親はいつまで子どもの面倒をみればいいのか。愛知教育大学の川北稔准教授は「日本は若者が個人として生活するための仕組みが欠落している。ひきこもりの問題が家庭の中に閉ざされるのはそのためだ。“完璧な自立”ができるまで家族が子どもを支えようとして、結局は親子が共倒れしてしまうこともある」と指摘する――。

※本稿は、川北稔『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

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■結婚も妊娠も「選択して行動するもの」になった

ひきこもりの問題が家族の中に閉ざされる背景として、昭和の高度成長期から受け継がれてきた家族観がある。子どもが経済的に自立して家を離れるまでは、親が子どもの生活を保障するのが当然とされる。しかし他人に依存しない「一人前」の姿を求め続けるあまりに、家族が共倒れするまで支え続けなければならない。「限界家族」を乗り越える道は、新しい自立観の選択、つまり若者が家族外に依存できる社会的基盤を整備することではないか。

「婚活」や「終活」、さらには「妊活」「保活」は、いずれも平成の時代に生みだされた言葉である。結婚する、子どもをもつ、働くために子どもを預けるといった出来事は、自然のなりゆきにゆだねられるのではなく、選択して行動しなくては実現できないものに変化してきたようだ。

それでは、どんな家族をつくり、生活していくかは個人の選択の問題になったのだろうか。確かに生き方は多様になったかもしれないが、選ぶための条件は決して平等に与えられていない。

子どもの虐待事件の報道で身につまされるように、子ども自身はどんな家庭に生まれるかを選択できない。私たちの社会は、遅ればせながら、不幸にして家庭で安心して生活できない子どもを保護する仕組みを整えつつある。

■「子どもの自立は親の責任」という強い意識

平成の時代が始まるころを思い出してみると「親自身が我が子を虐待するなど信じられない。日本において虐待は大きな問題ではない」と感じる人が少なくなかった。児童虐待防止法ができたのは2000年のことである。

同じ2000年には公的介護保険の制度が開始された。子育てと同じく、家庭内の問題と思われた介護を公的なサービスで支えていこうという仕組みである。平成が始まったころの常識は、30年のあいだに塗り替えられつつある。

8050問題のような老親と子どもとの関係は、こうした変化から取り残された領域の1つなのではないだろうか。戦後型家族を理想の家族モデルにしながら子育てをしてきた世代は、子育て支援や若者の就労支援が本格化するよりもずっと以前に親となった。そのために「子どもの自立は親の責任」という意識から逃れることが難しい。親の介護を施設に頼ることや、熟年離婚などが一般化したのに比べ、子どもに責任をもち、愛情を注ぐことは家族のなかで最後に残された聖域ともいえる。

こうして限界まで親子だけでがまんを重ね、体力や経済力を使い果たした末に共倒れする家族が現れる。個々の限界家族を救うとともに、社会のなかで限界を迎えた家族像を考え直すべき時期が来ているのではないだろうか。

■子どもに「お金の話」をしてはいけないのか

先進国で生活する若者は、基本的に衣食住には不自由しないと考えられている。しかし、実際に基本的な生活条件を確保しているのは親であることが多い。昭和の高度経済成長期以降の家族では、父親の経済力によって家族の生活が守られる。「生活給」といわれるように、妻子を養うために必要な賃金を、父親が属する企業などから保障された。そのために、家族のなかにいる女性や若者は、たとえ経済力が十分でなくても「貧困」と評価されることはない。

ひきこもる子をもつ家族に対して、「本人にお金や家計の話をするべきではない」という助言がされることもある。経済のことを考えるよりも、本人は教育を受けて自立するべきだというのが、昭和以降の家族観を前提にした考え方である。現代の豊かな若者は、経済的な動機で動かされることはないので、他人から認められる機会を用意するなどのかたちで「承認欲求」に働きかけるべきだとの意見も聞かれる。しかし、それは親元での生活を前提とした議論といえる。それに対して、家族に全面的に依存しない生活を視野に入れた支援を考える必要があるのではないだろうか。

■若者を親に任せっきりの日本

ひきこもり状態の人でも、生活上の自由や責任をもつことを保障されることで、本人が外部との関係を取り戻す可能性もある。たとえば障害年金を受給することで、単に家族に世話になる存在ではなく、自らの判断でお金を使う主体になる例も報告されている。

日本では、自立していない子どもが経済力をはじめ、基本的な生活条件を親に依存することが一般的とされてきた。それとは裏腹に、若者が個人として生活していくような経済的支援や住宅保障の制度が欠落している。ひきこもり問題や8050問題をきっかけに、若者自身が自由と責任を引き受けていくことができるような社会の仕組みを真に考えるべき時期が来ている。

■「完璧な自立」を求めがちな親たち

実際には、こうした個人単位の「自立」に対して、ひきこもり状態にある人の親が抵抗を感じる場合が多いのも事実である。福祉の支援を受けながらの自立ではなく、本人が1人で生計を立てられるような「完璧な自立」を理想として描くことも、その裏側にある理由の1つだ。

「誰からみても恥ずかしくない自立が可能になるまでは、家族が支えていきたい」

逆に理想的な自立の機会が来ないのであれば、「家族だけで見守っていきたい」という選択がされがちだ。

だが、家族はバラ色の人間関係が築かれる場所とは限らない。家族同士支え合い、乗り越えていくべき場面も多いだろう。しかし、家庭内暴力があるなら親やきょうだいは別の場所で暮らしたり、本人が独立して生活したりできるよう住居の確保をするなどの総合的な支援が必要になる。また、本人の収入が十分でない場合は、生活保護の受給を提案するなどの支援もある。

このように、親子それぞれが新しい生活を実現できる支援が視野に入れられるべきではないだろうか。

もともと「自立」とは、無人島での一人暮らしのように孤立して生活を営んでいくことではないといわれる。他者に依存しながら、過度の問題に陥らずにやりくりしていくことを指す。問題は、依存先が家族の内側にしか存在しないことなのだ。問題を家庭内に閉じ込めず、依存先を家の外に増やすことが求められているのではないか。

■自立は「依存先」を増やすこと

脳性まひの障害がある立場で小児科学などの研究に携わる東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎氏は、「依存先の分散としての自立」という概念を提案している。個人が家族だけに依存するのではなく、発想を変えて、家族外に依存先を増やすことを自立と考えるわけである。

川北稔『8050問題の深層「限界家族」をどう救うか』(NHK出版新書)

「共依存」という言葉がある。課題を抱えた人を、周りの人(共依存者)が過剰に支えることで、むしろ自立を妨げている状態である。しかし、親の役割から降りることができず、子どもを支え続ける親たちの姿をみてまさに「共依存」という言葉を思い浮かべる人も多いと思われる。

「他人に迷惑をかけたくない」と考えていると、依存先を家族の内側だけに限定し、やがては家族全体が孤立することになりかねない。たしかに家族だけで奮闘しているときは「自立」に向かって歩んでいる気になるかもしれないが、家族にもやがて体力の限界や寿命が訪れる。家族を支える人が減れば、誰か1人の家族に大きな負担がかかるため、「自立」を目指したはずが、特定の人への依存を強めてしまう。それよりは早めに家族以外の依存先をつくっておくべきではないだろうか。

川崎市と練馬区で起きた不幸な事件を数十年後に振り返ったとき、家族の限界を超えて新たな家族観をつくりだすきっかけとして記憶されていることを願いたい。

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川北 稔(かわきた・みのる)
愛知教育大学教育学部准教授
1974年、神奈川生まれ。名古屋大学大学院博士後期課程単位取得修了。社会学の立場から児童生徒の不登校、若者・中高年のひきこもりなど、社会的孤立の課題について調査・研究を行う。
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(愛知教育大学教育学部准教授 川北 稔)