工藤公康はプロ入り拒否→根本陸夫の強行指名で西武へ。石毛宏典が「うぬぼれが強い」と感じた左腕はいかにエースとなったのか
石毛宏典が語る黄金時代の西武(3)
工藤公康 前編
(連載2:清原和博は本当に「甘やかされていた」のか。ルーキー時代の素行と育成>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の清原和博に続く3人目は、長らく西武の先発投手陣の柱として活躍し、黄金時代を支えた工藤公康。プロ入り直後の工藤の印象や野球に取り組む姿勢などを聞いた。
プロ1年目で初勝利を挙げた工藤(右)と田淵幸一
***
――名古屋電気高(現・愛工大名電)時代の工藤さんは、3年時に1981年の夏の甲子園でノーヒットノーランを達成するなど、プロのスカウトから注目されていました。しかし、81年のドラフト会議直前にプロ入り拒否を宣言しましたね。
石毛宏典(以下:石毛) 一説によると、工藤は(社会人野球の)熊谷組野球部に入ることが決まっていたそうですが、当時の管理部長だった根本陸夫さんがドラフト6位で強行指名し、入団に至ったようです。
――プロ入り直後の工藤さんの第一印象は?
石毛 真っ直ぐとキレのある大きなカーブで三振を取っていたイメージです。当時、西武の監督に就任したばかりだった広岡達朗さんが「この子のカーブは使える」ということで、1年目から中継ぎで起用(27試合登板)していました。
性格としては、入団当初はうぬぼれが強いのかなと感じました(笑)。清原和博の場合は、プロ入り直後はどこか不安そうな表情をしていましたが、工藤の場合は勝ち気な印象で、よく口を尖らしていましたね。ちょっと虚勢を張っているような印象が残っています。先ほどお話したように入団の際にはいろいろあったようですが、そういう経緯を気にしているようにも見えなかった。「自分はプロでやっていくんだ」という自信がみなぎっていました。マウンドで「しっかり守ってくださいよ!」
――工藤さんは、高卒ルーキーながら開幕一軍ベンチ入りを果たしました。
石毛 そうですね。投手は東尾修さん、松沼博久さん・雅之さん兄弟、森繁和さんらがいて、左投手はあまりいませんでした。当時、工藤と歳の近い選手は一軍にはいなかったんじゃないかな。何年か後に、ナベちゃん(渡辺久信)が入ってきて、ベンチでよく一緒にいることはありましたが。
ナベちゃんも工藤同様に周囲を気にするタイプではなく、自信のある表情をしていましたし、1年目から一軍にいました。年齢や感性の近い投手が身近にいたことが、お互いにとってよかったのかもしれません。
――若い頃の工藤さんは、先輩に可愛がられるタイプでしたか?
石毛 投手の先輩である東尾さんは、たぶん工藤の力を認めていて、ご飯に連れていくこともあったようです。あと、工藤はちょっとヤンチャな一面があって、歳が離れた先輩にも物怖じしません。ピンチの時に僕がマウンドに行って、「頑張れよ!」と声をかけたことがあるんですが......「しっかり守ってくださいよ!」と、逆にゲキを飛ばされましたから(笑)
――石毛さんは内野を守りながら、工藤さんをどんな投手だと思っていましたか?
石毛 プロ入りして22、23歳ぐらいまでは真っ直ぐとカーブで投球を組み立てることが多かったのですが、24、25歳ぐらいに東尾さんからスライダーを教わっていた時期がありました。その影響なのかは定かではないですが、あれだけ落差があったカーブが落ちなくなってきて。そういった試行錯誤を繰り返しながら、投球を磨いていっていました。
あと、いつかのキャンプの時期だったと思うんですが、「広島の投手がキャンプで200球、300球を投げ込んだ」といった記事を新聞で目にして。その頃は僕も、工藤とたまに飲み食いするような関係になっていたので、その際に「カープの投手がこんなに投げ込んでるけど、お前は投げ込まなくていいのか?」って聞いたんです。
そうしたら工藤が「いや、石毛さん。肩は消耗品ですから、そんなに投げ込まなくていいんですよ」と。その頃は、中日や近鉄で投手コーチを務めていた権藤博さんの理論で、「肩は消耗品だから球数を制限しろ」というのが風潮としてあったので、その影響もあったのかもしれません。
――工藤さんといえば、キャンプでかなりの球数を投げ込んでいるイメージがありますが、その時は違ったのですね。
石毛 そうですね。考え方が変わったのは、結婚してからだと思います。工藤は26歳の時に結婚しましたが、奥さんは茨城県の鹿嶋市出身でした。以来、シーズンオフを鹿嶋で過ごすようになり、鹿島アントラーズや筑波大学の方々との交流もあったりして、トレーニング方法や栄養学を学んだんだと思います。
結婚の翌年くらいから投げ込みを始めたので、工藤に「どうしたんだ?」と聞いたら、「肩は消耗品じゃないんです」と以前とは逆のことを言ってきたんですよ。「僕は40歳を過ぎても140kmのボールを投げるような投手でいたいんです。鍛えればできるんです」とも話していましたね。そこから野球への考え方、野球人生が変わっていったんだと思います。
――工藤さんは、故障やケガをせずに野球を長く続けられるように、子どもたちの「野球肘健診」の重要性を説いていました。
石毛 工藤自身が肘や肩を故障して休んだ時期もありましたからね。投手は多かれ少なかれ、そのような故障はつきもの。それで、「なぜ故障してしまうんだ?」「故障を防ぐためにはどうするんだ?」「早く回復するためにはどんなことが必要なんだ?」と自問自答しながら、食事面やトレーニング面でいろいろなことを学んだんだと思います。そうしてインプットしたことを子どもたちに伝えたりすることで、学んだことを復習することができますしね。
――現役生活を29年間続けたことはとてつもないことですが、投球に対する探究心やケガや故障をしないトレーニングを追求したことが、現役を長く続けられることにつながったのでしょうか。
石毛 そうでしょうね。最後の最後まで真っ直ぐにこだわって、自分のピッチングを貫いた投手はなかなかいないでしょう。山本昌(元中日)やヤクルトの石川雅規なんかは軟投派で、速球ではなく打ち取る術を磨いていくタイプですが、工藤の場合は常に真っ直ぐにこだわっていました。
高卒でプロ入りしてすぐに一軍で投げて活躍し、真っ直ぐをずっと磨き続け、どれだけ年齢を重ねても140kmは投げ続けたいという気持ちがあったんだと思います。
(後編:ダイエーにFA移籍した工藤公康の「ダメ出し」で城島健司も一流に。型破りの「新人類」は、常勝イズムの伝道者となった>>)