戦国時代から泰平の江戸時代、そして動乱の幕末まで!名古屋城の歴代城主たち

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尾張名古屋は城で持つ、と言われます。

戦国時代には、尾張進出を狙う今川氏が那古野の地に柳之丸を築城。その後築かれた那古野城は、戦国大名・織田家の居城となりました。織田信長も幼少時代の大部分を那古野城で過ごしています。

江戸時代になると、那古野の地が再び脚光を浴びることになります。徳川家は豊臣家に対抗するため、天下普請によって名古屋城を築城します。

名古屋城を居城とした尾張藩は、徳川御三家筆頭の立場となりました。江戸時代、幕末と形を変えながら城主たちは時代と向き合っていきました。

ここでは、戦国時代から幕末までの主だった名古屋城の城主たちを見ていきましょう。

名古屋城築城以前、城主不在の時代

古代から、現在の名古屋の地は東海地方における枢要な土地でした。

5世紀から7世紀、現在の名古屋の地には「尾張氏」が東海地方最大の豪族として確認されています。

大化元(645)年には、大化の改新によって中央集権律令制国家が成立。このとき尾張国が誕生しています。名古屋の地名が生まれるのは、まだまだ先です。

平安時代には、各地に荘園が誕生しました。現在の名古屋の地には那古野荘、山田荘、富田荘が確認されています。

このうち那古野荘は、建春門院(後白河上皇の女御。高倉天皇の生母)に寄進された皇室領荘園でした。既に平安時代には、尾張国の重要な土地と認識されていたようです。

金鯱(出典:ウィキペディア)

名古屋城前史 尾張国の最前線の城主は武闘派ではなく風流人? 今川那古野氏当主・今川氏豊

今川氏豊は、大永2(1522)年に駿河国守護・今川氏親の子として生まれました。幼名は竹王丸と名乗っています。

氏親は尾張国守護職・斯波義達に勝利して遠江国を奪取、さらに尾張国に進出します。

その足掛かりとなったのが、那古野の地でした。

那古野に領地を持っていたのが、駿河今川氏の傍流である今川那古野氏です。今川那古野氏は、かつて尾張国守護であった今川仲秋の庶子が代官として赴任したのが発祥ともされます。

今川家の家紋・今川赤鳥(出典:ウィキペディア)

氏親は今川那古野氏に息子・氏豊を養子入りさせ、斯波義達の娘を娶らせます。氏親は斯波氏との姻戚関係を築いた上で、本格的な尾張国の支配を狙っていたようです。

氏親は、那古野の地に「柳之丸」を築城します。氏豊はここに入り、居城として尾張国に勢力を築きました。

氏豊はどのような武将だったのでしょうか。戦に精通した軍人、というよりも連歌を好むなどの風流人として知られていました。

そんな氏豊に目をつけた武将がいます。勝幡城主であった織田信秀(織田信長の実父)でした。

名古屋城前史 まさに下克上! 城主の座を奪い取り、自らの居城にした武将・織田信秀

永正8(1511)年、織田信秀は勝幡城主・織田信定の長男として生まれました。

母は織田良頼の娘・いぬゐ(含笑院)です。

父・信定は尾張国の守護代・清須織田氏(大和守家)に仕える三奉行のうち一つ(弾正忠家)を束ねていました。

弾正忠家は、勝幡城に居城を構えていました。同家は物流の集散地でもあった牛頭天王社(津島神社)の門前町・津島を支配下に置くなど、潤沢な経済力を手に入れていました。

大永6(1526)年頃、信秀は家督を相続して当主となります。

信秀は主家である清須織田家や同輩の奉行家と争うなど、尾張国内の勢力拡大に邁進していました。

天文7(1538)年、信秀は今川氏豊の柳之丸に目をつけます。信秀は強硬な力攻めをすることはなく、謀略によって城を落とすことを考えていました。

『名古屋合戦記』には、信秀が氏豊の連歌の集まりに足繁く通った様子が描かれています。信秀は柳之丸への逗留を繰り返し、氏豊の信用を受けるようになっていきました。あるとき、信秀は柳之丸の本丸に窓を開けます。氏豊は夏風を入れるためだとばかりに思っていました。

柳之丸に逗留していた信秀は、突然城内で倒れます。信秀は自分が死ぬと氏豊に告げ、家臣への遺言を頼みました。

哀れんだ氏豊は、信秀の申し出を承諾。信秀の家臣たちの柳之丸への入城を許します。

その日の夜、信秀の家臣たちは城内に放火。さらに外部から柳之丸へ兵を引き入れます。瞬く間に柳之丸は、信秀の手に落ちました。

氏豊は落城後、信秀に命乞いをしています。信秀は氏豊の命を取ることはしませんでした。氏豊はその後京へと逃げて行ったと伝わります。

その後、信秀は奪った柳之丸の名前を「那古野城」と改めました。那古野城に居城を移転すると、愛知郡へ勢力を広げていきます。

織田信秀像(出典:ウィキペディア)

 

名古屋城前史 後に天下人となる武将はおおうつけ!? わずか二歳で城主となった織田信長

天文3(1534)年、織田信長は織田信秀の嫡男として生を受けました。母は土田政久の娘・土田御前です。幼名は吉法師と名乗っています。

通説では那古野城で誕生したことになっています。しかしまだ奪取する前であるため、勝幡城で誕生した説が正しいようです。

天文5(1536)年、信秀は古渡城に居城を移し、信長に那古野城を譲ります。信長がわずか二歳の時でした。以来、信長はこの城で養育されていきます。

幼少時の信長は、那古野城から凌雲寺や熱田の滝之寺へ手習いに通い、庄内川の河原を主な遊び場としていました。

『信長公記』には「十五、十六歳の頃まで朝夕に馬術の稽古を氏、川で睡蓮。家来たちには竹槍で仕合をさせていた」と書かれています。

信長には奇抜な行動が目立つようになり、周囲からは「大うつけ」と噂れていました。しかしその独特の価値観が、のちに新時代の扉を開いたようです。

天文20(1551)年、父・信秀の死去に伴い家督を相続。織田家当主となりました。

天文24(1555)、信長は清須城の尾張国守護代・織田信友(織田大和守家)を安食の戦いで撃破。その後、信友は織田信光(信長の叔父)によって討たれ、清須城は占拠されます。

当時の尾張国は、清洲城が中心地となっていました。同城にはかつて尾張国の守護所が置かれ、守護代の居城としても機能していたのです。

信長はほどなくして、信長は清洲城に居城を移転。那古野城には、叔父の信光が入城しています。

織田信長像(出典:ウィキペディア)

名古屋城前史 織田家の功臣は家臣に殺された!? 信長の叔父城主・織田信光

永正13(1516)年、信光は織田信定の子として生まれています。母は織田良頼の娘・いぬゐ(含笑院)です。信秀の同母弟となります。

信光は兄・信秀に従い小豆坂の戦いなどで手柄を挙げるなど、織田家中でも指折りの勇士として知られた武将です。

信秀の死後は、甥の信長の家督相続を後援し、主だった合戦にも信長方として出陣しています。

天文24(1555)年、信光は特に大きな手柄を挙げました。当時、信長の織田弾正忠家は、守護代の織田大和守家と対立していました。

『信長公記』によると、信光にも大和守家からの調略の手が伸びていたようです。信光は従うふりをして清洲城に潜入。そこで当主の織田信友を殺害して清須城を占拠しました。

信光は清須城を信長に明け渡します。信長は清須城に居城を移すと、那古野城を信光に与えました。

那古野城の拝領は、論功行賞と同時に重要拠点を任せるという意味があったようです。那古野城は、信秀と信長の居城であった城です。信光は、同族の中でもかなり信頼を得ていたようです。

しかし翌弘治元(1556)年、信光の身に大事件が起こります。

信光夫人の北の方と密通していた家臣・坂井孫八郎によって殺害されてしまいました。坂井孫八郎は、その直後に佐々孫介に討たれています。

この事件には、信長が関わっていたという説もあります。功臣となった信光は、信長にとって既に用済みと考えられていたのでしょうか。

その後の那古野城には、殺害に関与したという説がある林秀貞が入っています。

信光の菩提寺・凌雲寺(出典:ウィキペディア)

 

名古屋城前史 織田家一番家老から、追放の身に落ちた男! 留守居の城主・林秀貞

永正10(1513)年、林秀貞は織田弾正忠家家臣・林通安の子として生まれました。

『信長公記』によれば、信長が那古野城に入った時には一番家老の位置に列していたといいます。二番家老が平手政秀(信長の傅役)ですから、家中での発言力はかなりのものでした。

天文15(1546)年の信長の元服にも御供しており、信頼の高さがうかがえます。

弘治元(1556)年、那古野城の城主・織田信光が家臣に討たれる事件が起こります。これを受けて、秀貞が那古野城に城代(留守居役)として入城しました。

この一件に関しては、秀貞が信光の死に関わった可能性があります。どの道、一番家老である秀貞が家中の勢力争いにも深く寄与していたことは間違いありません。

しかし秀貞は、信長に一途に付き従っていたわけではありません。弘治2(1557)年には、秀貞は家督相続後の信長に反旗を翻しています。織田家重臣の柴田勝家らと織田信勝(信長の同母弟)を擁立しての挙兵でした。しかし稲生の戦いで信長に敗れています。

敗戦後は信長に許され、変わらず織田家に出仕しています。那古野城の留守居も解かれず、同城に止まっていた可能性があります。

永禄3(1560)年には、秀貞は織田家と徳川家の清須同盟の立会人も務めるなど、外交方面において多大な貢献をしています。

秀貞の武将として出陣した記録は、播磨国の神吉城攻めなどわずかしか残されていません。秀貞は、軍事よりも政治家という面で信長を補佐していたようです。

現に天正3(1575)年には、家督を継いだ織田信忠(信長の嫡男)に付けられています。天正7(1579)年の安土城の天主完成の折には、秀貞と京都所司代・村井貞勝だけが見物を許されています。

信長の信任はかなり厚く、家臣団の筆頭的位置にあったと推察できます。

しかし天正8(1580)年、秀貞の運命は一変します。信長から過去の信勝擁立の件を責められ、家中追放となりました。

秀貞は戦国時代の那古野城の最後の城主でした。秀貞を最後として、那古野城は廃城となります。

林秀貞屋敷後(出典:ウィキペディア)

泰平の時代に築かれた名古屋城は、対豊臣の軍事拠点! 天下人家康の九男にして最初の城主・徳川義直

慶長5(1601)年、徳川義直は徳川家康の九男として生まれました。母は側室・お亀の方(相応院)です。幼名は五郎太丸と名乗りました。

慶長12(1607)年、家康の四男である尾張藩主・松平忠吉が死去します。家康は義直に忠吉の遺領を継承させます。このとき、義直が尾張藩の藩主となったことで、尾張徳川家が始まりました。

義直は当時八歳と幼かったために、家康の居城・駿府城で養育され、尾張の国政は、平岩親吉(義直の付け家老)が代行しています。

尾張藩の中心は、当時清須城にありました。尾張藩重臣・山下氏勝は、名古屋台地への新城の築城を家康に上申します。清須城には、水害の危険性が高く、規模も大きくはありませんでした。

関ヶ原の戦い以降も、家康は大坂城の豊臣家を警戒していました。両者の緊張が高まる中、豊臣家包囲網の一環として、徳川幕府は各地の城郭を公儀普請による改修と築城を行なっていました。名古屋城の築城の前後には、丹波篠山城や丹波亀山城、伊賀上野城が改修されています。

名古屋は、江戸と大坂の中間に位置していました。戦略的重要性からは、名古屋は徳川における東海道における最大の防衛拠点となっていたのです。

名古屋城は、慶長15(1610)年から築城が開始されます。加藤清正や福島正則など、豊臣恩顧の諸大名が動員。彼らの経済力を弱めることにも目的がありました。城の縄張りには、家康も関わっています。

慶長17(1612)年、五層五階地下一階の層塔型の大天守が完成。大天守には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴ともなる天守となりました。

本丸御殿が完成したのは、元和元(1615)年のことでした。同年、藩主義直は冀州和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫と婚儀を本丸御殿で挙行しています。

元和2(1616)年に、義直は正式に尾張国の名古屋城に入りました。

城下町の形成は、それまで尾張の中心地であった清須城からの移転(清須越し)によって行われています。

町人や職人だけでなく、寺社や町名も含めた都市ぐるみの移転でしt。

築城と同時期には、城の西側から南の熱田に至る運河・堀川の開削も行われています。

この運河は、米や野菜などの物資を運搬するために利用され、城下町の発展に絶大な効果をもたらしました。

義直は自らも藩政を行い、新田開発を推し進め、治水によって灌漑用水を整備するなどしています。

名古屋城を拠点に尾張藩の礎を築いた義直は、慶安3(1650)年に江戸藩邸で亡くなりました。享年五十一。

徳川義直像(出典:ウィキペディア)

討幕か佐幕かで苦悩! 地方政治の長から中央政界の主導者へ羽ばたいた、名古屋城最後の城主・徳川慶勝

文政7(1824)年、徳川慶勝は美濃高須藩(尾張藩の支藩)主・松平義建の次男として江戸の高須藩邸で生まれました。母は正室・規姫です。

弟には一橋茂栄(後の御三卿)、松平容保(後の京都守護職)、松平定敬(後の京都所司代)がいます。幕末に活躍した彼らは、高須四兄弟と称せられます。

嘉永2(1852)年、慶勝は跡継ぎ不在の尾張藩の藩主に就任します。藩政においては、倹約路線を取るなど財政改革に取り組んでいます。

安政5(1858)年、日米修好通商条約の調印への抗議のため、江戸城に不時登城に及びます。

結果、大老・井伊直弼に咎められて隠居謹慎を命じられることになりました。直後に藩主の座も退いています。

安政7(1860)年、桜田門外ノ変によって井伊直弼が暗殺されます。慶勝は文久2(1862)年に赦免され、将軍・家茂の補佐役となりました。

文久3(1863)年には、嫡男・義宜が藩主に就任。慶勝は後見役として尾張藩に関わるようになります。

元治元(1864)年には参与会議への参加を命じられるなど、中央政界からも今日力を求められますが固辞しています。

しかし同年の第一次長州征伐では総督に任じられ、幕府と長州藩との講和に尽力しています。

慶応3(1867)年、将軍・徳川慶喜は大政奉還を行います。王政復古後、慶勝は議定に任じられました。

小御所会議においては、慶喜の辞官納地を命じることが決定。慶勝はこれに抗議氏、尾張藩の領地を徳川宗家に返還する意向を表明するに至ります。

それ以外にも、佐幕派となった実弟の容保や定敬の助命を嘆願する運動も行っています。その結果、慶応4(1868)年に議定を免ぜられるにことになりました。

しかし慶勝は、まだ政治の世界から必要とされていました。明治3(1870)年、慶勝は二代目の名古屋藩知事に就任します。このとき、慶勝は名古屋城の取り壊しなどを発議しています。

慶勝は時代の流れを読んでいました。明治4(1871)年、廃藩置県が断行されました。慶勝は名古屋藩知事に再任され、同年の11月まで任にありました。

同年、名古屋城には東京鎮台第三分営が設置。名古屋城の三之丸にある武家屋敷は取り払われ、金鯱は天守閣から降ろされています。

時代が明治に変わり、名古屋城は政府の軍事施設へと変わっていきます。その中で慶勝は名古屋城最後の城主として、時代を先導する立場に有り続けました。

徳川慶勝の写真(出典:ウィキペディア)

 

参考文献・サイト

「400年の時を越え、名古屋を見守り続ける」 名古屋城公式HP「織田信長ガイドブック」 愛知県HP「特別史跡名古屋城跡の概要」 名古屋市HP