建造当初は戦艦だった旧日本海軍の「日向」が1917年の今日、進水しました。「超ド級戦艦」も、戦局の悪化から一部を飛行甲板に改装し、世界で例無き「航空戦艦」に生まれ変わりました。しかし、救世主とはなりえませんでした。

同型艦は「伊勢」のみ

 1917(大正6)年の1月27日は、旧日本海軍の戦艦「日向」が進水した日です。当初は同型艦「伊勢」とともに扶桑型戦艦として竣工する予定でしたが、設計変更が加えられ、伊勢型戦艦の2番艦となりました。

「超ド級戦艦」とされた「日向」は、35.6cm連装主砲を6基装備する点などは扶桑型と変わりませんでしたが、全長は約210m、基準排水量は約3万5300トンと扶桑型を上回り、長門型戦艦が登場するまで日本最大級でした。しかし「日向」は太平洋戦争が始まると、「伊勢」とともに世界でほかに類を見ない航空戦艦へ姿を変えることになります。


1930年頃の戦艦「日向」(画像:アメリカ海軍)。

 1942(昭和17)年5月、「日向」は主砲の射撃訓練中に、船体後部にあった第5砲塔で爆発事故を起こしてしまいます。さらに翌6月のミッドウェー海戦で、海軍は主力空母を4隻失うと、航空戦力を増強するために空母を量産する必要性に迫られました。そこで目を付けたのが、旧式艦になりつつあるうえ爆発事故で砲塔の一部が取り除かれていた「日向」でした。

 当初は空母として全面的に姿を変える計画もあったものの、時間的な都合から船体後部のみの改装にとどめます。こうして「日向」は第5、第6砲塔を撤去して飛行甲板とカタパルトを設置し、1943(昭和18)年に「伊勢」とともに航空戦艦となりました。一見すると、戦艦としての砲撃力と航空機の運用能力を併せ持った万能艦に思える内容です。

 しかし実際は、主砲の射撃時は飛行甲板が使えない、格納庫が主砲の旋回角度を限定してしまう、飛行甲板により艦の重心が上に偏る(トップヘビー)など、数多くの不具合を抱えていました。加えて、何よりも敗色濃くなるなか搭載する艦載機がそもそもなく、こうした理由から「日向」は想定された運用を十分にできなかったとされています。

 1944(昭和19)年10月、「日向」はレイテ沖海戦に参戦。しかし広い面積を有する飛行甲板を用いて物資運搬に従事するくらいで、大きな戦果を挙げることなく日本へ帰還します。

 1945(昭和20)年に入ると燃料が欠乏し、「日向」は広島県の呉軍港に留め置かれることが多くなりました。船体後部に広がる飛行甲板には対空兵装が増設され、専ら砲台のようでした。

 終戦直前の1945(昭和20)年7月末、「日向」は「伊勢」とともに呉軍港でアメリカ軍の空襲を受け大破着底。終戦後に2隻とも浮揚・解体されました。