なぜラモス瑠偉は脳梗塞から復活し、日本代表をアジア王者へと導くことができたのか

砂の上のフィールドで繰り広げられるサッカー、ビーチサッカーは日本が世界の強豪と肩を並べる分野のひとつだ。ワールドカップでの最高順位は4位。これまで9回の本大会にすべて出場してもいる。

だがそんなビーチサッカーに危機が迫っていた。アジア各国が強化を進める中、日本は代表監督がなかなか決まらない。10回目のワールドカップにはついに出場できなくなるのではないか——。そんなピンチを救うべく、ひとりの男が立ち上がる。

なぜ病に倒れた体で代表監督という重責を引き受けたのか。なぜそこまで日本サッカー界に尽くせるのか、熱き男の生き様に迫った。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:神山陽平(Backdrop)、六川則夫

脳溢血、リハビリ、後遺症を乗り越え再び現場へ

2016年12月29日、ラモス瑠偉は脳溢血で倒れて救急車で搬送された。最初は左半身に麻痺が残り、ボールが思うように蹴られなかった。リハビリに加えてボールを使った独自のトレーニングを続けることで体は動くようになったが、見えない苦労は続いている。

「1年ぐらいは飛行機に乗っちゃいけなかったんですよ。味覚が変わって食べられるものが少なくなるという状態も1年ぐらいありました。今でも血液が固まらないための薬は飲んでますよ。念のため、死ぬまで飲まなきゃいけません」

自分の体がいつどうなるかわからない…。それでもラモスは勝負の世界に再び足を踏み入れた。

FIFA主催の世界大会で、現在日本が一目置かれている分野が2つある。1つは2011年女子ワールドカップで優勝した女子サッカー。もう一つは、2005年から2017年まで全9回開催されているワールドカップに出場を続けているビーチサッカーだ。ビーチサッカーワールドカップにこれまで1度も欠かさず出場を続けているのは、王者ブラジルと日本のたった2カ国のみなのである。

フワフワになるまで敷き詰められた砂の上で、1チーム5人の交代自由なプレーヤーが12分を3ピリオド争う。下が柔らかいためドリブルが難しい反面、浮き球でつないだボールをオーバーヘッドシュートで狙うなどのアクロバチックなプレーが続出する。

日本の最高順位は2005年ブラジル大会の4位。加えてその評価を高めたのは2013年タヒチ大会の準決勝で、ブラジルをあと一歩というところまで追い詰めた戦いぶりだった。その2大会とも、代表チーム率いたのは闘将・ラモス瑠偉だった。

一見、順調そうにみえるビーチサッカー日本代表だが、危機的な状況に瀕していた。2017年8月にマルセロ・メンデス監督が退任した後、4カ月ほどとくに活動がなく、空白の期間が続いていた状態だった。

関係者の間では、「日本のワールドカップ連続出場が途切れるのではないか」と囁かれることがあったほどだ。

そんな厳しい状況の中、日本サッカー協会は後任を決めかねていた。当のラモス本人も代表監督のポジションに、まったく興味が湧かなかった。

結局、日本サッカー協会はラモスに監督就任の打診をした。しかし、日本サッカー協会会長・田嶋幸三はラモスを代表監督に迎えようとするにあたって、2つの「不安要素」を認識しているようだと、ラモス本人は感じとっていたという。

ひとつはラモスの体のこと。先述の通り脳溢血から復帰後、体のコンディションは倒れる前とは程遠い状態にあった。試合中に倒れるかもわからない。まさに命をかけて現場を指揮していかなければならない。そんな状態で代表監督ができるのか。

もうひとつは、一度もワールドカップへの出場を逃したことがない日本にとって、もしも出場を逃すようなことがあれば、メディアやファンからのバッシングがラモスに浴びせられることだった。

「カリオカ(ラモスの愛称)、最後は自分で決めていいよ。全力でサポートするから」

ラモスに田嶋は熱いラブコールを送った。田嶋だけではない。前会長・大仁邦彌、元会長の小倉純二も一緒に、「全力でバックアップするから」と現場への復帰を熱心に誘った。

その言葉に感激したラモスだったが、田嶋にはこう切り替えした。「ビーチサッカー代表が日本サッカー協会のお荷物だったら、監督はやりません。他の監督呼んでください。私がどんな人間で、どんなにややこしい人物かよくご存知でしょう?」

そんなラモスの心を動かしたのは、かつてビーチサッカー日本代表で寝食を共にした選手たちだった。

「いくら日の丸の重みがあると言っても、サッカー協会からだけの話だったら、やっていません。家族を守らなきゃいけないんですから。あのメンバーが声をかけてこなかったら…」

何人もの選手たちがラモス本人に直接「戻ってきてほしい」とお願いしに訪ねてきた。キャプテンの茂怜羅オズ、田畑輝樹、山内悠誠らは毎日のように電話で連絡してきたという。

それでも最後まで悩んだ。

ラモスは「私のすごく大切な人が後押ししてくれたんです。それでやっと戻ろうかという気持になった」という。

その「すごく大切な人」というのは誰か。それはラモスが脳溢血で倒れ「これからどうしよう?」と悩んでいたとき、「うちの事務所に入らないか?」と声をかけてきたという人物だった。

「EXILEのHIROさんが声をかけてくれたんですよ。私、そんな状態だったのを知って。それで『LDH JAPAN』に入ったんです。そこでいろいろな仕事が入ってきてる中で、今回のビーチサッカーの監督の話が来たんです」

HIROはラモスがビーチサッカー日本代表監督に誘われたこと、選手たちから夜な夜な電話が来ていることを知り、「LDH JAPAN」の森雅貴社長と一緒に言ったそうだ。

「そんなに選手たちがお願いしてきているのに、ラモスさんが知らん顔できないでしょう? 彼らに背中を向けられないでしょう? 受けるでしょう? 行ってこいよ」

ラモスは「この話は周りの人は知らない」という。

ラモスは脳出血で倒れる前からずっと、日本サッカー界に協力したいという気持ちを持っていた。しかし倒れたあと、その気持ちがずっと強くなっていった。倒れてから、二度と現場にもどってこれない可能性のほうが高かったかもしれない。何のために神様は自分を生かしてくれたんだろう…。ラモスは運命に従った。

2018年2月、ついに熱いピッチの上に復帰することになった。

ガックリきた現実と大敗したブラジル戦で得た確信

監督として復帰したビーチサッカー日本代表の現場は、ラモスの想像以上にボロボロの状態だった。

2018年3月、沖縄で最初の合宿が行われた。「そこではもうガックリきました。『こんなにレベルが低くなったのか、大丈夫かよ』と思って。緊張感がなくて、ぬるくて」

ラモスは選手たちに、なぜこんなひどい状態になったのかを聞いてみた。

「海外に出るとまるで遠足みたいな感じになってしまって…」

負けても勝ってもチームが変わらなかった。それがイヤで代表から離れていった選手もいたという。

2009年、ラモスが初めてビーチサッカー日本代表の監督に就任したとき、様々なアイデアで刺激を与えた。その一つが前園真聖やフットサル日本代表の比嘉リカルドを招集したことだった。

「なんで前園? なんでフットサル?」「これまでビーチで頑張ってた選手が面白くないぞ」とラモスを非難する声も数多くあがっていた。

ラモスは当時の会長だった大仁に「任せてください」と直談判する。もし前園の招集を否定されたら辞任するつもりだった。だが大仁会長は「あなたが監督ですから、どうぞ」と、ラモスを全面的に支持した。

結果的にこの策は功を奏した。ビーチサッカーの練習に初参加した前園は最後の紅白戦でゴールを決め存在感を示す。それまで砂に手を焼く前園を大人しく見ていた代表選手たちは、その得点で一気に表情を引き締め、2日目からは激しいポジション争いが起きたのだ。

また前園はラモスから「あと5キロ痩せたらワールドカップ連れて行く」と言われて忠実にトレーニングを積み、2009年ワールドカップでは予選、本大会ともに大活躍する。アジアチャンピオンになり、ワールドカップではヨーロッパ王者のスペインを下しベスト8まで進出した。

ところがその後、日本が足踏みをしている間にアジア、特に中東の国々は盛んに強化を始めた。ビーチサッカー用の砂を輸入し、コートを作って環境を整えていた。その結果、イランが世界ランクで2位、そこにオマーン、UAE、バーレーンが続く。イラクとレバノンも侮れず、アジア予選は未だかつてないハイレベルな戦いへと変貌をとげていた。

ラモスは監督を受ける前に、初めてワールドカップに出られない可能性があると感じていた。そのため選手たちに危機感を抱かせようと繰り返し言い続けた。

「日の丸の重みをもう一度思い出さないとワールドカップ出られなくなるぞ。出られなかったら、もう誰もビーチサッカーを応援しなくなるからな。それでいいのか?」

ところが、2018年6月ポルトガル遠征ではスペインに1-6、ポルトガルに3-4と2連敗。3戦目でようやくメキシコに6-2と勝ったが、互角だったはずのスペインやポルトガルに敗れたことは前途多難を思わせた。

ラモスは顔をしかめながら当時を振り返る。

「スペインに負けたのは私の采配ミスです。言い訳というわけではなくて、時差でみんな珍しく疲れてたんです。それでもやれると思っていましたし、実際第1ピリオド、第2ピリオドはよかったんです。ところが最後の第3ピリオドで足が動かなくなって負けてしまいました。そこで、2戦目のポルトガル戦はやり方を変えて3-3でレギュラータイムを終えたのですが、延長戦でやられたんです」

初戦のスペインに敗れたとき、協会関係者も「どうしたんだ?」と焦っていたそうだ。3戦目のメキシコに勝って、やっとほっとしたようだ。

「メキシコとの戦いが大会初戦からできればよかったんです。結局ポルトガルが優勝しましたが、私たちがちゃんとやってれば準優勝だったと思っています」

続く2018年8月のハンガリー遠征は2勝1敗と、やっと調子が上向いているように見えた。だが、ラモスはここがこのチームにとって「底」だったと語る。

「ここは私が一番雷を落としてたところです。優勝できたのにできなかった。初戦のアメリカには最初3-2で勝っていたのに、もう1点を取りに行ったところで自分たちのミスからやられてしまいました」

ラモスは自分が監督に復帰したことで、ベテラン選手に広がった安心感を見逃さなかった。「ラモスが戻ったから自分たちに出番があると勘違いした選手」の存在が目についたのだ。

ラモスはベテランに「お前たちに約束された席はないぞ。いくらオレが帰ってきてもダメだぞ」と言い渡した。そして遠征後、招集する人数を増やし、若い選手を手元で確認した。もちろんニューカマーにも「チャンスは与えるけれど、2、3回もらえると思ったら大間違い。いつ出番が来てもいいように準備しておけ」と申し渡すのを忘れなかった。

「私は厳しいんだと思います。言葉もきついし。だって命を賭けて闘ってますからね。言う権利はありますよ。私についてくる選手、ついてこられない選手は誰か、心が強いかどうかわかるんですよ。それがいいかどうかわからないけど、私の下で心が弱い選手がプレーするのは無理ですよ」

新旧の選手が融合する中、チーム作りは順調に進んでいるように見えた。ところが2019年1月、ブラジルに遠征した日本はワールドカップでライバルとなるブラジルに1-5、4-11と大敗し、一気に暗雲が立ちこめたように見えた。しかし、これについてラモスは、苦笑いしながら真相を語った。実はこの大敗には裏があるという。

「この試合は普通の試合というよりもエキシビションマッチに近かったんです。ブラジルにはロナウジーニョやジョルジーニョが加わって、その2人が得点を取るためのような試合になりました。しかも当日になって17時の試合がテレビ放映の都合で13時キックオフになったりしたんです」

エキシビション的な要素も強いことから、試合前、ブラジルチームと「ゆっくりやりましょう」という話までしていた。しかし実際に試合が始まると、そうはならなかった。

「試合が始まってみると、ブラジルの2、3人の選手がその約束を無視してガンガン点を取りに来ました。どうやら2013年のワールドカップのとき、日本に追い詰められて非難されたというのを覚えていて、私がいるのを見て火がついてしまったということでした。ゲームが終わった後、ブラジルの監督とチーム責任者が謝りに来ましたからね。だから本当は結果を記録しておかなくてもいい試合なんです」

そんな大敗に終わった試合だったが、ラモス自身はアジア予選に向けて大きな手応えを感じていた。

「初戦の第2ピリオドが終わった時点では1-1だったんです。そこから日本はガクンと落ちました。ただ、そこまでの戦いができればアジアでも問題ないと確信したんです」

世界2位イランとの激闘を制しそのままアジアの頂点へ

アジア予選のグループリーグで、日本はクウェート、カタール、バーレーンと中東勢ばかりという組み合わせになった。ラモスの緊張感も高まって2019年に入ってからはピリピリムードが続き、知り合いの記者とも激しいやりとりをすることもあった。

そんな中で始まったアジア予選、日本は初戦のクウェート戦を8-1、続くカタール戦を7-1という圧倒的なスコアで制した。だがラモスに笑顔は見られない。それどころかいつも以上に怒っていた。

「クウェート戦のとき、日本の出来が悪いのに腹を立てて、途中で2回ぐらいベンチを出て会場の外に行ったんです。そうしたら仲のいいカタールの監督がいて、私が脳溢血だったことを知っていたから『あなた、死ぬよ』と心配してました」

「こんなくだらないサッカーをやるために来てるんじゃない!」試合後に選手たちにも雷を落とした。しかしそれで選手たちの尻にも火がついた。

ラモスは自分のことを「私は元々、立派な態度の指導者ではないんです。言葉汚いし」と語る。

しかし一方で自分の特長も理解している。「人を心で動かせます。それは自分で天下一品だと思っています。誰も真似しないし、できないでしょう。どんないい監督でもこの部分については無理です」

第3戦、それまでの連勝で余裕を持って臨めたバーレーン戦は戦略がピタリとハマる。「バーレーンは、いいチームですが体力があまりないから、最後の3ピリオドが始まったときに勝てると思っていた」というとおり6-2で完勝。3連勝で準々決勝へと駒を進めた。

ところがグループリーグを首位で突破した日本には、最大の試練が待っていた。世界ランク2位のイランがオマーンに負けるという波乱が起きたため、準々決勝で日本がイランと対戦することになったのだ。

過去、日本がイランとアジア予選で対戦したときは、ワールドカップ出場を決めた後ばかり。ところが今回は勝ったほうしかワールドカップに出場することができない。ラモスも「これはマジやばい」とイランとの死闘を覚悟をしたという。

そこでラモスはあえて選手たちを突き放した。

「イラン戦の前日の午後、私は選手に会わないように、会っても目を見ないようにしていました」

ラモスが指示を出せば選手はきちんと従うだろう。だが、それは同時に依存心につながる。選手が監督に頼り切って勝てる相手ではない。選手個々人が強敵を自分の力でねじ伏せようと思わない限り、日本の勝利はない。ラモスは選手に弥猛心が沸き起こるのを待った。

翌朝、ラモスが朝起きて食堂に行くと、選手たちから感じるものがあったという。

選手たちが真剣ですごい目をしていた。その時点で「これはワールドカップに行ける」と思ったと確信したほどだったそうだ。ラモスもこの大会を通じて監督として一番うれしかった出来事だったと語る。

イランとの決戦は試合が始まると、第1ピリオドで0-2とリードされる苦しい展開に陥った。しかし第2ピリオドで茂怜羅オズが最高のプレーを見せ、相手の2人のエースを抑える。そのプレーぶりには辛口のラモスも「本当にすごかった」と絶賛を惜しまない。ラモスはオズのことを「私が見たビーチサッカー選手の中で5本の指に入るいい選手」と評価する。

第2ピリオドの途中で山内悠誠がピッチに出たときには、チームの雰囲気は最高潮に。その山内がゴールを決め、1点差に詰め寄った。「第3ピリオドで同点にしたらいけるんじゃないか」と期待していたとおり、赤熊卓弥が決め同点に追いつくと、延長戦でもその赤熊がPKでゴールを決めついに逆転に成功。日本は下馬評を覆し、イランを破ったのだった。

ビッグマッチに競り勝った日本だったが、ラモス自身はあまり喜んでいなかった。いや喜んではいられなかったのだ。宿敵を倒したとはいえど、準決勝で負ければワールドカップに出場できない。気持ちをすぐに切り替えていた。

「試合はあと2試合あるんです。みんなイランに勝って大喜びでしたが、私はそういう状況を考えて冷静に、普通のテンションを保ちました」

準決勝パレスチナ戦、勝てばワールドカップへの出場を決める一戦。ラモスには絶対に勝てるという戦略があった。

「体力がないから第3ピリオドに入ったところでどんどん選手を交代させれば、相手がバテるだろうと思ってたんですよ。ところがみんな決勝に行けると思って頭がパニックになって、なかなかいいプレーができなかった。」

それでも試合には6-0で勝ち、日本は10大会連続でワールドカップへの出場を決めた。しかしラモスはまたしても喜ばない。それどころか試合後に浮かれる選手たちに「おまえたち、次のUAEにやられるぞ。ワールドカップ行きが決まったのにつまらない試合をして、応援してくれてる人たちに申し訳ない」ときつい言葉を放ったのだ。

そして迎えた決勝のUAE戦。ラモスの心配は的中する。日本は2-0とリードするものの、1点を返されるとムードは一気にUAEへと傾く。「ビーチサッカーほど1点で試合の流れが変わるスポーツはない」とラモスが言うとおり、日本は空回りを始めた。

試合前から「第3ピリオドが勝負になるか、延長戦もある」と踏んでいたラモスの読みは当たった。試合は延長戦に入り、UAEは決定的なチャンスを迎えるがモノにできない。そしてそのピンチを凌いだことで日本に再び波が訪れ、ついにはPK戦で優勝したのだった。

優勝という最高の形で予選を突破した。しかしラモスにとって、ワールドカップ出場というプレッシャーは想像以上にきつかった。試合後、優勝して嬉しいという気持ちはありつつも、表情はどこか「安心した」というものだった。

「『LDH JAPAN』の仕事が入ってきている中で、HIROさんが背中を押してくれた。私は、どんなにみんなに迷惑かけているか知ってます。だから本当に優勝できてよかった」

ともにチームをまとめてきた牧野真二コーチの存在は大きかった。

「牧野コーチがいなかったら監督をやるつもりがありませんでした。日本サッカー協会に、監督に就任するなら牧野をコーチに付けてほしいと言ったのですが、協会はなかなか決められなかった。それで牧野コーチが契約しなかったら契約しないって言ったんです。そこまでやって、本当によかったと思います」

そして一緒に闘ってきた選手たちにも感謝の言葉を口にする。

「このうるさくて口汚い監督をみんな信じてやってくれたことに感謝してます。オズは日本のビーチサッカーを引っ張ってきてる人間だから、一度優勝させてあげたいと私も思っていました」

ただ、優勝してみんなで喜んだんですが、もうその1ページは終ったという。早くも次を見据えているのだ。

「これからの合い言葉は『11月のワールドカップで優勝しよう』です。その自信がない人、口だけの人はすぐ分かるから出て行けと言います。今回予選を戦った選手にも約束された席はありません。舐めたら終わりです。みんなワールドカップ行きのチケットを取ったけど、今私が預かってるから、そこから取らなきゃ。ただ、これから席をもらえるチャンスは、もうあまりありません。たぶんワールドカップまでに1回ぐらい。私はワールドカップで3連敗しても、戦えるヤツを連れて行きます。責任は私が取ります」

ラモスにとって、なにより一番感謝を伝えたいのは、ずっとそばで支えてくれた妻の俊子さんだ。

「脳溢血からの復活を考えると、やっぱり妻が支えてくれてたからですね。娘や息子もそうですが、妻が一番だと思いますよ。あそこで助けてくれたから、私はここに座ってるんのだから。だから金メダルは彼女のものです。あの金メダルは妻のメダルで私のじゃない。ボーナスはちょっとだけ牧野にあげます。牧野、子供が生まれたばっかりだからミルク代ぐらいは出すよって(笑)」

激闘を一通り振り返ったあと、ラモスは笑いながら監督復帰のときの家族の言葉を教えてくれた。

「そう言えば、ビーチサッカーの監督になる前、悩んでいた私に娘が言ってました。『親父、やるんだったらさっさとやれ』って(笑)。今、思い出したましたよ」