(写真提供:NASA/ZUMA Press/アフロ)

2021年5月、民間の「スペース X 」社が開発した宇宙船で宇宙へ行った初めての日本人として地球に帰還した野口聡一さん。地上から400km離れた宇宙での滞在中、野口さんは毎朝地上から指示を受けて仕事をこなしていました。それは、まさに "究極のテレワーク"。国際宇宙ステーションは、"究極の職住接近" だと話します。『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』から一部抜粋・再構成してお届けします。

師匠と呼べる3人の存在

わたしは3度の宇宙飛行を経験するなかで、「どうしてわたしは宇宙に行くのか」といつも自分に問いかけていた。この一種の哲学的ともいえるテーマを考えるようになった背景には、師匠と呼べる3人の存在がある。

ひとり目はジャーナリストの故・立花隆さん。高校生だったわたしを宇宙飛行士の世界にいざなってくれた『宇宙からの帰還』(1983年)をはじめ、立花さんは一貫して宇宙飛行士の強烈な宇宙体験が人間の内面世界にどういう影響を与えるかを追究していた。実際にわたしが宇宙から戻ってから直接お話しする機会に何度も恵まれたが、「生と死」の境界線を見極めようとする真摯な姿勢に感銘を受けたのを覚えている。

もうひとりは、先輩の毛利衛宇宙飛行士。地球環境や生命のあり方を深く考察し、『宇宙から学ぶ――ユニバソロジのすすめ』(2011年)という一冊を著している。

3人目は、公益財団法人「国際高等研究所」(京都府木津川市)フェローだった木下冨雄京都大学名誉教授。これからお話しする「宇宙での心身の安定」について研究を指導してくれた恩師である。

わたしが1回目の宇宙飛行(2005年)を終えたころから、JAXAでは国際高等研究所と共同で、哲学や心理学、宗教学といった人文・社会科学の視点を取り入れて「人間と宇宙」をテーマに研究を行っていたことがある。この中で、「いかにして人間は宇宙で安定するのか」という研究課題が持ち上がった。

地上では心身の安定は重力の影響を大きく受ける。座禅のポーズを思い浮かべるといい。その姿はおよそ三角形で、足を組んでできた底辺があり、その底辺の中心点からまっすぐ上に伸びた位置に頭がある。

つまり、頭からお尻の辺りまで貫く体の軸が、足を組んでいる地面に対してまっすぐ立っていて、重力ベクトルと一致している。こうなると体は安定した状態になり、それに伴って心も安心感を覚え、安定につながると考えられる。

では、重力ベクトルが効かない宇宙の無重力空間ではどうか。わたしは2度目の宇宙飛面に落下したものと思い、つい頭を手で覆ってしまったのだ。

実際には、浮遊した体は頭の右側から壁面に向かってゆっくりとぶつかっただけだった。だが、心の内では「首を骨折したんじゃないか」と恐怖を感じていた。

このように、宇宙空間では、体の軸が決まって安定した状態にもかかわらず、地上とは勝手が違い、決して内面の安定には寄与しないことがうかがえた。

地上のテレワーク環境ではどうだろう。外界の騒音をシャットアウトし、ひとりで家の中にこもった状態にあるとき、確かに見慣れた空間にいれば、体は安定するのかもしれない。しかし、心は不安定になる。おそらく、目を閉じて宇宙空間を漂ったときの不安な気持ちと相通じるような気がする。

心の安定とは、身体的な問題よりも、ほかの人とつながっているという気持ちの問題に帰着するのかもしれない。逆に、煩わしい人と付き合うのを遮断することが安定を得る近道のことだってある。いずれにせよ、この問いかけには悩みが尽きない。

マインドフルネスの極意

アメリカで注目されている考え方に「マインドフルネス」(mindfullness)がある。これは、瞑想行為などを通じて脳をストレスから解放し、集中力をアップさせてさまざまな人間活動のパフォーマンスを向上させるというもの。ビジネス界や医療現場で話題になり、瞑想を社員の研修に導入している企業も出ているという。

こうした解説を聞くと、マインドフルネスとは日本語の感覚でいう「雑念を払う」「心を空っぽにする」と受け止められがちになる。

ところが、英語のマインドフルネスを「雑念を払う」という意味に捉えると、ストンと心に落ちてこない。なぜなら、マインドがフル状態になっているなら、頭の中は雑念でいっぱいになっているように聞こえるからだ。

おそらく、マインドフルネスとは、心が満たされて、良好な状態になっていることを指すのだろう。もう少し踏み込んで考えてみたい。

わたしがお寺で座禅を組んだときのこと。目を閉じて、雑念を追い払おうとするのだが、「今日この後、何時の電車だっけ」とか「週明けに面倒な会議があるなぁ」と余計な考えが浮かび、なかなか雑念は離れてくれない。「集中、集中」と言っているうちは何も始まらない。そんなかけ声自体が雑念なのだ。

そうこうしているうちに、モヤモヤと心を覆っていた雑念の黒雲をスーッと一陣の風が駆け抜けたかのように、ふと、雑念から抜けられる瞬間がある。

そのときだった。それまで聞こえなかったお寺の外の風の音が聞こえてくる。あるいは、本堂の端っこから漂ってくるかすかな線香の香りも明確に嗅ぎ取ることができるようになっている。

あらゆる知覚が覚醒され、周囲のささやかな刺激もどんどん吸収できる状態。五感がフルに働いて、周りの状況をあるがままに把握できる。もしかすると、これがマインドフルネスという状態なのではないだろうか。

宇宙飛行士は「シチュエーショナル・アウェアネス」(situational awareness)という言葉を好んで使う。「周りの状況をしっかり理解し、把握しておくこと」という意味だ。頭をすっきりさせて、周りの状況をあるがままに受け入れられる状態にしておく。そこから柔軟な発想が生まれ、新しいアイデアが生み出される。まさに、マインドフルネスに通じる考え方が宇宙の世界にもある。

宇宙で楽しめる本と音楽

今回の宇宙滞在では、パソコンでストリーミングができる環境に恵まれたので、オンライン上で本や動画を楽しんだ。最近は便利なもので、ネットで見逃し配信の仕組みが整っていて、日本のテレビ番組だって観ることができる。金曜の夜は食卓を囲んでみんなで映画を観るムービーナイトも楽しんだ。宇宙関連の映画もあれば、ディズニーチャンネルで映画「アベンジャーズ」のようなヒーローものやコメディまでジャンルを問わず観たものだ。

一方、わたしが宇宙に持参した書籍は、読書をしたいというよりも、手元に置いておきたい思い出の本ばかり。1983年に出版されて高校生のわたしを宇宙飛行士の世界にいざなってくれた立花隆『宇宙からの帰還』初版本。そしてスティーブン・ホーキング博士『A Brief History of Time』(邦訳『ホーキング、宇宙を語る』)の英語初版本は、ブラックホールについて書かれたもので大学時代に衝撃を受けた本だった。

ほかに、岡倉天心『茶の本』と世阿弥『風姿花伝』。わたしは1回目の船外活動をめぐって人間の「所作」について考えるところがあった。そこで、再び宇宙に行くにあたって日本人の古来の知恵はないかと考え、ひとつは茶の世界、もうひとつは能の世界と思い、2冊を持参した。

そして音楽。今はストリーミングの時代なので、パソコンを使っていろいろな曲を聴き流すことができた。日本実験棟「きぼう」で終日ひとりになって作業をするときは、モーツァルトを流すようにしていた。心が落ち着いて、作業に身が入る。

ロシアのチャイコフスキーもプロコフィエフも大好きだが、とくにプロコフィエフの曲をかけているとつい力が入り、気が散っちゃって仕事にならない。盛り上がって、自分で指揮まで始めてしまう。だから、邪魔にならないモーツァルトがいい。

その対極になるが、日本人女性3人組・Perfumeのエレクトロポップもよく聴いた。Perfumeの曲を流していると、ほかのクルーたちが近くを通るたびに寄ってくる。わたしがクラシック好きだと思ってやってきたら、ポップな曲を聴いているものだから、「何これ。いいじゃん!」とノリノリになったのを覚えている。

国際宇宙ステーションにやってきた当初はなかなかうまく睡眠がとれなかった。旅行と同じ理屈で、慣れない枕ではなかなか寝付けない。睡眠時間は究極のリラックスタイムだから、心身ともに落ち着かないと眠れないものだ。しばらくは浅い眠りの日が続き、ぐっすりと眠れるようになるまでに2週間はかかった。

わたしの寝室は、居住モジュール「NODE2」にある個室。電話ボックスひとつ分くらいのこぢんまりとした空間である。観音扉になっていて、閉め切ると外部の音がほとんど聞こえない。それでも宇宙船内には機械が多いから、どうしても騒音や光が気になるクルーは、眠るときに耳栓とアイマスクを着用している。

寝袋は個室の壁面に貼り付くように置かれている。両手も外に出せるから身動きがしやすい。密着バンドで体を固定することもできる。枕付きだ。

寝具そのものは、あまり凝る必要はないとわたしは思っている。無重力だから背中が当たって体を痛めることもないし、空調のおかげで寝汗もさほどかかない。地上の寝具のように、クッション性や通気性を追求する必要は、ここ宇宙空間ではあまり感じられない。

寝坊することがあってもいい


それよりも、寝られるときに眠ることが、何より大事。寝坊することがあってもいいと思う。朝礼が始まって慌てて起きてくるクルーもいる。「あれ、なんで寝坊しちゃったんだ」みたいに言い訳して顔を出してくる。そんなことがあったっていい。

休日は、人によって、昼まで寝ていることもある。寝られるときにしっかり眠っておく。いざというときのための鉄則だ。

ちなみに、宇宙滞在中の日課に「昼寝」は取り入れていないのだが、地上ではどんどん導入したらいいと思っている。パワーナップ(power nap)といって、昼下がりの時間帯に積極的に仮眠をとると、午後の作業効率が上がることもいろいろな研究から明らかになっている。日本の企業でも取り組んでいるところがあるようだ。短くてもいいから、時間を見つけて眠れる工夫はあっていい。