大政奉還図の前で。左から、私(井手久美子さん)、姉・喜佐子、兄・慶光、邨田丹陵先生(写真:井手純)

そろそろ平成も終わり、新しい元号になる。

「昭和時代」という言い方にも慣れてきた。

おてんばなお姫様がつづった自伝

そんな2018年の6月、1人の作家がデビューした。井手久美子さんだ。

井手久美子さんのお歳はなんと95歳。大正11(1922)年生まれだ。推理小説作家の松本清張は40代にデビュー、『マディソン郡の橋』のロバート・ジェームズ・ウォラーは50代デビューと遅咲きの作家はいるが、さすがに90代でデビューされる作家はほとんどいないだろう。

著書は『徳川おてんば姫』(東京キララ社)である。久美子さんは、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の孫であり、自身の波乱万丈な人生をつづった自伝だ。

徳川慶喜と言えば、大河ドラマ「西郷どん」にも登場する、幕末の重要人物の一人だ。歴史上の人物の孫がまだご存命だというのに驚く人は多かった。


2018年6月6日 千葉の自宅にて完成した本を手に(写真:井手純)

発売後の反響は大きく、あっという間に売り切れて重版がかかった。本の表紙に使われた若き日の久美子さんの写真は、とてもかわいらしく若い人の間で、たとえばウェブ上で話題になった。

久美子さんのお孫さんはツイッター上で祖母の写真を発見して、とても驚いたという。

僕も本の存在を知り、ぜひ本人にお話を伺いたいと思った。

しかし残念ながら、久美子さんは本が発売された直後に体調を崩され、今年の7月に亡くなられてしまった。

とても残念であったが、それでも縁者に話を伺いたいと思い、長く一緒に暮らしたご子息である井手純さんの元を訪れた。

久美子さんが最後に純さんと住まわれていたのは、千葉県にある団地だった。

きれいに片付いている部屋だったが、それでもいわゆる団地の部屋で、今夏までクーラーもついていなかったという。


兄・慶光と(写真:井手純)

徳川の末裔ならば当然お屋敷に住んでいるものと思っていたので、少し驚いた。

久美子さんが生まれたのは、「徳川慶喜終焉の地」として知られる「第六天」と呼ばれたお屋敷だった。

現在は、国際仏教学大学院大学の敷地になっている。敷地の広さは3400坪、建物の広さは1300坪という信じられないほど広いお屋敷である。屋敷内では、つねに50人ほどの使用人が働いていたという。

着替えから何からすべて侍女がやってくれる、まさに“お姫様”として育てられた。

しかし久美子さんは、とてもおてんばだったという。

とてもお姫様とは思えない活動的なエピソード

「母は小さい頃は真っ黒に日焼けして石垣を駆け上ったり、木登りをしていたりしたって聞いています。よく『大将軍のお孫様が……』と小言を言われていたらしいですよ」


略系図(図:井手純)

本の中では、バレーボールをしていてひどい突き指で骨折してしまった話や、漁師の「八つぁん」に遠泳を教わって沖のほうまで泳いでいった揚げ句、カツオノエボシ(毒を持つクラゲ)に刺されて熱を出した話などが書かれている。とてもお姫様とは思えない活動的なエピソードだ。

でも、「お金を持って買い物するなど、お上のあそばすことではございません」と言われて、結婚するまでお店で買い物をしたことがなかったという話や、テニスに夢中になったので庭にコートを作ってもらったなどという話を聞くと、やっぱりスケールが大きいなあと思う。

「私が話を聞いても『そんな時代だったんだ』とは驚きますけど、でも正直ピンと来てなかったですね。感覚が違いすぎて。

私が母と暮らした時はぜいたくをしてなかったですから。

母の好物は『さつまいも入りのみそ汁』でした。慶喜も好きだったメニューらしくて、よく作っていました」


1941年結婚式十二単衣(写真:井手純)

久美子さんは昭和16(1941)年に19歳で、徳川家と縁が深い福井松平家の松平康愛さんと結婚された。写真を見ると、今見てもまったく古びれない美男美女のカップルだ。

昭和18(1943)年には長女が生まれたが、康愛さんは南洋パラオに出征することが決まってしまった。

太平洋戦争が開戦し、本土空襲が始まった。宮内省関係者にゆかりのある八王子に疎開した。

「それまでお姫様のような生活をしていたのに、毎日リヤカーを引いて働いたそうです。サツマイモを担いで運ぶから、背中はアザだらけになって。自給自足の生活をしていたそうです。

母はすでにその頃から、適応力が高い人だったんですよね」

戦争は終わったが、康愛さんは帰ってこなかった。戦死したとの報せが届いた。

まだ若かったため再婚の話が来た。

いくつかは断ったが、結局康愛さんと親友だった軍医だった井手次郎さんと結婚することにした。井手さんは、サイパンで亡くなったと言われていたが、戦後ひょっこりと帰ってきた人だった。

結婚してしばらくは目白にあった井手家に住むことになった。戦争で家を失った親族など二十数人が暮らしており、久美子さんがお風呂に入る時は最後だったという。お湯はほとんど残っておらず、ドロドロでとても入れるような状態ではなかった。

しばらくして横浜に引っ越して、病院を開業した。そこで純さんは生まれた。

サイパンで見ていた地獄と比べれば

「かなり治安の悪い場所だったようです。まだアメリカ人向けの売春も盛んで、窓からは男女がまぐわっている姿が見えたと聞きました。性病の治療も多く、淋病だ、梅毒だ、パイプカットだ、そんな言葉が飛び交ってました。

ヤクザも多かったですから、そういう人たちはケガをして、しょっちゅう病院に来ていたそうです」

厳しい状況ではあったが、次郎さんはサイパンで地獄を見ていた。

片腕がふっとんだ人や、足がなくなった人たちにモルヒネを打ち、背中にかついで走り回ってた。

飛行機戦で負けた敵兵が飛行機から飛び降りたが、パラシュートが開かずに地面にたたきつけられた。ぺっちゃんこになった遺体を、シャベルとバケツで片付けた。

「そういうのを見ていたから、ケンカで歯が飛んだとか、ヤクザが指落としたとか、それくらいではなんにも思わなかったそうです」

久美子さんは、看護師の資格は持っていなかったが、ほとんど看護師のようなことをしていたという。

お姫様生活とはまるで違う、修羅の世界で生きることができたのだろうか?

「おふくろも最初こそ衝撃だったけど、あっと言う間に慣れました。順応するのが高い人なんですね。もともと、面倒を見られるより、面倒を見るほうが好きって人でした。かいがいしく患者の面倒を見ていましたね。ブローチなどプレゼントを買っては、働いている看護師さんやアルバイトの人たちにプレゼントしていました」

当時は、ガーゼや包帯は使い捨てではなく、洗って何度でも使っていた。

久美子さんが洗濯したガーゼや包帯を干し、それを巻いている様子を、純さんは幼心によく覚えているという。

「料理を作るのも好きでした。お姫様時代は作ってもらうばっかりでしたから『自分でもやってみたい!!』という気持ちがあったのかもしれません。家に人を呼んでもてなすというのが好きでした」

50〜60歳になってからは麻雀狂いに

意外なところでは、久美子さんは麻雀も好きだったという。


1959年免許取得(写真:井手純)

「最初は姑の付き合いで始めさせられて嫌だったらしいんですけど、50〜60歳になってからは麻雀狂いになってましたね。仲間を家に呼んでやってました。あまり長くやるので父には『俺が死んでからやってくれ』って嫌みを言われていましたね(笑)。結局、90歳くらいまではやっていましたよ」

純さんは若い頃はやんちゃであり、警察に呼び出されて注意されたことも何度かあった。

ホテルに就職したあとも、遊興ざんまい。サラ金で借金を重ねて4度も父親に助けてもらった。ただ、久美子さんは注意はすれど、根に持つことはなかったし、平気だったという。

当時、病院は商売順調で年収は5000万円ほどあり、もちろん生活に困ることはなかった。次郎さんはとてもよくだまされる人だったという。

ゴルフ場の会員権を買っては暴落したり、「金(ゴールド)を買いませんか?」と言われて素直に数百万円で買ったあと「その金を預からせてください」と言われて素直に渡しそのまま持ち逃げされたりと、そんなことがしょっちゅうあった。

現金があると機嫌が良い人だった。バブル時代は銀行員が「お金を借りてください」と言って現金を持ってきましたが、どこかで散財してしまっていた。

「どこでお金を使ったのか、母にもハッキリはわからないんですよ。台湾や韓国でゴルフとかしてたみたいですけど……それでそこまでお金がなくなるとも思えない。結局は株で失敗したとかじゃないかな?と思います。バブルがはじけたタイミングでもありましたし。結局、父が亡くなった後に残ったのは2億数千万円の借金でした」

所持していたマンションも競売にかけられた。だがまだ1億円以上の借金が残った。

結局、アパートに移り住んだ。

汗水流して稼いだ金じゃないから

そんな平成15(2003)年、姉である高松宮妃殿下が亡くなった。久美子さんの元には6億円の遺産が入った。借金を返しても、一生お金には困らない額が残る。

「いきなり6億円振り込まれて、僕(純さん)は自分のお金のような錯覚してしまったんですよね。『もう一生、何もしなくて食っていけるぞ!!』って。3000万円の自動車を買って、毎晩銀座で遊んでいましたね。月、最低でも300万円くらい遊んでたんじゃないかな? 僕自身はお酒飲めないんですけどね。本当にどうしようもないバカ息子でしたね。

宝くじが当たって身を持ち崩した人の話はよく聞いてて、なんでそんなふうになっちゃうんだよって思ってたけど、いざわが身になると同じような羽目になるんですね……。汗水流して稼いだ金じゃないから、狂ってしまうんです」

派手に遊んでいる純さんの元には、悪い連中が近づいてきた。純さんを社長にして、

「海外で金貸しをしよう」

「ギャンブル場を開こう」

と持ちかけてきた。純さんは、言われるままにハンコをついていただけだが、気づいたらすべて取られていた。詐欺なのだが、訴えるのは難しかった。

仕方なく、都内の都営住宅に移ったが、そこも家賃を払いきれず追い出された。

そしてなんとか安い物件を探し、現在の団地に引っ越してきた。

自然の多い、環境の良い団地ではあるが、もちろん第六天のお城に比べれば落差がある。

「おふくろは『最初からなかったものと思えばいいじゃない』って言ってくれて……。それがもう、つらかったですね。

『あんたのせいでこんな生活になっちゃったじゃない!!』って恨み言を言われても仕方ないのに、一度も言わなかったです。

ずっと世話することができたのはよかったですが、最後はもうちょっと良い生活させてやりたかったな……というのが心残りです」

純さんは話しながら思わず涙ぐんでいた。

ただ久美子さんはマイナスな面を一切、引きずらない人だった。

幼い頃に学んだ帝王学で

「人を不快にさせることは言わない」

とたたき込まれているのもあったかもしれないし、生来のポジティブな性格というのもあっただろう。

皆に愛された慶喜の孫

どこにいても、すぐに友人を作ることができた。デイサービスでもすぐに友達ができ、介護士の人たちにも愛された。

団地で行われた敬老の日の趣味の展示会では、書を出品した。久美子さんの書く有栖川流の書はすばらしく、みんなを仰天させたという。

「どういう人なんだ?」と聞かれ、

「実は慶喜の孫なんだ」

と言うと、皆驚いた。それでも久美子さんは一切偉ぶらず、近隣住人皆に愛されたという。

会話の流れで、たまには第六天に住んでいたことを思い出すこともあったが、

「あの頃は、なんだか夢みたいな話よね」

とひとごとのように語っていたという。


姉・妃殿下、兄・慶光と兄嫁の和子様、姉・喜佐子。叔父の徳川誠家から、叔母・霽子様、従兄弟の熙様と脩様。第六天の屋敷にて(写真:井手純)


2016年谷中の徳川慶喜墓所にて(写真:井手純)

「母は元気でしたね。車の運転は84歳までしてましたし、テニスは86歳までしてました。そして10年前から出版社さんから話をいただいて、自伝を書き始めました(当初は東京キララ社ではない出版社から話が来ていた)」

本を書き始めてからは十数回入院したという。大腿骨や背骨を骨折したこともあった。90歳を超えて、さすがに車いすを手放せなくなっていた。

それでも「本を書き上げる」という意思が、久美子さんを支えたのかもしれない。今年の3月までは非常に元気に過ごしていた。そして、95歳にして著書を書き上げ、発表することができた。

だが本が出版されてすぐ、久美子さんは体調を崩してしまった。緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。

「まるで夢のようね」

入院が続き、記憶も混沌とした時に、久美子さんが

「帰りたい」

と言った場所は、第六天でも横浜の病院でもなく、現在住んでいる団地だったという。

病床で、純さんの息子さんが、ネットニュースやSNSに寄せられたコメントを伝えた。

本の感想は600件を超えていて、ほとんどが好意的な意見だった。


「おばあちゃんの本を読んで、みんな感動しているよ」

と語りかけると、久美子さんは

「まるで夢のようね」

と答えたという。

まるで映画のような人生を送った久美子さんだが、つねに地に足を着けて生活をしてきたんだなと思った。

年表だけを見ると、どんどん不幸になっているようにも思えるが、実際にはそんなことはない。

もちろん、夫を失ったり、最初の子どもと別離しなければならなかったりと不幸はあるが、それに引きずられて人生を見失うことはなく、その時その時を一所懸命、幸せに生きてきたんだな、と感じた。

簡単にまねできることではないけど、僕もなるべくくよくよせず幸せに生きたいなと思った。