高き壁あればこそダルビッシュの真価と進化が
恵まれた体躯、広い掌、長い指、しなやかでばねのある筋肉。この天賦の資質をさらに磨き、筋力と体幹を強化して線の細さを解消。同時に肩と心肺のスタミナを大きくアップさせた。
一方、人一倍の器用さと探究心で、緩急浮沈とブレーキ、スライドが微妙に組み合わさる多彩な変化球を、速球に引けを取らない武器として手の内とした。
これらの基本にあるのは、ストイックなまでのプロ意識と向上心、努力と練習に対する信頼か。
誰もが認める世界水準のプロフェッショナル・ベースボール・プレイヤー、ダルビッシュ有。よくここまできた。
2004年オフのドラフト。翌年から仙台を本拠にパリーグに参入する東北楽天ゴールデンイーグルスは球団にとって最初の選択会議で、甲子園で活躍し優れた素質を認められていた地元東北高校の彼を指名しなかった。
彼は会議2カ月前の9月、喫煙問題で高野連から厳重注意処分を受けていた。楽天の1位指名は一場投手。ダルビッシュも取りたかったが、栄養費問題で叩かれた一場と両方となると新生球団のイメージを損ねるので、即戦力として見込める大学生の方を取ったのだと思う。地元故に、ダルビッシュの芳しからぬイメージに過剰に神経質になったのかもしれない。
北海道日本ハムに1位指名で入団直後、彼は2005春の2軍キャンプ中にまた未成年喫煙問題を起こし、合宿所に強制送還。無期限謹慎処分と社会貢献活動の処分を科せられ、高校からも停学処分を食らった。
敢えて言えば、18歳での喫煙そのものは大した問題ではない。だがそこが停滞や堕落の入口となりうることも否定できない。一流に向かうか並の選手で終わるかの分岐点であったことは確かだろう。
この年は、6月にプロ初勝利を飾り、5勝5敗。謹慎以降2年後に結婚を発表するまで、彼の野球以外の動静が伝えられることは極端に少なくなった。浮つくことなく野球に専念し、現在の姿の基礎を作った時期であったろう。
思うに、育成に力を注ぐ球団方針、であればこそ脇へそれれば厳しく対処する球団の姿勢が彼にとって幸いしたのだろう。田中幸雄、小笠原、小谷野、高橋、稲葉ら、地味だが愚直なまでに情熱的に野球に取り組む選手たちに囲まれていたことも、彼の考え方に影響を及ぼしたのではあるまいか。
当時、監督は合理的な戦い方と結果評価をチームに持ち込んだトレイ・ヒルマン。ダルビッシュが入団した2005年には、誠実合理的な硬派の高田繁GMと、酒好きだが指導に定評があり男気に溢れた佐藤義則投手コーチ(05年2軍、06〜07年1軍)が入団している。その薫陶もダルビッシュにとっては大きな意味を持つ巡り合わせだったのではないかと思っている。
慣れ合いや適当を嫌い、ひりひりするような勝負がしてみたいという彼が日本球界に飽き足らなくなるのは、止むを得ないことだろう。日本の野球の質的低下への影響大ではあるが。
しかし代わりに我々は、当たり前のように飛び出す強肩好守とファイティングスピリットに賛嘆と満足の瞳を輝かせ、あのコース・あの球を持っていかれるかと驚きと不敵さを浮かべながら躍動する彼の姿を目にできる。
メジャーリーガーの戦意も格別だろうし、ジャッジの不利や差別、洗礼めいたことは当然あるだろう。捕手との呼吸次第では迷う時期もあるだろう。
しかし、壁が高ければ高いほど、まだ発展途上のダルビッシュ投手のポテンシャルはより高まり発揮されるものと期待している。
即妙でも能弁でもなく、ぶっきらぼうで直截な物言いの彼が、野球を愛しファンを大切にするクールなナイスガイとして米国でも認められるのは、そう遠い日のことではあるまい。
一方、人一倍の器用さと探究心で、緩急浮沈とブレーキ、スライドが微妙に組み合わさる多彩な変化球を、速球に引けを取らない武器として手の内とした。
これらの基本にあるのは、ストイックなまでのプロ意識と向上心、努力と練習に対する信頼か。
2004年オフのドラフト。翌年から仙台を本拠にパリーグに参入する東北楽天ゴールデンイーグルスは球団にとって最初の選択会議で、甲子園で活躍し優れた素質を認められていた地元東北高校の彼を指名しなかった。
彼は会議2カ月前の9月、喫煙問題で高野連から厳重注意処分を受けていた。楽天の1位指名は一場投手。ダルビッシュも取りたかったが、栄養費問題で叩かれた一場と両方となると新生球団のイメージを損ねるので、即戦力として見込める大学生の方を取ったのだと思う。地元故に、ダルビッシュの芳しからぬイメージに過剰に神経質になったのかもしれない。
北海道日本ハムに1位指名で入団直後、彼は2005春の2軍キャンプ中にまた未成年喫煙問題を起こし、合宿所に強制送還。無期限謹慎処分と社会貢献活動の処分を科せられ、高校からも停学処分を食らった。
敢えて言えば、18歳での喫煙そのものは大した問題ではない。だがそこが停滞や堕落の入口となりうることも否定できない。一流に向かうか並の選手で終わるかの分岐点であったことは確かだろう。
この年は、6月にプロ初勝利を飾り、5勝5敗。謹慎以降2年後に結婚を発表するまで、彼の野球以外の動静が伝えられることは極端に少なくなった。浮つくことなく野球に専念し、現在の姿の基礎を作った時期であったろう。
思うに、育成に力を注ぐ球団方針、であればこそ脇へそれれば厳しく対処する球団の姿勢が彼にとって幸いしたのだろう。田中幸雄、小笠原、小谷野、高橋、稲葉ら、地味だが愚直なまでに情熱的に野球に取り組む選手たちに囲まれていたことも、彼の考え方に影響を及ぼしたのではあるまいか。
当時、監督は合理的な戦い方と結果評価をチームに持ち込んだトレイ・ヒルマン。ダルビッシュが入団した2005年には、誠実合理的な硬派の高田繁GMと、酒好きだが指導に定評があり男気に溢れた佐藤義則投手コーチ(05年2軍、06〜07年1軍)が入団している。その薫陶もダルビッシュにとっては大きな意味を持つ巡り合わせだったのではないかと思っている。
慣れ合いや適当を嫌い、ひりひりするような勝負がしてみたいという彼が日本球界に飽き足らなくなるのは、止むを得ないことだろう。日本の野球の質的低下への影響大ではあるが。
しかし代わりに我々は、当たり前のように飛び出す強肩好守とファイティングスピリットに賛嘆と満足の瞳を輝かせ、あのコース・あの球を持っていかれるかと驚きと不敵さを浮かべながら躍動する彼の姿を目にできる。
メジャーリーガーの戦意も格別だろうし、ジャッジの不利や差別、洗礼めいたことは当然あるだろう。捕手との呼吸次第では迷う時期もあるだろう。
しかし、壁が高ければ高いほど、まだ発展途上のダルビッシュ投手のポテンシャルはより高まり発揮されるものと期待している。
即妙でも能弁でもなく、ぶっきらぼうで直截な物言いの彼が、野球を愛しファンを大切にするクールなナイスガイとして米国でも認められるのは、そう遠い日のことではあるまい。
団塊と全共闘世代に煽られつつ、まだまだ貧乏だったが牧歌的でもあった多感な幼少期を駆け巡った心優しき(と言われる)世代