沖縄・辺野古で憲法を問い直す──基地労働者が伝える歴史の「警告」
支持率は危険水域まで低下、一強支配に陰りが見える中、それでも改憲への道をひた走る安倍政権。戦後日本が掲げてきた平和主義が曲がり角に立つ一方で、72年前の地上戦から27年に及ぶアメリカ統治時代、辺野古への米軍新基地建設で揺れる現在まで、沖縄には、犠牲と負担を集中的に強いられてきた歴史がある。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪の先にある戦争は決して沖縄だけの問題じゃない。「殺し、殺されない国」が迎えた岐路と行方を徹底取材。いま、沖縄から「戦争」を考える──。
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米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還に伴う名護市辺野古への新基地建設問題をめぐり、沖縄県は7月24日、工事の差し止めを求め那覇地裁に提訴した。
遡(さかのぼ)ること3か月前の4月25日、国は辺野古での埋め立て工事を再開。砕石(さいせき)を海へ投入し、埋め立て予定地を囲む堤防を作るための護岸工事にも着手している。これに対し県は、国が埋め立てに必要な『岩礁破砕許可』を更新せず、知事の許可を得ないで工事を続けているのは違法と主張。判決まで工事を一時中断させる仮処分も申し立てた。
国と県の法廷対決は5度目。提訴後の記者会見で翁長雄志知事は、「恣意(しい)的に制度をねじ曲げるやり方は法治国家からはほど遠い」と政府を厳しく批判した。
「闘う知事」に寄せる県民の期待は依然高い。沖縄タイムス、朝日新聞社と琉球朝日放送が共同で4月に行った『県民意識調査』では58%が「支持する」と答え、また61%が辺野古の新基地建設に「反対」している。
提訴目前の7月22日、主催者発表で2000人が米軍キャンプ・シュワブのゲート前に集まった。基地のフェンスに沿って約1・2キロにわたり包囲する『人間の鎖』を作り、辺野古新基地建設に抗議したのだ。司会を務めたのは『オール沖縄会議』の共同代表で大学院生の玉城愛さん(22)。
「生活者としてここにいて、基地があって、事件・事故や健康被害もあって。沖縄戦から今に至るまでの歴史的文脈を踏まえて、新基地建設に反対しています」
そう話す玉城さんは、戦争はもちろん、沖縄の本土復帰や、米兵による少女暴行事件が起きた当時の空気を直接は知らない。それでも「子や孫のために闘ってきた世代の方たちがどんな思いを持っているのか、次の世代にしっかり伝える責任も感じています」と語る。
那覇市内の大学に通う渡具知武龍さん(20)も“託されたバトン”をつなぐ。
毎週土曜日、夜6時半。シュワブ前の国道329号沿いを柔らかな明かりが照らす。ペットボトルにろうそくを入れたキャンドルを手に持ち、渡具知さんはゲート近くに立つ。そして、両親や2人の妹とともに、往来する車や米軍関係者に笑顔でこう呼びかける。
「ジュゴンの海を守りましょう! 辺野古に基地はいりません!」
この『ピース・キャンドル』は、2004年11月、辺野古で海底ボーリング調査が始まった年に「誰でもできる抗議をしよう」と地元住民である渡具知さんの両親が始めた。小学1年生から家族で沿道に立ち続け、大学2年生となった今も、渡具知さんは週末に実家へ戻り活動を続けている。
辺野古への新基地建設を問う『名護市民投票』のあった1997年生まれ。そのため、「辺野古問題と一緒に生きてきた」と話す。
「目の前で美しい自然が壊され基地が作られる。自分たちも被害を受けるかもしれない。20年前に住民投票でノーと結果を出しているのに、握りつぶされて、そこから納得いきません。やっぱり闘っていかないと」
憲法がなかった沖縄──基地労働者が伝える歴史の「警告」
「『平和の礎(いしじ)』にようやく父の名が刻まれたんだよ」
そう話すのは瀬長和夫さん(77)だ。マニラ海軍防衛隊としてフィリピンに出陣し、マラリアと栄養失調で復員後に亡くなった父の名は、今年、沖縄戦没者すべての名が刻まれた石碑に新たに加わった。父は行政の手続きで遅れたが、親戚や集落の住民54名は、すでに刻銘(こくめい)されている。
瀬長さんは5歳のとき、疎開先の北海道で敗戦を迎え、1947年に沖縄に戻った。
「沖縄戦は本当に悲惨だった。一面焼け野原で、人が生きているのが不思議なくらい。それでもみな、しぶとく生きてきた」
アメリカ軍は’45年4月に沖縄本島に上陸後、次々と基地建設に必要な土地を占領した。日本の敗戦後も武装兵と重機を投入する「銃剣とブルドーザー」で土地を強制接収、人々は家や耕作地を失った。米軍統治下の沖縄は、戦後の貧しさに加え、職もなかった。
「本当に貧しかった。小学生のころ、米軍が捨てたゴミに食べ物がまぎれていないか拾う上級生もいました」
瀬長さんは’62年に普天間基地に就職。貧困にあえぐ中、人々は反戦の思いを抱えつつも、基地で働かざるをえない状況にあった。
「当時は公務員や教員も、1、2度は軍作業員になった。生活できないから基地に流れていったんです」
’66年ごろから、米軍基地労働者の組合『全沖縄軍労働組合連合会』(全軍労)の結成に関わり始める。
「若い女性労働者が米軍のマネージャーから夜に誘われ、断ったら、翌日には解雇。そんなことが普通でした」
米軍占領下で日本国憲法が適用されなかった時代。当時は《白人専用トイレ》があり、沖縄の人々は入れなかった。
「おなかを壊した仲間が使ったら、見つかって犬や猫のように放り出されてね。基地の中での差別、無権利状態が続いていたんです」
「反米だ」と尋問されないよう、水面下で説明して仲間を増やした。女性の相談が多く、話を聞くのは夜の仕事を終えてから。深夜のこともあった。
瀬長さんは、沖縄をめぐる問題の「根っこにあるのは人権の回復」と強調する。
犠牲の上に成り立つ基地と日米安保
基地内の労働環境が改善される一方、沖縄では、嘉手納基地の爆撃機B52の墜落事故、核や化学兵器保有問題をはじめ、あらゆる事件、事故を受けて基地反対運動が本格化した。
’70年の沖縄復帰闘争の先頭には全軍労の旗があった。瀬長さんも「地域の人の犠牲の上に生きていることを忘れてはいけない。いずれ基地をなくさなくては沖縄のためにならない」と考えていた。
ベトナム戦争に反対し、タグボートを送ることに抵抗した基地労働者もいた。
「あの時代は、米軍とケンカも辞さない命がけの闘争をしていましたね」
ベトナム戦争の終結前後には、沖縄全体で1万8000人の基地労働者が解雇。全軍労は「基地労働者を解雇するならば、土地を返せ」という方針を立てた。
「そのとき、解雇された人々を救ったのは県民です。市町村の役場や民間企業が雇用して助けてくれた」
’78年に全軍労は共闘する本土の『全駐留軍労働組合』(全駐労)と組織統一。’95年、米兵少女暴行事件で県民の反基地感情が一気に爆発し、抗議の県民総決起大会には県内外から8万5000人が結集した。
「日米安保のせい。無念だった。全駐労も基地撤去を表明した」
’96年、『沖縄に関する特別行動委員会』(SACO)で、普天間基地をはじめ11の施設、区域の返還が発表された。どう返還させ、労働者を救済するか。全駐労と県は雇用対策委員会を作り、基地労働者ひとりひとりの救済シミュレーションを作って返還に備えた。基地が減るのに伴い、労働者の採用は当然、絞らなくてはならない。だが、「安保遵守・雇用拡大」を唱える『沖縄駐留軍労働組合』は「1万人、雇用を増やせ」と主張、大論争になった。
「理想で飯は食えないが捨てたら何にもならない。県民に反することはするな、人間の心を忘れるな、と」
そう当時を振り返る。
沖縄県の本土復帰から45年を迎えたが、「人権の回復」はまだ実現できていない。瀬長さんは辺野古新基地建設に反対している。
「オスプレイが100機も常駐し、米国内でできない訓練を沖縄でする。観光が右肩上がりで発展しているが、危険な土地に人は来ない。国は“沖縄を守るため”と言うが、県民は米軍に日常的に生活を脅かされ続けているんです」
その一方で、「昔の話は面倒くさい」という言葉を聞くようにもなった。
「今は権利も保障されていて、考えずにすむのかもしれないけど、私たちは尊厳を勝ち取る必要があった。何もしなければ、例えば共謀罪や改憲も、気がついたころには手遅れになる。歴史を忘れてはいけない」
現実を憲法に近づける努力を
平和を求め続けた沖縄。そこから見た憲法は、どのように映るのか。
「東京で30年育ちましたが、その平穏な生活は、基地負担のうえに成り立ってきたことを沖縄であらためて感じています」
そう話すのは小口幸人弁護士(39)だ。昨年、沖縄県南部に事務所を構えた。
「沖縄の反対運動がなぜ盛んか、本土では理解されないかもしれないが、沖縄には日本とアメリカに虐げられた歴史と、基地のない島にしたいという世代を超えた願いがある。辺野古に作る基地の耐用年数は200年。子や孫に基地を残せないという思いがあるんです」
沖縄にいると、憲法が実態と離れている部分を肌で感じる、と小口弁護士。
「沖縄は、現実(基地)と憲法9条の矛盾を押しつけられ、それでもなお、子や孫に託したい希望を憲法9条の理念に見ている。
安易に憲法を現実に合わせるのではなく、沖縄の先人たちのように、今の国民も、現実を憲法に近づける努力を続けるべきだと思います」
取材・文/吉田千亜と本誌「戦争」取材班