、こうも続けた。

「私は、今を楽しもうとしているの。その助けを必要としている時に、父がそばにいてくれることに感謝している」

 今大会開幕を控えた会見で、大坂は幾度か「楽しみたい」の言葉を口にした。それはうがった見方をすれば、今の彼女が「テニスを楽しむのが難しい状態」だからかもしれない。

 身体の痛みのこともある。結果が出ていないがために、自信を失いつつもあるのだろう。実際に彼女は、会場での練習を振り返り「ものすごく不安になった」と告白する。

「ここではいつもいいプレーをしたいと思うのに、実際には最近、いいプレーができていないから」

 それが不安の主成分。加えて、「初戦の対戦相手がとてもタフなので、それも余計にプレッシャーを感じる理由」だとも明かした。

初戦相手との成績は3戦無敗

 大坂が警戒する初戦の相手は、地元アメリカのダニエル・コリンズ。今大会第19シードにして、今年2月の全豪オープン準優勝者でもある。

 もっとも大坂は、対コリンズ戦では3勝無敗と相性がよい。直近の対戦は半年前のマイアミ・オープン準々決勝で、この時も6−2、6−1で快勝している。

 実はこの時のコリンズは、首を痛めて満足にサーブを打てる状態ではなかった。加えるなら、彼女はウインブルドン以降も首のケガを理由に試合に出ておらず、この全米オープンが復帰戦となる。

 それでももちろん、コリンズが厳しい相手であるのは間違いない。その事実を踏まえたうえで、大坂は「まったく知らない相手よりも、わかっている選手と初戦で当たることになって、ちょっとホッとした」とも言った。

 ケガや不安を抱えてなお、2度の栄冠に輝いた全米オープン会場に足を踏み入れると、「また以前のようにいいプレーがしたい」と気持ちがたかぶるのだと言う。

「以前のようなプレーができるのか、それはわからない。それでも、少なくても勝負ができるレベルにはなりたい。今はとにかく、楽しみたい。だってここは、私が子どもの頃からいたいと思っていた場所だから......」

 まだ完全には噛み合わぬ心と体を抱えながら、彼女は、ここに来れば何かが起きる、という希望にかけているように見えた。

 大坂の初戦に用意された舞台は、センターコートのナイトセッション。世界最大のテニスアリーナが放つカクテル光線は、彼女の自信を照らすのか、あるいは引きずる影を深めるのか?

 最初の答えは大会2日目、現地時間の8月30日(日本時間8月31日)に示される。