でも、だからといってノコノコと日本には帰れない。こういうせっぱ詰まった状況になると、馬鹿力が出るんです。人間というのは弱い。だから、強くなる方法はやらざるを得ない環境に身を置くしかないと思いましたね。何も危機感がなければ、本当の力なんて出ない。力も伸びない。実際、全部英語で書かれた 5cmの厚さの教科書だってスラスラ読めるようになる。ただ、目はずいぶん悪くなりましたけど。日本では全然、悪くならなかったのに(笑)。

 勉強することだけじゃなく、もともと苦手だったプレゼンテーションなど、一つひとつを乗り越えていった5年間でした。まさに生まれ変わったんです。絶対に無理や、と思っていたものも乗り越えたわけですから。その体験がハードであるほど、自信は深いんですよね。ましてや、日本ではできない体験でしたから。

 博士課程が終わったら、ベル研究所やIBMなどで研究員になるつもりでした。ところが、ある日、突然ニューヨークの下宿に日本から電話がかかってきまして。大学の恩師でした。助手を募集している大学があるが、と。最初は断ろうとしましたが、自分を生まれ変わらせてくれた恩師に報いたい気持ちもありました。それでお受けすることにした。そして、山形大学に来ることになったんです。

■これができたら、世界が変わるかもしれない
 実は最初は、3年で出ようと思っていました。田舎の大学ですし、教授の手伝いの助手なんてまっぴらだと思っていましたから。やりたい研究をしていい、ということだけが救いでした。ところが、その間に有機EL研究がどんどん進んでしまって。

 有機ELとの出合いは、アメリカの最後の年でした。研究室には、蛍光性をもった希土類のプラスチック板がたくさんありましてね。手にしていて、ふと思ったんです。これを電気で光らせることができたら、世界は変わるんちゃうかな、と。それこそ子供みたいな発想です。調べてみたら、原理を考えた人がいて、 1963年に論文になっていました。先生に話をすると、論文を書いたマーティン・ホープ氏を知っているという。紹介してもらって会って、原理をじかに解説してもらいました。まったくわかりませんでしたが(笑)。

 ただ、やっぱり面白いなとは思ったんです。それで希土類化合物を溶剤に溶かしてガラス板の上に塗布する材料などの研究を始めて。当時はまったく、うまくいきませんでしたけど。ただ、もしこれが実現したら、薄いディスプレイにもなるし、何にでも応用ができる。すごいな、と思ったんです。実際、世界では企業や大学など、20グループくらいが研究を進めていたことを後に知りました。

 いずれは有機ELの研究を。そんな思いをもちながら、山形大学に赴任して驚くことになりました。化学系の学科でしたから合成の設備はありましたが、素子を作るために必要な真空蒸着機も輝度計測機もなかった。それこそ、あったのはフラスコくらいで(笑)。でも、ないなら借りてくればいいか、と(笑)。

さらに当時の助手にあてがわれた研究費は、大学院生と同等かそれ以下。でも、これも文句を言っていても始まらない。企業や財団の公募に応募したり、国の科学研究費を申請したりしました。申請書はしょっちゅう書いてましたね(笑)。それで手にした資金で装置を購入するなど、コツコツと設備も作り、研究も進めていったんです。

 そのうち、世界中からいろんな研究成果が出始めました。それこそ世界の総力戦です。化学的なアプローチも、電気的なアプローチも、機械的なアプローチも。そして、論文が集まって、それを読んで、また次に挑んで。お互いに切磋琢磨する環境ができたんです。……≫続きはこちら

■関連リンク
livedoor キャリア