岩崎恭子さんに聞く、五輪が与えてくれた幸せ。その意味とは?(C)livedoorSPORTS

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バルセロナ五輪での金メダルを獲得してから、再びアトランタ五輪のスタート台に立った岩崎に聞いた、環境や心情の変化、20歳での選手引退、北京五輪の見所から水着問題――、そして、最後に投げかけた、あの言葉の真実に至るまで。五輪が与えてくれた幸せと、その意味とは?

※インタビュー収録は、水泳連盟が水着の着用自由化を発表した6月10日以前となります

――中学2年生で金メダルを取り、日本で一番の有名人になった。その分、勝手に盛り上がった世間は、記録が出なくなった岩崎さん、身勝手にバッシングする。そういう時期を過ごされたわけですね。

「中学3年生と高校1年生の途中までの記憶って、あまり残っていないんです。『それって嫌な思い出で、自分で消したいからなんだよ』ってある方から言われて。確かにそうかもしれないですね。その間も毎日、練習は続けていたのですが、心ここにあらずという感じでした。

そんな高校1年生のときに代表を外されて、ジュニアの大会に出たんです。『ここで中一のとき、こんなタイムで泳いでいたよなぁ』とか『怖いものしらずだったな』なんて思い、友人が凄く頑張っている姿を見て、オリンピックに対して、初めて前向きに考えられました。そこからですね、次の目標に向かっていけるようになったのは。

それまで、ずっと下を向いていたのでしょうね。その日から、なんだか世界が華やかに感じるようになったんです(笑)。結局は、何でも自分の気持ち次第だったんですよね。何かに落ち込み、そこから元気になるのって、悩みながら見つけていくことなのだって、水泳をやっているときも、水泳をやめてからも思えるようになりました」

――オヤジの下衆な質問なのですが、高校時代にボーイフレンドを作って、お付き合いするという、普通の高校生っぽい生活も送れたのですか。

「高校生活を謳歌していました。水泳の選手ってしっかり上手くやっていますよ(笑)。アトランタの前の年に、私は修学旅行も行きましたし」

――そのアトランタ・オリンピックの10位という結果は? まぁ、だいたいがオリンピックの10位って、胸を張っていいものだと思うのですが。だいいち、オリンピックに出場できる人って東大に入学する人より、ずっと少ないのに。

「アトランタの結果は、私の人生のなかではバルセロナの金メダルに等しいものです。人生で考えると、同じだけ価値があります。ただ、競技として考えると(笑)――。記録が良くなかったですからね。記録が出なくても、一生懸命にやっていたことは変わりないんですが、『なんで体重をコントロールできなかったんだろう』、『もっと、やれたんじゃないの?』っていう思いって、ついてきちゃうんです」

――高校三年生ですよね。ほとんどの人間が、遊び回って、異性に夢中になっているか、塾や予備校に通って必死になって勉強しているときに、オリンピックに出ているんですよ。私なんて自分の人生を振り返ると、本当に悲しくなってしまいますよ。

「いやいやいや、そんなことないですよ(笑)。私も水泳以外は、普通に学校生活を送っていましたし、オリンピックに出たあとも、同じ小さなスイミング・スクールに通い続けていたんで」

――ずっと変わらずに所属し続けたのですか。

「はい、途中で某スイミング・スクールから誘われましたけどね(笑)」

――現役生活にピリオドを打たれたのは?

「20歳のときです。アトランタのあとも、日本選手権は出場していないのですが、学生選手権は2回生まで出ていました」

――現役引退後もずっと水泳に関わり続けられているということですが、今はあらゆるスポーツがTV中継と密接になり、水泳の世界選手権などの注目度も上がっています。日本のトップスイマーも常にメディアの目にさらされているわけですが、ご自身の経験を基に彼らのためになるアドバイスができそうですね。