負の世界遺産・アウシュビッツ強制収容所を訪ねて
あまりにも有名な負の世界遺産、アウシュビッツ博物館。
たとえそれがポーランドにあることを知らなかったとしても、「アウシュビッツ」の名を知らない人はいないでしょう。
アウシュビッツは「アウシュビッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」として、人類が決して忘れてはならない「負の世界遺産」に登録されています。
アウシュビッツ博物館があるのはポーランドの古都クラクフから西に54キロのところにあるオシフィエンチムという小さな街。アウシュビッツ強制収容所(第一収容所)と、そこから2キロ離れたところにあるビルケナウ(第二収容所)の2つの施設からなっています。
ポーランドがナチス・ドイツの支配下におかれていた第二次世界大戦中の1940年代、アウシュビッツはもともとポーランドの政治犯を収容するためにつくられました。しだいに拡大され、ユダヤ人やロマ、ソ連軍の捕虜も収容するようになり、人類史上最悪の悲劇を生んだ一大殺人工場へと化していったのです。
戦後70年以上が過ぎた今でも見学者は減るどころかむしろ増えており、「なぜ人類はこれほどの過ちを犯したのか」「その過ちから学ぶべきことがあるはずだ」と考える人々が世界中からひっきりなしに訪れています。
アウシュビッツ強制収容所(第一収容所)の入口であったゲートには、「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の文字が。実際には、いくら働いたところでほとんどの被収容者は自由どころか生き延びることすらできませんでした。
ヨーロッパ各地から約130万人もの人々がアウシュビッツに連れてこられました。内訳は、ユダヤ人110万人、ポーランド人14万〜15万人、ロマ(いわゆる「ジプシー」)2万3千人、ソ連軍捕虜1万5千人、その他2万5千人です。このうちおよそ110万人がアウシュビッツで亡くなり、犠牲者の9割はユダヤ人でした。
この時多くの人々がドイツを経由し、アウシュビッツへと輸送されました。その悲しき出発点である駅のプラットフォームが今でもドイツの首都ベルリンには残されています。
収容所内には28棟の「囚人棟」があり、最大で2万8000人もの人々が収容されていたといいます。囚人棟の周囲には鉄線が巡らされており、約220ボルトの電流が流されていました。
現在囚人棟の一部は、当時の様子を伝える展示室となっています。
ここで起こった悲劇、犠牲者の苦しみを忘れないための記念碑。中には一部の犠牲者の遺灰が入っています。
アウシュビッツに到着した被収容者たちは、ドイツ軍医によって労働可能かどうかの選別を受けました。75パーセントの人々が「労働不能」と判定され、彼らはそのままガス室に送られたといいます。
子どもたちも例外なく連れてこられました。ヒトラーのナチス・ドイツが目指したのは、ユダヤ人の根絶だったのです。
被収容者のガス殺に用いられた毒薬「チクロンB」。もともとは殺虫剤だったものが殺人に応用されました。
実はこの毒ガスは第一次世界大戦の悲惨な塹壕線を早く終結させるという考えによって、ドイツの天才科学者フリッツ・ハーバー博士によって開発されたものでした。
一缶のチクロンBで150人を殺害することができたといいます。ここにあるだけでどれほど多くの命が奪われたのか……言葉を失ってしまいます。
さらに付け加えると、この毒ガスを開発したフリッツ・ハーバー博士は、アインシュタインも認めるほどの天才科学者で、アインシュタインとおなじユダヤ人でした。
祖国ドイツのための研究とはいえ、妻が自殺して抗議、反対したにも関わらず毒ガスの研究をつづけたハーバー博士は、第一次世界大戦後の当時、愛国者の象徴として賞賛を受けていました。またノーベル賞も受賞しています。アンモニアを生産する方法であるハーバー・ボッシュ法という名前を聞いた事がある方もいるのではないでしょうか。このハーバー・ボッシュ法という名前は、ハーバー博士の名前から取られています。
しかし、その輝かしい栄光の人生はナチス政権の時代に暗転し、ユダヤ人として迫害を受け、さらに毒ガス兵器をつくったことから国内・国外で職を思うように見つけられる事ができず、パレスチナへ向かう途中のスイス・バーゼルのホテルで息をひきとります。
祖国のため、戦争を早期解決しドイツ人兵士の死亡をできるだけ少なくするためにと、ユダヤ人科学者がつくった毒ガスは、時代が変わり、ユダヤ人の絶滅のために使われたのでした。
ナチス・ドイツは障がい者も「生きる価値のない命」として殺害の対象としていました。
被収容者が持ってきた食器の数々。そこでどのような運命が待ち受けているのか薄々気付いていた人もいましたが、多くの人々はそこで新しい「生活」が待っていると信じていたのです。
被収容者の靴やカバン。ナチス・ドイツは被収容者を安心させるため「自分の持ち物がどれかわかるように」とカバンに名前を書かせました。しかし、被収容者がアウシュビッツに到着するとすぐに所持品は没収され、二度と持ち主のもとに戻ることはありませんでした。
アウシュビッツに収容された人々は専用の囚人服を着せられ、体には囚人番号を彫り込まれました。
被収容者の写真。収容された日付と亡くなった日付が記されています。アウシュビッツに収容された人々は平均して2〜3か月しか生き延びることができませんでした。
「死の天使」といわれたナチス・ドイツの医師ヨーゼフ・メンゲレの医学実験の材料にされたロマの子どもたち。
「死の壁」と呼ばれる数千人もの銃殺が行われた処刑場の跡地には今も献花が絶えません。
多くの被収容者が最期の瞬間を迎えたガス室。毒薬チクロンBが投げ入れられると15〜20分で窒息死してしまったといいます。ナチス・ドイツは被収容者たちを安心させるため「シャワー」と称し、カモフラージュのための蛇口まで取り付けられていました。
殺害された人々の遺体を焼いた焼却炉。犠牲者の遺体の処理を行ったのは被収容者でした。しかし、遺体の処理にあたった被収容者も遅かれ早かれナチス・ドイツの手によって殺害される運命をたどりました。
アウシュビッツ収容所(第一収容所)を後にし、「第二収容所」と呼ばれるビルケナウを訪れると、その敷地の広大さに驚かされます。
かつては300棟以上のバラックが立ち並ぶ大規模な収容所でした。現在の静かな姿からは、ここがかつて一大殺人工場であったとはにわかには信じられません。
当時の姿をとどめているのは全体の一部で、現在も残っている囚人棟は67棟です。
戦況が悪化すると、ナチス・ドイツは犯罪の証拠隠滅のためガス室を自ら爆破しました。現在もそのがれきが残っています。
ヨーロッパ各地からつながっていたという線路。線路が尽きるところには各国の言葉で書かれた国際慰霊碑が立っています。
この旅路の終わりは、ほとんどの被収容者にとって、人生の終わりをも意味していたのです。
アウシュビッツを実際に訪れると、史上最悪の「人道への罪」の途方もない大きさを肌で感じます。
それと同時にたくさんの疑問がわいてくることでしょう。なぜ人はこれほどまでに残酷になれるのか、なぜ人はまた違った形で過ちを繰り返すのか……
ここで何を思い、何を学ぶのか、あなた自身で確かめてみてはいかがでしょうか。
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