武士が小細工を弄するな!鎌倉武士の鑑・畠山重忠の高潔なエピソードを紹介

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いつの世も、他人を妬んでその足を引っ張る手合いは絶えませんが、それは武士たちにおいても同じだったようです。

一方、そうした振舞いを嫌う者も少なからずおり、今回は鎌倉幕府におけるあるエピソードを紹介したいと思います。

鎌倉幕府・侍所で抜刀騒ぎ!

時は鎌倉初期・正治二1200年2月2日。幕府の二代目将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)が、御家人の波多野三郎盛通(はたの さぶろうもりみち)に対して同じく御家人である勝木七郎則宗(かつきの しちろうもりむね)を生け捕るよう命じました。

この則宗、頼家の側近でありながら、この年1月に謀叛の疑いで粛清された梶原平三郎景時(かじわらの へいざぶろうかげとき)と内通していたことが発覚したのです。

源頼家。Wikipediaより。

頼家は盛通と共に侍所(さむらいどころ)を訪れ、何食わぬ顔で出勤していた則宗に逮捕する旨を伝えます。

「かくかくしかじかなれば、既に証拠は明らか……さぁ七郎殿、大人しくお縄につかれい!」

侍所には他の御家人たちも勤務していて、現場はにわかにざわつき出します。

証拠を突きつけられた則宗は顔色こそ青ざめましたが、それでも大人しく従うようなタマであれば、そもそも謀叛の内通などしません。

「ちっ、バレたか!……かくなる上は逃げるに如かず!」

何の準備もないまま一人暴れたところで取り押さえられるのがオチ。ならばここは強行突破で脱出し、本拠地に戻って手勢を掻き集めよう。

そう判断した則宗は瞬時に立ち上がると、脱兎のごとく逃げ出そうとします。

「待たんか、こらッ!」

盛通はすぐさま則宗に追いついて羽交い絞めにしましたが、則宗は相撲の達者として知られる怪力の持ち主でした。

相撲と言っても今日のそれとは大きくことなり、拳や蹴りも許される組討(くみうち)ですから、則宗は格闘家のようなイメージです。

則宗はすぐさま盛通の腕を振りほどくと、差していた腰刀(こしがたな。太刀とは別に身につける護身用の短刀)を抜き放ちました。

狼藉に及ぶ則宗(イメージ)。

「死ねぇっ!」

俄かに体勢を崩した盛通に突きかかる則宗を、間一髪で制止した者がいました。ちょうどその場にいた、畠山次郎重忠(はたけやまの じろうしげただ)です。

座ったまま、左腕一本で賊をねじ伏せる!

この重忠は武蔵国(現:埼玉県および東京都西部)の大豪族で、齢十七で初陣を飾ってから二十年にわたって幕府に仕え、数々の武勲を立ててきた歴戦の勇士。

畠山重忠。菊池容斎『前賢故実』明治元1868年

その豪勇もさることながらその謹厳実直で公正無私な振舞いに、誰もが彼を「鎌倉武士の鑑」と称えたそうです。

さて、そんな重忠が則宗を組み伏せた時の様子は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にこう記されています。

「……則宗(は盛通の)右手を振り抜きて、腰刀を抜き、盛通を突かんと欲するのところ、畠山次郎重忠、折節傍にあり。坐を動かずといへども、左手を捧げて、則宗が拳刀(にぎりがたな)を膊(かひな。腕)に取り加(そ)へ、これを放たず、その腕を早く折りをはんぬ。よつて魂惘然(ばうぜん)として、たやすく虜(いけど=生け捕)らるるなり……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月2日条

重忠は座ったまま左手一本で則宗をねじ伏せ、その腕をへし折ったそうで、恐らく執務中に「何だかあっちが騒がしいな」と感じていたら、偶然こちらへ倒れ込んできた盛通を刺し殺すべく、則宗が躍りかかった勢いを活かしての妙技だったと考えられます。

盛通にとってはまさしく天佑神助(てんゆうしんじょ。天や神の助け)を得た思いだったことでしょう。

……右腕をへし折られてしまった則宗はその激痛に失神してしまい、あっけなく取り押さえられて侍所別当(長官)である和田太郎義盛(わだの たろうよしもり)に引き渡されて一件落着……と思ったら、その後もう一悶着が生じたのでした。

ちょっと待った!盛通の恩賞についた物言い

さて、2月6日の論功行賞において、則宗を生け捕った手柄で盛通が恩賞に与ろうとしていた時の事です。

かねがね盛通の事を快く思わない真壁内舎人秀幹(まかべの うどねりひでもと)という御家人がおり、彼がこんな事を言い出しました。

「則宗の生け捕りは波多野殿の手柄ではない!偶然近くに居った畠山殿が取り押さえたのだから、恩賞は畠山殿に賜るべきだ!」

【原文】
「……則宗を生虜る事、さらに盛通が高名(かうみやう)にあらず。重忠虜るの由これを憤り申す……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月6日条

この時、原文では秀幹は盛通に対して「阿黨(あとう)の思ひ」をなしたと書いてありますが、阿黨とは「阿(おもね)り黨(くみ・党)する」ことであり、この文脈だと盛通に取り入るために発言したとも読めます。

しかし、それでは話の辻褄が合わないため、阿黨の対象は重忠であり、秀幹は「重忠に取り入るため、盛通をディスった」or「盛通の足を引っ張る目的で、重忠の手柄を主張した」というニュアンスで書いたのかも知れません。

ともあれそんな物言いがついたので、盛通への恩賞はいったん保留として、重忠が呼び出されたのでした。

武士が小細工を弄するな!重忠の苦言

「……何の事ですか?則宗の件は、波多野殿がお一人で承ったこととお聞きしていますが」

【原文】
「……その事を知らず。盛通一人の所為の由(よし)、承り及ぶところなりと云々……」
※同条

呼び出された重忠の供述は、実に明瞭簡潔なものでした。

則宗をねじ伏せたのは眼前に迫った同僚の危難を救うため、何より御公儀の秩序を乱す賊を鎮める御家人としてごく当然の振舞いであり、別に恩賞が欲しい訳でもなければ、ましてや他人様の手柄を横取りなんてしたくない。

そんな重忠の高潔さに、御家人たちは一同感心。「しからば御免」と下がった重忠は、侍所に秀幹を連れ込んで苦言を呈しました。

常に正々堂々と。戦場を駆け抜けた重忠の雄姿。

「あんな下らん言いがかりをつけて何になる。武士がつまらん小細工を弄するな。どうしても盛通殿に嫌がらせがしたいなら『自分が捕らえた』とでも言えばよかろう……」

【原文】
「かくのごときの讒言(ざんげん)もつとも無益の事なり。弓箭(ゆみや・きゅうせん)に携はるの習、横心(わうしん)なきをもつて本意となす。しかれども客意を勲功の賞に懸くるがために、阿黨を盛通になさば直(ぢき)に則宗を生虜(いけど)るの由、これを申さるべきか……」
※同条

責められた秀幹は顔を真っ赤にして何も言い返せず、これを聞いた御家人たちはますます感じ入ったそうです。

終わりに

こんな具合で何事も公正無私な生き方を貫き通した重忠ですが、それを周囲に認めさせるだけの実力があって初めて通用したのは言うまでもありません。

「If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.」
(強くなければ、生きていけない。優しくなければ生きる資格がない)

byレイモンド・チャンドラー(小説家)

重忠を崇敬する人々によって建立された騎馬像。御嶽神社にて。

とかく弱肉強食な世界にあって、坂東武者・鎌倉武士の理想を追求し続けた重忠の生き方は、現代の私たちにも大切なヒントを与えてくれそうです。

※参考文献:
永原慶二 監修『新版 全譯 吾妻鏡』新人物往来社、平成二十三2011年11月29日