稲村亜美の告白。イップスの苦悩「私にとってはダメージが大きかったです」
『特集:We Love Baseball 2021』
3月26日、いよいよプロ野球が開幕する。8年ぶりに日本球界復帰を果たした田中将大を筆頭に、捲土重来を期すベテラン、躍動するルーキーなど、見どころが満載。スポルティーバでは2021年シーズンがより楽しくなる記事を随時配信。野球の面白さをあますところなくお伝えする。
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始球式で多くのファンを魅了してきた稲村亜美さん
稲村亜美さんは笑顔を絶やさぬまま、少し首をかしげて"カミングアウト"を始めた。
「3年くらい前にイップス気味になってしまって......。それからあまりボールを投げ込めていないんです。まずは肩を作らなきゃなぁと思っています」
決して深刻なトーンではなかったが、常にポジティブな発言が目立つ稲村さんにしては珍しく、その言葉は悩みの色を濃くしていた。
「悩んでますねぇ〜。どうにかしたい問題ではあるので、今年中になんとかカタをつけられたらと思うんですけど」
稲村亜美さんといえば、2015年にウェブCMで披露した「神スイング」で一躍ブレイクし、その後はプロ野球の始球式に引っ張りだこになり、「始球式の女王」に君臨した。
小・中学生時代に男子選手に混じって野球チームでプレーした経験があり、そのダイナミックな投球フォームは見る者をうならせてきた。自己最速スピードは103キロを計測している。
もっとも相性のよかったマウンドは甲子園球場だという。
「甲子園は2回投げさせてもらって、2回とも100キロを超えていました。感覚的にすごくよかったですし、気持ちよかったですね。なにより憧れの甲子園のマウンドだったので、格別でした。お客さんがすごく近くに感じて、歓声が他の球場より数倍にも感じるんです」
しかしその後、華やかに見える舞台裏で、稲村さんはもがき始める。
コントロールが定まらない。今まで簡単に投げられていたところへボールがいかない。稲村さんは徐々に「イップス」を意識するようになった。
イップスとは、何も考えずにできていた動作ができなくなってしまうことを指す。もとはゴルフ用語だったが、今や野球や他スポーツでも広く使われるようになっている。野球におけるイップスは、主に投げる動作について使われる。
イップスに陥る原因は人それぞれに異なり、医科学的に不明の部分も多い。エビデンスのない治療法が横行している点も問題視され始めている。
稲村さんは言う。
「もともとできていたことができなくなるって、ものすごくショック......ですよね。私にとってはダメージが大きかったです」
実は、イップスの不安は数年前から口にしていた。本人は「いつか治るだろう」と楽観視していたが、いくら時間が経過しても状況は好転しなかった。
始球式など1球投げれば終わりではないか、という疑問もあるだろう。だが、そこには稲村さんにしかわからない苦悩があった。
かつて、始球式についてこんな心境を吐露している。
「やり直しがきかないですし、球速も求められる空気がありますからね。最初は楽しかったんですけど、だんだん欲が出てきてしまって。登板前からプレッシャーで追い込まれています」
実際に、始球式で捕手が捕れない大暴投をしてしまったこともある。そんな時、稲村さんは場内のムードを敏感に察知するという。
「ボールが変な方向に行っちゃうと、球場が『あ〜あ......』って、どんよりした雰囲気になるんです。あの時は落ち込みましたねぇ〜」
また、ウォーミングアップなしで「はい、投げてください」と促され、肩やヒジを痛めた時期もあった。
始球式の重圧と体の痛み、さらに稲村さんの真面目な性格もイップスに拍車をかけていったのかもしれない。
始球式で投球を終えるたび、稲村さんは右手でマウンドの土をならしてからマウンドを降りていく。本人は「急いでやっているので、ならせているのかわからないんですけど」と笑うが、そこには野球経験者ならではの配慮があった。
「始球式がなければ、先発ピッチャーの方が一番に踏めるマウンドのはずじゃないですか。まっさらな状態から自分の思うように整えたいと思うんですよ。なので礼儀として、『すみません、こんなところまで踏み込んでしまって......』という思いを込めてならしています」
かつては始球式のために、普段は軟式球に触れないようにもしていた。「硬球と軟球では感触が違うので、感覚が狂ってしまう」という理由だった。こうした繊細な心配りやプロ意識が、ことイップスに関してはネガティブに作用してしまったのかもしれない。
現在は肩もヒジも痛みはなくなり、コロナ禍の自粛期間には自宅トレーニングに励み体は健康そのものだ。あとは本来の感覚さえ取り戻せれば......と試行錯誤しているものの、思うようにいかない状況が続いている。
「もう、強制的に何かを変えないといけないんだろうなと思います」
イップス経験者の野球解説者にアドバイスを求めたこともあった。その解説者は稲村さんにこんなアドバイスを送ったという。
「まずは自分がイップスであることを認めること。だから、周りに『イップスです』と言ったほうがいい」
イップスであることを知られたくない。それはイップスに苦しむ者が共通して抱く感情に違いない。
「恥ずかしいから」
「弱みを見せたくないから」
そんな心理が働き、人前で投げられなくなるケースも多い。稲村さんに助言した解説者も、そのことを伝えたかったのだろう。
ここ2年ほどは始球式の仕事から離れているものの、再起したい思いは強い。稲村さんには夢があるからだ。
「あと2球団(巨人と広島)の試合で始球式をさせてもらえたら、プロ野球12球団すべてで始球式をしたことになるんです。それと、いつかメジャーリーグでも始球式をやりたいなと思っているんです。でも、コントロールを直さないと、乱闘になっちゃうかな(笑)」
イップスを医科学的に解明しようと取り組むイップスラボジャパンの石原心氏は、イップスに悩む野球選手にこんなアドバイスを送っているという。
「イップスになると、自動化できていた投球動作が崩壊してしまうんです。そこで、さまざまな大きさ、重さのボールをいろんな距離、標的に向かって投げることで、投球動作を再自動化するという方法があります」
稲村さんは「何もかも、今までのものは捨てたほうがいいのかもしれませんね」と、感覚をリセットする可能性を示唆している。
稲村さんの苦しみは野球をプレーした経験のある多くの人が共感できるものだろう。再起へのチャレンジは、イップスに悩まされるプレーヤーで溢れる野球界にとって大きな希望になるはずだ。
稲村亜美さんがイップスから立ち直り、再び始球式のマウンドに戻ってこられたとしたら。その時には、今までとは違った拍手がスタジアムにこだまするに違いない。
「始球式の女王」は新たな一歩を踏み出そうとしている。