森末慎二さん、鉄棒少年の第二の人生「体操以外で体操を応援したい!」
横浜市青葉区に広がる日本体育大学健志台キャンパス─。約17万平方メートルの広大な校地に体育館、体操競技館、陸上競技場、プール、ラグビー場、サッカー場、野球場、テニスコートなどのスポーツ施設が点在する。すれ違う学生、バスを待つ学生たち、男女ともにそのほぼ100%がTシャツに短パン姿である。
施設のひとつ体操競技館。学生たちが体操競技の練習に打ち込む場所に、学生たちにとってレジェンドといえる大先輩がやって来た。森末慎二(60)。1984年、ロサンゼルス五輪の体操競技、鉄棒で金メダル、跳馬で銀メダル、団体で銅メダルを獲得したオリンピアンである。
偉大な先輩の来訪とあって、競技館にいた学生たちが集まり、「こんにちは!」と一斉に挨拶。さすが体育会系である。とはいえ、彼らが生まれたのは、森末の快挙から10年以上も後のことだ。おそらく「テレビでよく見る大先輩」なのだろう。森末が言う。
「僕らの時代は、世田谷区深沢の体育館で練習していました。この体育競技館は、ナショナルトレーニングセンターができるまでは東洋一の規模だったんですよ」
そして森末は、当時と現在の体操競技の違いを説明してくれた。
「例えば床運動のマットは、今のものはフカフカでまるでベッドのようでしょ。僕らのころはこの3分の1以下の厚さで恐ろしく硬かった。体操の器具に関しては驚くほど進化してますね」
◇ ◇ ◇
昨年のリオ五輪で史上初の体操個人総合2連覇を成し遂げた内村航平(28)は、ある記者会見で「目標とする体操選手は?」と聞かれ「藤巻駿です」と答えた。それは『週刊少年サンデー』(小学館)に’94年から2000年まで約6年間連載された体操漫画『ガンバ!Fly high』の主人公の名前だった。
この作品は、単行本全34巻となり、’96年から’97年にかけてはテレビアニメとして放送されている。
この漫画の原作者こそ、森末慎二その人なのである。
恩返しのための「体操漫画」
「僕はロス五輪の翌年に引退し、芸能界での仕事を始めました。そんな中でずっと“自分を有名にしてくれた体操に何も恩返しをしていない”という思いがあった。そこで、体操漫画を作ってみようかと思いついたんですよ」
ストーリーは、体操でオリンピックの金メダルを目指す少年・藤巻駿の成長物語。物語の序盤、中学1年生の時点では逆上がりすらできなかった主人公が、練習を重ねることで徐々に才能を開花させ、最後には国際大会で華々しい活躍をするというものだ。
「最初は、体操の技というよりは、逆立ちをしたり、バク転をしたり、ということをひとつずつものにしていく、ということから始めました。そういう基本的なことをやっていきながら、試合に参加するようになり、だんだん難しい技にチャレンジしていくというストーリー。
だから漫画家の菊田洋之さんも慣れていってくれたんですね。菊田さんと一緒に、練習だけでなく、大会も見に行った。全日本、社会人、世界選手権も全部一緒に行きましたよ」
内村航平は、この漫画を読んで「あ、僕と一緒だ」と感じることがあったと言う。
物語の中で、主人公の藤巻駿がケガをして体育館の隅で見学している場面。そこへ先輩が「練習できなくて退屈だろ?」と声をかけると「いや、面白いですよ。演技している選手が見ている全部の景色が見えるから」と駿が答える。
森末は、それは自身の体験から来たものだと言う。
「打ち合わせをしていて、僕は競技中にこういうふうに見えるんだよ、と言ったら菊田さんが“それは面白い”ということになって出てきたんです。自分ではなくて、他人がしている演技を見ているだけで、どんな光景が見えているのかわかる。僕は誰でも見えていると思っていたら、そうでもなかった。わかっているのは、僕と内村航平には見える、ということなんですね」
鉄棒少年、オリンピックを目指す!
森末は1957年、岡山県岡山市に生まれた。子どものころはガキ大将だった。悪さをして父親に殴られたことは1度や2度ではなかった。
体操に目覚めたきっかけは、小学生のときにテレビで見た鉄棒の技「大車輪」。「すごくカッコよかったので、まねしてみたらできた」というからすでに才能の萌芽はあったのだろう。中学までは体操部がないため、もっぱら校庭の鉄棒で遊んでいた。
そのころ、すでに独学で“降り技”を身につけていたというからすごい。
とにかく鉄棒が大好きで、目立つことが楽しかった。母親からは、「そんなに好きならオリンピックに出たら目立てるよ」と言われ、森末少年はオリンピック出場を夢見るようになる。
本格的に体操を始めたのは、岡山の関西(かんぜい)高校に進んでからだった。強豪校の体操部の練習は、ついていくのがやっとだった。
「休みは元日だけ。364日は練習の日々ですよ。それでもやめなかったのは、やめたら、大好きな鉄棒ができなくなるからだったんです」
しかし、オリンピックの夢は早々に打ち砕かれる。
雲の上の存在に思えた憧れの体操部の先輩が、全国レベルでは無名の選手だと知ったときだった。
「これは俺なんか、とてもオリンピックには出られない」と思ったのだが、まだ夢は捨てきれなかった。
先輩のひと言で真の体操人生スタート
大学は日本体育大学(日体大)へ、特待生として入学。ところが、高校の猛練習の毎日に比べあまりに自由な大学生活から、森末は練習よりパチンコに熱中してしまう。
「そもそも日体大体操部の練習は、個々の自主性に任されているんです。一般的な部活のような全員参加ではなくて、練習したい人だけが、練習をする。つまり、サボろうと思えば、いくらでもサボることができる。言い換えると、自分で自分を厳しく律することができる者だけが、生き残れる世界なんですね」
実際、高校時代に好成績を残した選手が潰れていくことも少なくなかったのだ。
「僕ら中学では、跳び箱とマットと鉄棒しかやれないわけです。で、高校に入って初めて6種目になる。それでも高校は高校のレベルでしかありませんからね。大学に入って初めてオリンピックと同じ規定演技をやれるんです」
毎日パチンコばかりの森末だったが、誰からも文句は言われなかった。しかし唯一、「お前、何やってんだ!」と怒ってくれた人がいた。それは、2年先に日体大に進学していた、高校時代のあの憧れの先輩だった。
「そうか。このままじゃダメだ。よし、やってやろう」
森末の本格的な体操人生は、ここからスタートしたのだ。
競技としての体操に取り組むうちに、彼は徐々に頭角を現していく。
しかし、苦難も待ち構えていた。大学3年のとき、左アキレス腱断裂という大きな試練。そして、それが治ったと思ったら、今度は4年生で右アキレス腱断裂。絶望の淵に突き落とされた心境だった。そんなとき、監督が見舞いに来て、笑いながらこう言った。
「これで両足が同じになった。また普通に練習できるぞ!」
左が治ったのだから、右足だって治る。治ったら両方のバランスがとれるんじゃないか。そんなメチャクチャな理屈だったが、そのときの彼には大きな励ましになったという。
栄光の3色のメダル獲得へ
1980年、森末は日体大を卒業し、紀陽銀行へ入社。当時、紀陽銀行の体操部には、日本トップレベルの選手が多数所属、森末もその一員になったのだ。
それでも、この時点ではオリンピックはまだ遠い夢でしかなかった。ところが、そこに想像もしなかったチャンスが巡ってきた。
’80年といえば、モスクワ五輪が開催された年である。しかし、このオリンピックは日本を含む西側諸国が一斉にボイコット。それによって、森末の上の世代──「体操ニッポン」と呼ばれた時代をつくった名選手たちが、そろって引退したのである。それまで日本で20番目ぐらいの選手だった森末が、いっきに上位に躍り出たわけだ。また、演技の規定が変わり、多彩な技ができるようになったことも、追い風になった。
そして、’83年、ブダペストでの世界選手権で4位を獲得。このとき初めてオリンピックの夢が、目標に変わった。翌’84年、いよいよロサンゼルス五輪。森末は見事、その日本代表の座を手に入れたのだった。
「代表が決まるのが6月ぐらいで、オリンピックが8月、そんな短期間ではレベルアップなんて無理ですから、とにかくケガをしないように気をつけて、いかに失敗しないかという調整をしていました」
’84年8月、オリンピックが始まると、森末は絶好調だった。団体の規定で10点満点、さらに自由の鉄棒で降り技に3回宙返りに挑戦し、着地も決まり見事10点満点、持ち点トップで、種目別決勝を前に、金メダルが見えてきていた。ところが、種目別決勝の3日前、急激なプレッシャーのせいか森末は原因不明の39度の高熱にうなされてしまう。夏だというのに寒さで震え、食事もほとんど食べられない。それまでの体操人生でも初めての体験だった。
ひとり宿舎で横になりながら、何度も着地が「ピタリ」と決まる姿を思い浮かべながら過ごした。
そんな中で、森末はさらに悶々と悩んでいた。
森末とともにロス五輪の体操日本代表の具志堅幸司さんが当時を語る。具志堅さんは、ロスでは、個人総合、吊り輪で2つの金メダル、跳馬で銀、鉄棒と男子総合で銅メダルを獲得している。
「森末君は、鉄棒の降り技を3回宙返りにするか、伸身2回宙返りを使うかでずいぶん考えていました。着地のことだけを考えると、3回宙返りよりは伸身2回宙返りのほうが決まりやすい。しかし、森末といえば3回宙返りのイメージが強く、世界中のファンも3回宙返りを望んでいたはずです。ちなみに、3回宙返りも伸身2回宙返りもともに当時C難度で、最高難度でした。
結局、森末君は着地を最優先に考え、伸身2回宙返りを選びました。大変勇気のいる選択だったし、結果的には金メダルにつながったのだから、素晴らしい判断でしたね。そのことはいまだに忘れられませんね」
不思議なことに、金メダルが決まった瞬間、熱はすっかり下がっていたという。そして跳馬で銀メダル、団体でも銅メダルを手にしたのだった。
「実は、団体は王者中国に続いての銀メダル狙いだったんですが、地元の米国が急浮上してきて金メダルを獲得してしまった。でも、ひとつの大会で3色のメダルをそろえることができて、今ではよかったと思ってるんだけどね」
具志堅さんは、森末が代表に選ばれたのは、得意の分野を広げたからと分析する。
「彼の得意な種目は、平行棒と鉄棒でした。今でも平行棒には『モリスエ』という名前が採点規則にあり、現在でも多くの選手によって使われている技です。彼は本当に“楽しく”体操をやっていました。私は、それがとても羨ましかったですね」
芸能界で会いたかったあの人
ロス五輪を終えた森末は、翌年28歳で現役を引退した。
「もう、オリンピックが終わった次の日にはやめたかったですね。僕は小学校3年のときに鉄棒をやりだして、大車輪ができるようになって、高校で体操競技に入り、“オリンピックに行きたい”という夢を持ち、27歳でオリンピックに出場してメダルを手にした。ここで完結なんです。何か新しいことを一から始めないと面白くないと思い、芸能界に飛び込んだんです」
子どものころからの目立ちたがり屋にとって、芸能界は体操の世界とは全く違う興味津々の世界だった。
ロス五輪で注目されたこともあって、陽気で気さくな森末は、芸能界でも引っ張りダコの存在となった。ニュース番組のキャスター、バラエティー番組、旅番組、ラジオの冠番組……。CMも数多く出演した。中でも「くらし安心・クラシアン」のCMは14年続き、現在もキャラクターとして広告に登場している。
「芸能界に入りたかった理由のひとつは、会いたい人がいたからなんです。それが桂枝雀師匠でした」
現役時代、森末を悩ませていたのが不眠だった。
それを解消してくれたのが、上方落語界を代表する人気落語家、桂枝雀さんの落語のテープだったのだ。
「枕元にラジカセを置いてテープをセットして、枝雀師匠の落語を聴きながら横になるとスーッと眠れるんです。ロス五輪でもそうやって眠ることができたんですね」
きっかけは、日体大を卒業し、紀陽銀行に入りたてのころ、大学体操部の同級生の下宿で聴いた落語のレコードだった。
「枝雀師匠の『鷺とり』という噺(はなし)でした。これが抜群に面白かった。マクラがすごく楽しくてネタになっても楽しい。“わー、こんな面白い人がいるんだ”と思って、枝雀さんのテープを集めるようになったんです」
関西圏に近い岡山出身の森末は、落語より吉本新喜劇や漫才に親しんで育った。だから、この出会いは新鮮だった。
「枝雀師匠の落語を生で聴いたのは、芸能界に入ってから。’87年に枝雀師匠が東京・歌舞伎座で3日連続独演会を開いたとき、自分で前売りチケットを買って行きました。もう感激して涙が出ましたね」
さらに’88年、森末は直接、枝雀さんと会う機会を得た。
「師匠が司会を務めていた大阪のお笑い番組『枝雀寄席』(朝日放送)に呼ばれ、対談させていただいたんです。本番前、控室に挨拶に行って熱い思いを伝えました。でも、師匠はそのころ、すでにうつっぽくなっていたのかもしれませんね。“そう言われましても、ワタシ、そういうことは気にしないほうですからねぇ”とそっけないんですよ」
番組本番では無事に対談を終えたが、ロス五輪の映像が流れた途端、森末は一気に感情があふれ出し号泣した。
「もう、何にもしゃべれなくなっちゃって、そしたら師匠が“そんなにワタシの落語は悲しいですか?”とボケてくれたんです(笑)」
落語家の金原亭世之介さん(59)とは、森末がMCを務めるラジオ番組で知り合い、親しく付き合う仲である。世之介さんの独演会のゲストとして呼ばれるようになり、そしてあるとき、なんと自ら落語に挑戦することになった。
「高座名は『金メダル亭慎二』(笑)。そのときは枝雀師匠の『まんじゅうこわい』をまるまるやりました。そう、関西弁でね。マクラは標準語だけど、ネタに入ったら関西弁。だいぶ緊張してしまってお客さんにまるでウケない(笑)。もう2度とやるまいとも思ったんだけど、自分でも納得できなくて、世之介さんに“もう一度やらせてくれ”と頼んだんです」
そして今度は、枝雀さんの『親子酒』に挑戦する。舞台は国立演芸場である。
「そしたらドカンドカンとウケたんです。気持ちよかった。そこから調子に乗って、志の輔さんの『死神』や『親の顔』などもやるようになっていきました」
さて、森末と枝雀さんの話には後日談がある。
「1度、僕が『親子酒』をやっているビデオを師匠に送ったことがあるんです。そしたら人伝(ひとづ)てに、“ひと言、いいたいことがある”と師匠がおっしゃっていると聞いた。そりゃ感激ですよ。それなら師匠に稽古をつけてもらおうかとアポイントもないまま、住所を頼りに世之介さんと2人で新幹線に乗り、大阪の師匠の家を訪ねたんです」
しかし、うつ病を患っていた枝雀さんは人に会えるような状態ではなかったらしい。
「僕らは師匠の家を近所の公園から見ていたんです。階段を上がったりする師匠の姿は見えるのに、電話をかけても出てくれない。2月の凍えるような寒さの中で、2人で4時間待ったんですが、結局あきらめて帰りました」
枝雀さんの自殺未遂のニュースを聞いたのは、それから2週間後のことだった。
枝雀さんは森末に何を言いたかったのか。それは、結局わからずじまいだった。
講演やトークにも生かされる落語
’04年、アテネ五輪の年には、世之介さんに請われて池袋演芸場の昼席にまで出演する。
「普通、素人が寄席に上がるなんてことはありえない。でも、世之介さんが落語協会に話してくれたら、意外にも了承されて出演できました。毎日、昼過ぎに演芸場の楽屋に入り、着物着て高座に上がって、着物をたたんで帰ってくる。まるで本物の噺家ですよ。
もちろん昼席のトリは世之介さん。ある日、彼が体調を崩して長く話せなくなり、“慎ちゃん、長くやってくれ”と言うんで、いつもは15分くらいのところを50分やった。アテネ五輪が近かったから、オリンピックネタを盛り込んでいったら、たっぷり話せて、お客さんも大ウケで満足してくれました」
森末の落語について、金原亭世之介さんはこう言う。
「普通、素人が落語をやる場合、プロの落語家をまねしようとするんです。“えー、毎度ばかばかしいお笑いを”なんてね。でも、彼の場合は、自分の噺を自分のしゃべり方で話す。だから間違いなくうまい。プロと同じ目線で落語をやってますね。だいたい金メダルを取るような人は何をやってもうまい。そもそもしゃべり手としての技術を持っているから、講演でもまるで落語を聴いているように観客を楽しませることができる。勘がいいんですね、きっと」
森末自身も落語をやってよかったという。
「落語の会話は、右、左の向きで対話に見せるんだけど、それを講演にも取り入れると話がリアルになって、観客も入り込みやすいんですよ。笑いを誘うコツも落語に学んだことはたくさんあります」
元体操選手で、2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事でもある田中理恵さんも森末のトークを絶賛する。
「森末さんは、大先輩であり、また奥様が日体大の女子体操の監督でしたから本当にお世話になっています。よくトークショーなどもご一緒するんですが、体操の技術的な話を一般の方にわかりやすく伝えるテクニックには感動します。選手が試合に臨むモチベーションはどんなものなのか、というような話までできるのがすごい。私も見習わなきゃいけないところがたくさんありますね」
オリンピックのメダリストでありながら、落語も話せる──それだけではない。森末には、もうひとつの特技があった。それは音楽である。
「青春時代は、フォークソングの全盛だったから、僕もギターを弾いてました。大学では、体操の一方で後輩を集めてバンドを組んでました。バンド名は『ジムナスティックバンド』。日本語にすると、ずばり『体操バンド』なんです(笑)。オールディーズの曲が中心で、最初はドラムを叩いていましたが、そのうちボーカルも担当するようになりました」
10年ほど前からは、通っていた空手道場の仲間と「二子玉〜ズ」というバンドを組み、年に数回ライブ活動を行う。
「カバー曲もやるけれど、オリジナル曲も作って、自主制作でCDアルバムも出してるんですよ。最近では、アコースティックギターで弾き語りするライブもやっています。実は青春時代に憧れながら高額すぎて手が届かなかったマーティンのギターを手に入れたこともあってね。披露したいじゃないですか、自慢のギターを(笑)」
現役引退後、芸能界に身を転じた森末、一方の具志堅さんは指導者としての道を歩み、現在、母校である日本体育大学の学長を務めている。
「それぞれの道で新たなスタートを切った私たちですが、森末君には得意な分野をさらに広げてほしい。体操漫画の原作はじめ、オリンピックのテレビ解説などその活躍には頭が下がる思いです。これからも体操の普及、発展に尽くしてくれると思っています。心から応援しています」
さて、最後に2020年東京五輪の体操の見どころを聞いてみた。
「男子は、3年後には31歳になる内村がどうなのかによるでしょうね。やはり、彼の存在の有無は大きい。けれど、選手としてのピークは過ぎていますから。あとは白井選手たちが、どれだけ頑張れるか、それによってメダルをとれるかどうか決まってくるでしょう。
女子はすごく強くなってきているので、銅メダルは狙えるんじゃないですか。世界選手権などの放送もよく視聴されるようになって、体操競技の楽しみ方を理解してくれるファンも多くなっています。チームでの戦略などがわかればさらに競技が楽しめます。
僕もいろんな形で応援していこうと思ってますよ。まずは『ガンバ!』の続編をやろうと思ってるんです。藤巻駿の息子が活躍する物語。その構想はもうあるんですよ。また漫画を読んでオリンピックを目指す少年が誕生してほしい。内村航平に続け! ですね」
取材・文/小泉カツミ
こいずみかつみ ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母〜代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。