法律でのいじめの定義は「被害者がいやだと思ったらいじめ」というもの。セクハラやパワハラ同様、必ずしも犯罪行為と同一とは限らない(写真:paylessimages/Getty Images Plus)

法律は、大人だけでなく、子どもにも役立つもの。いじめや虐待に悩んでいる子どもにとっては、自分の心身を守る知識となる場合もあるでしょう。しかし、法律を正しく理解することは簡単ではありません。

法律を学ぶために大事なこととは。大切な子どもを守るために必要な考え方とは。『こども六法ノベル その事件、こども弁護士におまかせ!』が話題を呼んでいる、山崎聡一郎氏が解説します。

法律の文章を小学生向けに「翻訳」 大人の読者が多いワケ

皆さんは「六法」を読んだことはありますか? 

学校で習った日本国憲法を除けば、ほとんどの方の答えがNOだと思います。私たちは法の下で生活しているのに、その法律に関してはまったくといっていいほど知らないのです。

しかし、それも無理はありません。

なぜなら法律は非常にわかりにくく、読みにくいからです。法律用語には必要十分な意味がすべてのせられているために、用語の正しい理解が、法律を理解する前提となってしまっています。法律の文章というのは、読解以前に専門的な勉強がある程度必要となることから、みんなのためのものでありながら事実上、専門家のものになってしまっているのです。

しかし困った状況に陥ったとき、法律の知識は大いに役に立ちます。法律を知っていれば、自分の権利を守るヒントを得ることができるからです。そしてそれは大人だけでなく子どもも同じです。特にいじめにあっている子どもや周りの大人は、知っておくとよいこと、そして知っておかなければならない知識が法律には盛り込まれています。

しかし、大人であっても法律を読むのは難しい。「法律はみんなのためのルールなのに、みんなにわかるように書かれていない」。そんな状況を解決するためにスタートしたのが、法律の条文を子どもでも読める文章に書き換えるという「こども六法プロジェクト」でした。

このプロジェクトを始めたのには、理由があります。

私自身、小学5年生から6年生にかけて手首を骨折するほどの壮絶ないじめを受けていました。にもかかわらず、中学に進学した際にはいじめの加害者になってしまった。そしてそんな自分自身に衝撃を受けました。いじめ問題の複雑さを体感し、いじめを減らすために何かできることはないかと考えてたどり着いた答えが、「こども六法」を作成するということでした。スタートしたのは大学時代ですが、現在では関連書籍の出版だけでなく、体験型の学びとしての「こども六法すごろく」などを作成しています。

子どもの「いじめ」と大人の「セクハラ・パワハラ」の関係

いじめと法律という話になると、多くの人が暴力などの犯罪行為と結びつけて考えます。しかし、いじめと犯罪は別物です。法律でのいじめの定義は、「被害者がいやだと思ったらいじめ」というものです。被害者の感じ方が重要である点はセクハラやパワハラと同じです。そしてセクハラやパワハラが起きないように会社に監督責任があるのと同じように、学校はいじめが起きないように生徒を指導しなければならない責任を負っています。まずはこの部分を理解しておく必要があります。

いじめと犯罪は別とはいえ、もちろん「いじめであり、犯罪である」ということはあります。相手を殴ってケガをさせるなどがそうです。裏を返せば、こういった暴力に該当しない行為など、態様によっては犯罪にはならないいじめも多くあるわけです。例えば集団で無視をするなどは、犯罪にはなりません。つまり「いじめ=犯罪」と考えていると、無視したり、悪口を言ったり、にらんだりといった、認識からこぼれ落ちるいじめが生じてしまいます。これらが「犯罪じゃないから」という理由で横行したら、被害者は追い詰められてしまいます。

ですから「いじめと犯罪はまったく別物だ」ということを、子ども自身も周りの大人も、ちゃんと理解しなければいけないのです。「みんなで無視しているけど、犯罪じゃないからいじめじゃないよね」といったことが起こらないように、犯罪としては対処できないけれども、苦しんでいる子どもを救うために、法律で決められたいじめの定義があるのです。

いじめは犯罪」と考えすぎたり、「いじめを法律で解決する」という考えが行きすぎている保護者の中には、法律を盾に学校へ乗り込んできたり、「絶対に裁判にしてやる」と、何が何でも裁判で決着をつけようとする方もいます。

しかし裁判というのは、まず時間がかかります。実際5年以上争っている裁判もあります。大人にとっての5年はたいしたことはないかもしれませんが、子どもにとっての5年というのは、小学生時代のほぼすべて、中学・高校なら卒業してしまいます。いじめ裁判を争っているうちに学校生活が終わってしまうとしたら、子どもにとってはメリットよりもデメリットのほうが多いはずです。

結局子どもが一番長い時間を過ごすのは学校なので、基本的には家庭と学校で協力し合って解決することが理想です。その可能性を、法律の誤解によって摘んでしまってはなりません。もちろん、通っている学校や教員が隠蔽体質である場合など、悪質なケースではやむをえず法律によって争う必要があるかもしれませんが、法律が必要になるのはどんなシーンなのかということを状況に応じて慎重に検討しなければならないのです。

この判断のすべてを保護者だけで行うのは、深刻なケースであればあるほど難しくなるでしょう。そんなときに弁護士のような法の専門家が力になってくれるのですが、そのような状況に陥った際に弁護士に相談するかどうかを判断する手助けをしてくれるのが、最低限の法律の知識なのです。

被害者も加害者も紙一重 どんな方法を選択すべきか

お子さんは被害者だけでなく、加害者になる可能性もあります。被害者と加害者は結構紙一重なところがあるからです。

例えば、「ふざけてよだれをみんなにこすりつけていた子を集団で無視したら、無視した子たちが加害者とされた」というようなケースを考えてみましょう。道徳教育だと「いじめられている人がかわいそうだから、ダメ」という話になりますが、「よだれをこすりつける子なんてかわいそうでもなんでもない」と感じる子が多ければ、「相手が悪いんだからいじめていいじゃん」となってしまうでしょう。

それに加害者となった子たちにも、「なんでこっちが加害者にされなければならないんだ」という不満が残ります。このような場合、道徳だけでは限界があります。

そういったときには、ロジカルに考えることが大切です。「相手にやめてほしかったんだよね?」「みんなで無視する以外に、方法はなかった?」「どんな方法を取ったら、いじめにならなかったんだろう?」。


そんなふうに、「問題解決のためにとった行動が間違っていた。無視じゃダメだった」というところにまで落とし込めれば、同じようないじめは起こらないはずです。

大切なのは、相手の子どもによだれをこすりつける行為をやめて欲しいと伝えることだったはずです。直接相手に伝えたり、どうしてそのような行為をしてしまうのかを探ったり、先生に相談したり、いじめ行為以外に取れる手段を検討できるようになることが、自分と相手の両方の権利を守れるようになることです。

世の中には「いじめは被害者にも原因がある」という言説があふれていますが、法律はこれを明確に否定しています。法定手続きの保障、あるいは私刑の禁止と呼ばれる原則です。ロジカルな問題解決の考え方は、唯一の方法とまでは言わずとも、法律から効果的に学ぶことができるのです。

子ども自らが、「いじめだと非難される行為を選択してしまった。次からは別の方法を考え、同じ選択をしないようにしよう」というところに到達するように支援していくのが、保護者と学校の務めです。いじめの解決は、思考を整理する手伝いでもあります。「法律でダメって書いてある行為をしたからダメ」といった単純な話で終わらせてはなりません。そんなふうに教えたら、法律に書いてない行為でのいじめが増えるだけです。

多様な人と生きるために

そもそも法というのは、異質な他者と誰もが平和に暮らすことができるような社会を実現するために作られてきたという歴史があります。法律が発展してきたのは、多文化・多言語・多民族の社会でした。日本もこれから国際化が進み、外国をルーツとする人の数は学校のみならず増えていくわけです。

もちろん日本人どうしでも、価値観は多様化しています。そういった意味においても、子どもの頃から法律の考え方に触れ、対立が起きたときに適切な方法がとれるようになっておくことは重要です。そうすることは、ひいては自分自身を守ることにもなるのです。

(構成:黒坂真由子)

(山崎 聡一郎 : 教育研究者、ミュージカル俳優)