MLBに挑戦する選手の記者会見としては、札幌ドームのダルビッシュの会見は、間違いなくぴか一だった。これに辛うじて匹敵するのは2002年の松井秀喜の会見だと思う。

希望に満ちた門出の会見のはずなのに、松井秀喜はしおたれた表情で、ファンに対し心の底から詫びていた。その誠意の示し方の不器用さ、自分ひとりが幸せになることへの激しい背徳感に、多くの人々は“日本原人”を感じたものだ。野球などほとんど関心のないうちの母が「松井はええ子やなあ」と言っていたのを思い出す。そして10年、松井秀喜は好調のときも驕らず、不調のときも不平をもらさず「自分の力で支配できること」だけを黙々とやってきた。彼のMLBでのプレーに歯がゆさを感じることはしばしばあったが、不快感や違和感を抱かせることは一度もなかった。

そしてダルビッシュである。会見を見ていて思ったのは「彼は何者だろう」ということだ。色白で端正なその顔は日本人離れしているが、つり上がった目は西洋人のものではない。見上げるような鉄躯は白人や黒人を圧してはいるが、西洋人の体型とも微妙に違うような気がする。

それどころか彼の容貌は、男女の別さえ怪しい。数年前、まだスリムだったダルビッシュは女性誌でヌードを披露したが、あのときに受けた衝撃は、性別を超えた異様な艶めかしさにあったように思う。辛うじて思い浮かぶのは、観音像だ。子供のころ、女性の風貌をしながら口にドジョウのようなひげを蓄える観音像に怪しげな感情を抱いたものだが、それに似た心のゆらぎを覚えた。神性と野卑さが同居した“怪しのもの”という言葉が似つかわしい気がする。

恐らくは、彼も自らのアイデンティティの所在のなさに、ずっと戸惑いを覚えていたはずだ。彼の口から今も生粋の関西弁が発せられるのは、そのためもあると思う。先日私は彼を泉州のヤンキーと書いてしまった。実際には南河内の産なのだが、ヤンキーであることに変わりはない。

南河内は血なまぐさい土地である。清和源氏の正統河内源氏がこの地に根を張り勢力を伸ばしたのだ。大河ドラマ「平清盛」で小日向文世が演じている源為義(源頼朝、義経の祖父、彼は武家源氏中もっともダメな男と言われている)の祖父、源義家は、前九年、後三年の役で武功を挙げた。祖父頼信、父頼義の代から河内に根を下ろした義家は、後三年の役では朝廷の恩賞がなかったために私財をなげうって武士たちに褒賞を与え、絶対的な人気を得ていた。

平安朝の貴族たちは、源義家を有名なスポーツ選手を見るように褒めそやしていたらしい。ただ、彼は人殺しを生業としていたから常に血なまぐさかった。ある記録には、貴族の女性を寝とるために、高い生垣をひと飛びに越えたと書いてある。エスタブリッシュメントである貴族たちにとって、新興の武士階級である源義家は、超人的な能力と、得体のしれない不気味さを持った存在だったのだろう。源義家の墓は、羽曳野南部のブドウ栽培のビニールハウスがならぶ小高い丘にあるが、今も辺りを払うような存在感がある。

余談が過ぎた。ダルビッシュは非常に仲間を大事にする。日本ハムを昨年で首になったダース・ローマシュ匡をアメリカへ帯同し、再起をはからせようと画策していることが報じられた。一族郎党を大事にするところは、まさに河内源氏の血ではないかと思う。札幌で見せたファンに対する愛情の深さと、アーリントンでのにこやかながらも辺りを睥睨するような強い押し出しは、都へせり出そうとする若き武士の棟梁のイメージと重なる。
飛びぬけてエキゾチックで、アイデンティティが見えにくい風貌と、土の匂いのする土着日本人的なメンタリティ。このアンビバレントさが日本人の心をざわめかせるダルビッシュの魅力である。それは貴種流離譚の怪しさに通じるかもしれない。

底抜けに明るいアメリカンドリームしか知らない連中に、ダルビッシュは東洋の文化の奥深さ、複雑にして神秘に満ちた力を見せつけてやらねばならない。そのためにも、ダルビッシュには小ぢんまりとした成功ではなく、劇的な野球を期待したい。それこそが彼のアイデンティティを確認する唯一の手段なのだから。