愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【後編】

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前編のあらすじ

一本の矢から、あわや鎌倉を火の海にしかねない大喧嘩を起こしてしまった三浦家村(みうら いえむら)と上野十郎(こうずけ じゅうろう。結城朝村)。

執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の仲裁によって何とか合戦だけは防げたものの、一歩間違えば大惨事でした……。

前回の記事

武は平和を守るための力……泰時、豪族らを叱りつける

駿河四郎式部大夫家村。上野十郎朝村。被止出仕。昨日喧嘩。職而起自彼等武勇云々。凡就此事。預勘發之輩多之。雖非指親昵。只稱所縁。相分兩方。与本人等同令確執之故也。又北條左親衛者。令祗候人帶兵具。被遣若狹前司方。同武衛者。不及被訪兩方子細。依之前武州御諷詞云。各將來御後見之器也。對諸御家人事。爭存好悪乎。親衛所爲太輕骨也。暫不可來前。武衛斟酌。頗似大儀。追可有優賞云々。次招若狹前司。大藏權少輔。小山五郎左衛門尉。被仰曰。互爲一家數輩棟梁。尤全身可禦不慮凶事之處。輝私武威好自滅之條。愚案之所致歟。向後事。殊可令謹愼之由云々。皆以敬屈。敢無陳謝云々……

※『吾妻鏡』仁治2年(1241年)11月30日条

さて、翌11月30日。騒動の原因として家村と上野十郎は謹慎処分を命じられます。

謹慎を申しつけられてしまった家村(イメージ)

「そなたが矢など射込んだせいぞ!」

「何を吐(ぬ)かす、そなたがさっさと矢を返せばこんなことには……!」

ちなみに、北条経時(つねとき。泰時の孫)は三浦に肩入れしようと(あるいは要請を受けて)軍勢を派遣。武力で脅しをかけて判決を有利にしたかったのでしょう。

一方、北条時頼(ときより。経時の弟)は三浦・小山のどっちにも味方せず「あくまで道理を訴えれば済む話。武力に頼っちゃいけません」とばかり突っぱねます。

これを聞いた泰時は、経時を叱りつけて謹慎を命じ、公正な態度を貫いた時頼に褒美を約束しました。

続いて三浦一族の代表として三浦泰村と、小山一族の代表として結城朝広と小山長村を呼んでりつけます。

「そなたたちは強大な武力を有しておるが、武とは平和を守って民を安んずるためのものであり、決してつまらぬ喧嘩に身を滅ぼし合うためのものではない。此度あえてそなたらは罰せぬが、今後のために『よくよく考えて』行動せよ。よいな」

仁者無敵を体現したような北条泰時。栗原信充筆

何だったら、そなたらまとめてこの北条が滅ぼしてやろうか……こよなく平和を愛するけれど、ひとたび戦さとなれば断じて退かぬ。そんな泰時を前に、三巨頭は平服せざるを得ませんでした。

「「「ははあ……っ!」」」

なお、家村たちの謹慎は翌12月5日に解除され、再び忠勤に励んだということです。

宝治合戦を生き延びて、三浦の家名を守り抜く

とまぁ何かと血の気の多い三浦一族。しかしやがて泰時が亡くなり、執権が北条経時から北条時頼に代替わりして間もない宝治元年(1247年)6月5日、三浦一族は北条時頼によって攻め滅ぼされてしまいました(宝治合戦)。

「最早これまで。武門の習いとて自分の死は覚悟していても、代々受け継いできた三浦の家名を絶やすのは残念でならぬ……」

そこで泰村は家村に対し、戦場からの脱出を命じます。

「嫌だ、それがしも最期まで戦う!何より一族と仲間を見捨てて逃げられるものか!」

「その気持ちは解るが、どうか一族と仲間のためと思って、ここは三浦の家名を守り抜いてほしい」

炎上する頼朝法華堂を後に鎌倉を脱出(イメージ)

かくして家村は敵の包囲を掻いくぐって鎌倉を離脱。後に当局の追手から時間を稼ぐために、兄・光村は適当な首級を見繕ってその顔面を判別できないようズタズタに切り裁ちました。

続いて光村自身も「敵に死顔を見せたくないから」と、かねて美貌で知られたその顔をズタズタに切り裂いた挙げ句、自刃して果てます。

果たして6月6日に三浦一族の首級が首実検に出された時、光村と家村の首級については本人と断定できず、調査が続けられました。

「……これは駿河四郎(家村)ではない!」

首級を丹念に調査すること2日間。光村の方は何とか本人と特定できたものの、家村の首級についてはついに調べきれなかったのか(あるいは何か決め手が見つかったのか)、家村の首級は影武者と判断。6月22日の最終報告では「存亡不審(生死不明)」とされます。

「おのれ、してやられたか!」

今さら地団太を踏んだところで家村はとっくに鎌倉を離れ、三河国碧海郡重原荘(現:愛知県刈谷市)に潜伏してその命脈を後世に伝えたのでした。

終わりに

頼経将軍につかへ、宝治元年兄若狭守泰村が謀反にくみし、六月五日一族みな自殺のときにのぞみて、泰村名族の一時に亡むことを憂ひ、ひそかに家村に命じて後裔をたもつべしとなり。家村遺訓によりて其所を遁れさり、諸国を経歴してのち三河国に閑居す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百二十一「平氏 良文流 三浦」より

【三浦氏略系図】
為通(三浦初代)−為継(ためつぐ)−義継(よしつぐ)−義明(よしあき)−義澄−義村−家村−義行(よしゆき)−行経(ゆきつね)−朝常(ともつね)−朝胤(ともたね)−正胤(まさたね)−重明(しげあき)−正明(まさあき)−重村(しげむら)−正村(まさむら)−正重(まさしげ)−正次(まさつぐ)−安次(あきつぐ)−明敬(あきひろ)−明喬(あきたか)−義理(よしさと)−明次(あきつぐ)−矩次(のりつぐ)−前次(ちかつぐ)−毗次(てるつぐ)−誠次(のぶつぐ)−峻次(としつぐ)−義次(よしつぐ)−朗次(あきつぐ)−弘次(ひろつぐ)−顕次(たかつぐ)……明治維新

明治維新を迎えた美作国勝山藩主・三浦顕次(画像:Wikipedia)

かくして三河国へと移り住んだ家村がどのような最期を遂げたのか、それを伝える史料は残念ながら残っていないようです。

宝治の壊滅より数百年の歳月を経た戦国時代、三浦正重(まさしげ)が土井利昌(どい としまさ)の娘を娶り、やがて徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えます。その子・三浦正次(まさつぐ)は徳川秀忠(ひでただ)に仕え、いっとき三浦から土井に苗字を改めましたが、やはり伝統ある家名を絶やしてはなるまいと再び三浦姓に戻しました。

正次は大名に昇格し、明治維新を迎えるまで三浦の家名を守り抜いたのです。家村の子孫たちは令和の現代も生きており、その誇りを受け継いでいます。

【完】

※参考文献:

細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年11月