「榮太樓」が創業200年でも常に斬新なワケ
創業時から変わらない三角形の梅ぼ志飴(写真:榮太樓總本鋪提供)
東京・日本橋と共に歩んできた榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)。全国飴菓子工業協同組合の加盟企業の中で最も古い菓子店であり、40代後半の人にとってはみつ豆のCM「はーいえいたろうです」が懐かしいだろう。
この連載の一覧はこちら
現在、「榮太樓總本鋪」「あめやえいたろう」「にほんばしえいたろう」「東京ピーセン」「からだにえいたろう」の5つのブランドを掲げ、200年の味を守りながら新しいことに挑戦し続けている。
榮太樓の歴史は、埼玉の飯能市から2人の孫を連れて江戸に出府した細田徳兵衛が、今から200年前の1818年(文政元年)、拳煎餅という瓦煎餅に似た煎餅を創案した。九段坂の周辺で販売し、「井筒屋」となったことが発祥。その後、徳兵衛の孫・安太郎が後を継いだ。
高級菓子を気軽なものに
「榮太樓」という屋号になったのは、安太郎の弟の長男・栄太郎が襲名したあとだ。屋台で金鍔(きんつば)を父と売り歩く姿が日本橋の魚河岸で親孝行だと評判だったが、1852年に父と叔父を江戸のはやり病で亡くしてしまう。栄太郎は、弱冠19歳で井筒屋を支えることとなり、1857年(安政4年)、日本橋に本店を構える。その間、井筒屋よりも「えいたろう」と呼ばれることが多くなったことで「榮太樓」と屋号を改称した。
日本橋を本拠地としてからも、金鍔のほか多くの菓子を創製した。「有平糖(あるへいとう)・梅ぼ志飴」「甘名納糖」「玉だれ」は特に好評で、榮太樓の名を世に広めるに至った。それだけでなく、「有平糖・梅ぼ志飴」「甘名納糖」は高価だったお茶菓子を庶民も気軽に楽しめるようにしたという役割を担った。
梅ぼ志飴、玉だれ、打物成形、甘名納糖煮込などが製造されている場面が描かれている(画:柴田真哉『榮太樓工場の図』、榮太樓總本鋪提供)
今でも榮太樓が扱う飴は、有平糖の流れをくむものだ。有平糖とはポルトガルに由来する金平糖や金花糖と同様の砂糖菓子のこと。コメなどのでんぷんを麦芽糖化した水あめをメインに作られるキャンディーとは違い、砂糖の比率が高い。
また、キャンディーは香料で味付けがなされるが、有平糖は高熱による化学変化と焦がしによってできる「カラメル」の味がベース。あっさりとした優しい甘さで深みとコクがあり、歯につかずカリカリとかみごたえがある飴だ。基本的な製法はずっと変わらず、榮太樓の歴史と誇りを担う。
「甘名納糖」は甘納豆のことで、「発売したのは当社が最初」(榮太樓總本鋪の細田眞社長)。スナック菓子のように食べられるよう、甘納豆によく使用される大納言小豆ではなく、より安価なささげ豆を使ったことでなじみやすいものにした。
ささげ豆は皮が硬く煮ても破れないことから「腹が切れない」=「切腹しない」と縁起物として知られるようになり、戦前までは飴をしのぐ看板商品だった。こうして日本橋で働く魚河岸商人や軽子たちに親しまれる工夫をしてきたのが榮太樓だ。
みつ豆を米屋ルートで拡販
明治時代を順調に歩み、販売店としては大正年間の三越本店、銀座松屋、1955年(昭和30年)ごろの東横百貨店があった。1907年ごろには個人商店として初めてレジスターを導入。見学に訪れる人も多かったという。1923年の関東大震災では、工場と店舗が全焼したが震災の数日後より製造を再開、あり合わせの道具でまんじゅうや金鍔などを作って乗り越えた。
太平洋戦争では空襲後で日本橋一帯が焼失し、食料品統制で割り当てられる材料の中で細々と続けていた。だが、砂糖の入手が困難で菓子が作れず、代わりに総菜やつくだ煮などを作っていたこともあるそうだ。
1947年(昭和22年)に喫茶室から再スタート。その4年後には東横のれん街が設立され、出店した。1956年に調布工場、1962年に現在の榮太樓ビル(東京・日本橋)を竣工した。
日本橋本店の店内の様子(写真:榮太樓總本鋪提供)
みつ豆は榮太樓の認知度を大幅に高めるきっかけとなった商品だ。世間ではすでにみつ豆の缶詰は安価で入手可能だったが、「喫茶店で食べるあんみつをそのまま提供する」というこだわりを持って、あえて通常の約2倍の価格で販売を始めたのが1974年のこと。
ポイントは、米屋にルートを築いたことだった。米屋にあんみつを卸し配送費を一部負担することで、顧客があんみつを注文したらコメと一緒に届けてもらうという方法で販路を拡大した。
工場における機械での量産が可能になったが、それでも「手作りのものを多く残している」と細田社長。製造工程を自動化すると機械に合わせて材料を変えたりすることも多いが、それでは味が変わってしまう。「手でできることを機械に置き換える」という発想を変えず、手作りの味を損ねる場合は手作りのままにしている。
現在も、飴、ようかん、金鍔、甘納豆、ほとんどの生菓子の基本的な作り方は変わらない。そのため、一部の生菓子は量産ができず、日本橋の本店でしか購入することができない。
東横のれん街(1951年)をはじめとして、百貨店への出店を加速、1989年の年間売上高は約100億円に達し、全国に約80店舗を展開するまで拡大した。しかし、以降は百貨店の不振によって販売数が減少し始め、工場の稼働率も低下。
量販店向けの飴でこちらも有平糖。あっさりとした自然な甘さ(写真:榮太樓總本鋪提供)
商品が売れる場所を確保すべく、社内でスーパー・コンビニなどの量販店市場への進出が議論された。
細田社長は「最も大事にしてきた商品の1つである飴を量販店市場に出せば、これまで直接納品していた仕組みから、間に商社が入ることになり、直接目の届かないルートになる」と苦渋の決断だったことを明かす。
1994年、量販店市場に進出。全国のスーパー、コンビニなどでより広く販売され、最も売り上げに寄与する部門に成長した。
庶民に寄り添い庶民に愛される菓子を提供してきた榮太樓は新たにスーパーやコンビニという販路を得たことで、平成の時代の流通形態にも対応、より多くの人に親しまれることとなった。
実験的に作った商品がヒット作に
ここでまた転機が訪れる。伊勢丹新宿店の改装に伴って、今までにない新しいものを提案してほしい、と伊勢丹側から依頼があり、2007年に女性をターゲットにした「あめやえいたろう」というブランドを立ち上げた。当初、新ブランドで扱う看板商品としてあずきや豆を使ったものを提案するもことごとく却下された。「榮太樓だからできること」として看板となる飴を加工できないか、と要請され考案したのが板あめの「羽一衣(はねひとえ)」だ。
羽一衣。有平糖を一枚一枚、板状にした飴(写真:榮太樓總本鋪提供)
細田社長が工場勤務の際に、仲間とともに実験的に作ってみたものだ。「正直なところ量産などまったく念頭に置いていないいたずら心で作ってみた商品だった(笑)」。
だが、「これはいい!」と伊勢丹側が気に入りメインの製品になってしまった、という。
商品開発部門と外部のデザイナーによって「あめやえいたろう」の見せ方が決まり、乙女心をくすぐるスイートリップなどが人気となり行列ができた。
スイートリップ。有平糖をベースにした「みつあめ」。グロスリップのようで女性に人気(写真:榮太樓總本鋪提供)
そのため、生産が追いつかず、売り切れ続出となった。2013年、新たに「にほんばしえいたろう」をオープンし、少量多品種、小分けにした、かりんとうや豆を販売。
また、2017年の和菓子の日(6月16日)にはシニア世代をターゲットに糖分カットのようかんなどを扱う「からだにえいたろう」を立ち上げた。
現在は、お土産市場をターゲットに銀座江戸一から引き継いだピーセンにも力を入れている。「社風として温故知新を掲げている。これまでの味や方法をも守りながら、新しいことをやることには抵抗がない」と細田社長は話す。
細田眞社長は「お客様に愛されながらお客様に育てられ、それは今でも変わらない」と言う。
「のれん」は磨き育てるもの
百貨店の不振、コンビニの台頭、ネット販売で和菓子市場は大きく変化している。また需要層が高齢化しており、実際、日本橋本店の顧客層は50〜60代が多い。
一方、和菓子の販売数はほぼ横ばいで、和菓子自体が売れなくなっているわけではないが、主に百貨店に出店することで収益を保ってきた和菓子店の数が減少している。団子や季節商品をコンビニやスーパーで買う人が増加し、購入場所が変化していることを示している。
「それまでは手間がかからず高く売れる商品が収益につながっていた。現在は消費者が食べやすい小分けのものでないと売れなくなっている。だが小さくすれば包装費用などのコストがかかる。コスト削減をどこですればいいのか。材料を安価にして味を落としてしまうとお菓子屋としてダメになってしまう」と細田社長は胸中を吐露する。
細田眞(ほそだ まこと)/榮太樓總本鋪社長(8代目)。1954年生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、日本郵船勤務を経て、1983年家業に入る。2008年より現職(写真:筆者撮影)
百貨店の拡大時期の約100億円の売上高をピークに、現在は年商60億ほどまで減少。新ブランドで若い年齢層へのアプローチを図るが、拡大路線はとらずに黒字化を目指している。
また、細田社長は「和菓子は生活に密着しているがゆえにあまり変化してこなかった。節句に洋菓子も参入し始め、洋菓子があんこを使用することはあっても、洋風の材料やクリームを和菓子に取り入れるという発想はまだまだ少ない。もっと変わってよいし、可能性を秘めている」と考える。
6代目・細田安兵衛氏(相談役)の言葉を借りれば「のれんは守るものではなく、磨き、育てるもの」。
一企業であるものの、日本橋を代表並し、和菓子店を牽引する老舗企業の一社として、多くの日本橋仲間・和菓子仲間と生きてきた榮太樓。「日本橋では地元との付き合いが欠かせず、地元から愛されなければ続かない」(細田社長)。今後も日本橋とともに歩む榮太樓の挑戦は続く。