「仕事をしながらサッカー選手をしていた」9人のスター

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サッカー選手だけで食べていけるのは、数少ないトップレベルのリーグでプレーしているわずかな者のみ。他のカテゴリでは暮らせるだけの報酬を得ることは難しい。

今回はそのキャリアの中で「他の仕事をしながらサッカーをやっていた」選手たちを『Squawka』から紹介する。

リッキー・ランバート

サウサンプトンで活躍を見せ、その後ユース時代に所属した愛するリヴァプールへと移籍することになったリッキー・ランバート。残念ながらそれから彼のキャリアは衰退してしまったが、ベテランになってから急激に注目された「遅咲き」として有名になった。

彼が2001年にマックルズフィールド・タウンでプレーしていたとき、彼はテーブルビートの瓶詰め工場で働きながらサッカーに取り組んでいた。

ピーター・シュマイケル

カスパー・シュマイケルの父親であり、マンチェスター・ユナイテッドのレジェンド。伝説的なゴールキーパーである彼がプロとなったのは1987年で、それまでは労働者であった。

ケアホームでの清掃員や世界自然保護基金のセールスマネージャーとして働いたあと、ブレンビュに加入したことで選手としての飛躍を遂げ、それからはまさに王者の道を歩んでいった。

ミロスラフ・クローゼ

2002年のワールドカップで大ブレイクを果たしたドイツ代表の名ストライカー。同国の得点記録を更新し、ワールドカップの大会史上最多ゴール記録を持っている。

ポーランドで生まれた彼はプロデビューが1998年。カイザースラウテルンに加入するまでは見習いの大工として働いていた。

カルロス・バッカ

ミランでは本田圭佑とともにプレーしたことで知られるコロンビア代表ストライカー。彼は若い頃セミプロの立場だった経験があり、アトレティコ・ジュニオルスに所属していたときにはバスの車掌助手として働いていた。

ベルギーの名門クルブ・ブルッヘで活躍し、それからセビージャ、ミラン、ビジャレアル、グラナダと所属。往年は必ずシーズン15ゴール以上は決めてくれる頼れるFWだった。

ジュニオール・メシアス

今季ミランへと加入したブラジル人ストライカー。イタリアの下部リーグで長くプレーし、30歳でようやくビッグクラブにたどり着いたという叩き上げの遅咲きだ。

彼は若くしてイタリアへと渡ってきたが、そのときは選手として来たわけではなかった。ペルー難民のチームでプレーしながら、平日は冷蔵庫の配達を行っていたという。

チャーリー・オースティン

レディングのユースから放出されるというショッキングな経験をしたあと、プールタウンという下部リーグのクラブでキャリアを再開。オースティンはそこで煉瓦工として働きながらプレーすることを決めた。

その後スウィンドン・タウンが彼にプロ契約を申し出たことでチャンスを掴むと、ゴールを量産して注目を集めた。バーンリー、QPRでさらに成功を収め、20代後半でプレミアリーグまでたどり着いた。

ジェイミー・ヴァーディ

現在ではもはやレスター・シティのエースとして絶対的な存在になったヴァーディ。彼はアマチュアリーグから発掘された選手として非常に有名な存在だ。

ノンリーグでプレーしていたとき、彼は医療用のカーボンギプスを作るための工場で労働者として働いていた。サッカーで結果を残すことによって徐々にカテゴリを上げ、イングランド代表まで上り詰めた。

フリオ・クルス

インテルで長く活躍したことで知られているアルゼンチン代表ストライカー。彼のあだ名は「エル・ハルディネロ」。その意味は「庭師」である。

それは若い頃故郷のクラブであるバンフィエルドでグラウンドキーパーとして仕事をしていたことに由来している。トップチームの選手が怪我をしたことで練習試合に起用され、そこで活躍したのがブレイクのきっかけだったという。

シャカ・ヒスロップ

リヴァプールなどでプレーしたことで知られているトリニダード・トバゴ代表GKのシャカ・ヒスロップ。彼は非常にインテリな選手として知られている。

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ワシントンにあるハワード大学で学んでいた彼は、あのNASAでインターンをしていたという秀才だった。エンジニアとしてのキャリアも選択できる中、サッカー選手としての道を志したのだ。