遅れてきた天才。代表デビュー戦で底知れぬ潜在能力の片鱗をのぞかせた柿谷曜一朗

写真拡大

 初キャップ6人をピッチに送り込んだ21日の東アジアカップ初戦・中国戦(ソウル)。蒸し暑い気候とアウェーの判定も災いし、日本は開始早々にPKで失点。そのPKを与えた栗原勇蔵(横浜F・マリノス)のヘッドで1−1の同点に追いつき、勝負の後半を迎えた。

 その59分、青山敏弘(サンフレッチェ広島)のパスに反応した槙野智章(浦和レッズ)が左サイドを駆け上がり、高い位置でボールを持った瞬間、背番号30をつける1トップ・柿谷曜一朗(セレッソ大阪)はオフサイドに細心の注意を払い、猛然とニアに向かってゴール前に走りこんだ。次の瞬間、頭を思い切り合わせる。「入ったかどうかもあまりわからんかった」と言うゴールは、彼にとって記念すべき代表デビュー戦での初得点であり、日本に1点のアドバンテージをもたらす重要なものだった。

 さらに2分後には、高萩洋次郎(サンフレッチェ広島)のスルーパスに鋭く反応。豪快なドリブルで相手を引きつけ、工藤壮人(柏レイソル)にラストパスを送った。「工藤は上下動やハードワークがすごい選手。しっかり収めて裏に出してあげることを心掛けた」と緻密な計算に基づいた絶妙のボールでチームの3点目をお膳立てした。前線でコンビを組んだ工藤、高萩、原口元気(浦和レッズ)らの特徴をしっかり把握したうえで動きに工夫をつけていたのはインテリジェンスの高い証拠。短期間で頭をクリアにしてプレーできたからこそ、記録に残る仕事ができたのだろう。

 2つの得点に象徴される通り、柿谷曜一朗はゴールに絡む類稀なセンスを持ち合わせている。それは少年時代から多くの関係者が認めるところだった。同じ韓国で6年前に開催された2007年U−17ワールドカップでも、強豪・フランス相手にセンターサークルから超ロングシュートを決め、世界の度肝を抜いた。「あれはチームで流行っていたし、みんなが『やれやれ』って言うんで蹴っただけ。大したことじゃない」とあっけらかんと言ってのけるあたりが天才たるゆえん。このまま一気にA代表への階段を駆け上がると思われていた。

 ところが、89〜92年生まれのロンドン五輪世代のトップを走っていたはずの彼は予期せぬ回り道を強いられる。C大阪で出場機会を得らなかったうえに規律のなさを問題視され、J2の徳島ヴォルティスへレンタルに出される。その間、同期入団の香川真司(マンチェスター・U)や同学年の清武弘嗣(ニュルンベルク)らが台頭し、いつの間にか置いてきぼりを食う形になった。U−17代表を指揮した城福浩監督(現ヴァンフォーレ甲府)も「仲間に追い越されていく曜一朗はどんな思いでいたんだろうと気にしていた」と率直な思いを打ち明けた。

 そんな柿谷が2012年に古巣に復帰。課題だったオフ・ザ・ボールの動きを意識的に増やし、守備面での献身的姿勢を示すようになった。エースナンバー8をつけた今季は得点を量産。怖い選手へと変貌を遂げた。少年時代から知る小菊昭雄コーチも「フォア・ザ・チーム精神を見せられる大人の選手に変わった」と太鼓判を押す。だからこそ今回、2009年のU−20代表以来、4年ぶりに日の丸を背負う舞台に戻れた。香川や清武に比べると回り道をしたかもしれないが、彼らのすぐ近くまで来ていることを、彼は中国戦の1得点1アシストという形で実証したのである。

 ただ、その活躍はチームの勝利には結びつかなかった。中国に2点を追いつかれ3−3でタイムアップの笛を聞いた柿谷は悔しさをかみしめた。報道陣の前でも「ミスが多すぎた。ここまでできたのもいいことなのかもしれないけど、それが勝ちに繋がっていないことが残念」と素直に力不足を認めていた。

 屈強な中国人DFに寄せられた際、思うようにボールを収められなかったり、終盤になって運動量が落ちたりと確かに物足りさも皆無ではなかった。「真司君みたいに最期の最後までピッチ全部を走り回れるほどの自分には体力がない」と柿谷本人も弱点を口にしていたことがある。そういう部分にアルベルト・ザッケローニ監督は厳しい。今回の東アジアカップは中2〜3日の超過密日程で戦わなければいけないだけに、パフォーマンスが急降下するようでは、いくら得点に絡んでいてもA代表定着は叶わない。中国戦でチームを勝たせられなかったという厳しい現実を踏まえ、彼が短期間でどこまで修正を図れるか…。ここからが本当のサバイバルの始まりといっていい。

「これを乗り越えて優勝してこそ本物。今日の試合はチームとしていいところもあったと思うけど、悪いところをもっと反省して、チームとしてあと2試合乗り切って最後に優勝カップを上げたい」と意気込む天才アタッカーの今後の動向が大いに気になる。

文●元川悦子