現実は「不都合と不条理の宝庫」だ(写真:ashumskiy/iStock)

『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(清泉亮著、東洋経済新報社)の著者は、自称「ベテラン・イジュラー」。いまからおよそ20年前、22歳のときに長野県・佐久に駐車場つき4万円のアパートを借り、週末移住を始めたのだそうだ。

そして以後も、北は青森の六ヶ所村から南は沖縄の石垣島に西表島まで、数年単位で拠点を変えながら日本全国10カ所ほどを点々と移り住んできた。

移住に憧れを抱く人間にとっては理想的な話だが、その原点になっているのは、幼少期から20代前半までを米国で過ごした経験である。アメリカ人がトレーラーハウスや、小型の引っ越し用トレーラーに家財道具一式を詰め込んで移動と引っ越しを繰り返すさまを眺め、ときに自身でも体験してきたからこそ、移住に抵抗を感じなかったということ。

そのため、全国や海外を中長期で移住していくうち、いつしか知人から「イジュラー」と呼ばれるようになったのである。

日本列島はどこまで行っても、ムラ社会

早い話が、そのような経験のない私たちからすれば、まさに「移住のプロ」である。しかし、そんな立場にあっても、中年に入り、いよいよ本腰を入れて地方に腰を落ち着けようとしたとき、「移住慣れしているはず」「村落慣れしているはず」という自信がくじかれることになってしまったのだという。

永住を視野に入れた「根ざした移住」を前提にした瞬間に、小さな集落、日本中の地方は、都会人に対してガッチリと、かたくなに心の扉を閉ざしていることに気づかされたのだ。訪問者、通過者から定住者になったとたんに、地元の者は素の相貌を、初めてこちらに見せるのだった。
住めば都――。日本ではそんな言われ方があるが、それはあくまでも本人の心の持ちよう次第であって、本質は、住めば地獄、であることさえ少なくない。むしろそのほうが多いだろう。
日本列島はどこまで行っても、ムラ社会であるからだ。(「はじめに」より)

もしかしたら、こうした文章を目にし、「地方を下に見ている」「軽蔑している」と不快感を覚える方もいるかもしれない。しかし、著者のなかにそういう意思はないはずだ。おそらく伝えようとしているのは、それが「実感」であり、好き嫌いを超えた「現実」であるということだ。

「まずは飛び込んでから考えよう、なんとかなるさ」では、あまりにリスクが大きすぎるからこそ、その点を明らかにしているのである。

ムラ意識とは、究極には無条件に習慣を踏襲し、全体に一切抗わない生き方であり、それは地方や過疎地にだけあるものではなく、何よりも移住を希望する都会の人間の内側にも、潜むものとも言えるからだ。自分自身が何十年と培ってきた習慣や価値観をそうたやすく変えられないのと同様に、移住先の人々もそれは同様なのだ。たどり着いた覚悟は、次の一言に集約される。
最悪の状況を理解すること、想定することに勝る成功への王道はない――(「はじめに」より)

想定外の事情というものは、極めて大きなストレスを生み出すことになり、あとからでは取り返しがつかないこともある。しかし「想定内」「織り込み済み」であれば、事情は変わってくるということ。そこで本書では、著者自身の経験を軸として、移住を成功させるためのノウハウや考え方を明らかにしているわけである。

「快適さ」を実現するための「条件」

ところで、地方への移住を希望する都市生活者は、移住にどんなことを望んでいるのだろう? この問いに対する明確な答えのひとつが、「快適さ」なのではないだろうか。豊かな自然、ゆったりと流れる時間、温かい人間関係――などなど、多くの人が快適な田舎暮らしをイメージし、憧れを抱いているであろうということだ。

しかし「快適さ」が千差万別ではあるとはいえ、それを実現する最低限の「条件」はあると著者は記している。

具体的には、ムラ意識の強く残る地方でのそれは、頭を下げることと、場合によっては貢ぐことなのだそうだ。それらは現在でも、地元住民は年齢に関係なく、自らが「和」を保つ作法として日々実践しているというのである。

だとすれば、引っ越しの挨拶すらしなくなった都会の感覚をそのまま持ち込めば、誤解の目を向けられるのは当然なのかもしれない。移住までの長い道のりを越えればすべてが解決するわけではなく、移住後の振る舞いも徹底した者でなければ、息が詰まるのが田舎暮らしの掟だということだ。

だからこそ、これだけは守るべき、という鉄則があるのだ。
それを一歩でも外してしまえば、そこから先は保証の限りではない。移住の失敗例のもっとも多くは、移住後の振る舞いにあるといってもいいだろう。(236ページより)

そこで、著者がいう「移住前、移住後に徹底すべき鉄則」のなかから、いくつかをご紹介したい。

集落移住ならば、まずは“借住”で

たとえば具体的な話に関し、印象的なことがある。集落移住をするなら、飛び込み購入ではなく、まずは“借住”にすべきだという著者の主張だ。

最近の移住ブームもあり、集落としても移住組の受け入れは問題ないとしている場所も少なくない。それどころか、役所と住民とで、表向きは諸手を挙げて大歓迎のポーズを取っているところも多いという。

だが、この点に関しては、著者があえて「表向きは」というフレーズを加えていることに注目しなくてはならない。「都会の感覚が通用しないのが集落での生活だから」というのがその理由だ。

集落は、極めて相互監視の強い場所である。家の出入りから日常の暮らしぶりまで、すべてが筒抜けになる。集落に永住用の土地や家屋を購入して成功できる人間は、もともとその土地に地縁血縁のある者か、出身者であると考えたほうがいい。
最近ではIターン、Uターンの出身者でさえ、都会の感覚に馴れてしまい、集落では大きなトラブルを生みつつある。そうした地縁血縁のある者でさえ住みづらいと感じる文化のただなかに、突然、土地や建物を購入したり新築したりして、その後も、私は私、と素知らぬ顔で死ぬまで暮らしていけるとは思わないほうがいい。(239ページより)

なかには、「濃密な人間関係や、強い互助意識のなかにこそ身を置きたい」と考える移住希望者もいるかもしれない。それが素晴らしい考え方であることは、著者も認めている。しかしそれでも、そこを「離れたい」と思ったとき、気軽に離れられる最後の安全弁は確保しておいたほうがいいというのだ。

なぜなら、なにをきっかけに集落内で孤立し、人間関係の軋轢に悩まされることになるかわからないから。極論を言えば、集落にいる限り、「自分がいつ村八分になるかわからない」という覚悟が必要だということだ。

つまり、そうした状況下における安全弁が、いつでもその場を離れることのできる「賃貸移住」だということ。その点、賃貸ならば、なにかが起こって「ここを離れたい」となった場合に楽だというわけである。

なお賃貸に関していうと、著者は経験則から、市営や村営などの公営住宅がお勧めだとしている。都市圏とは違って、持ち家や戸建て住居比率が高いのが地方。そのため公営住宅の場合は、「順番待ち」「抽選次第」といったこともほとんどないというのだ。

しかも最近は公営住宅とはいえ、最新の戸建て住宅並みに設備が充実したものが多いのだとか。たとえば長野県でも川上村など高原野菜での富裕層が多かったり、地域内にダムなどを抱え、固定資産税などの財源に恵まれた自治体は、公営住宅にも立派なものが多かったりするそうなのである。

収入によって変動するものの、物件ごとに上限があるのが公営住宅の賃貸料。仮に上限を払ったとしても、都会では想像もできないほど設備が充実し、そして広い格安物件を見つけやすいという。

したがって、集落移住をしたいのであれば、まずはそうした公営住宅に入居し、そこに住みながら、周囲を見極めていくことが成功への最短距離だと著者は主張するのだ。

挨拶の菓子折りを配る順序がすべて?

集落移住をする際には、「最初の挨拶の順序」がとにかく決定的なのだと著者は強調している。たとえば、自宅にもっとも近いからということで「下の者」から挨拶している姿を、集落有力者に見られたら大変なことになるというのである。

彼らは見ていなさそうで、こちらの一挙手一投足をじっと見ていることを忘れてはならない。あっちの家に先に行って、こっちはあとか……。そう思われたが最後である。
都会人は風光明媚な場所では人間も寛容だと思いがちだが、田舎の価値観は都会ほど多様ではなく、むしろ狭く限定的である。(245ページより)

とはいっても、移住してきてすぐに、集落の序列や、挨拶すべき順序を知ることは困難である。そこで、もしもその土地に先行した移住者がいれば、まずは彼らに訊ねることを著者は勧めている。あるいは区長などは、長老と若手を結ぶ、中間管理職のような立場として上にも下にも目配りしているので、そうした風習や因習まで教えてもらえるかもしれないという。

ただし、それは同時に、こちらがなにを訊ねたのかまでもが、長老から青年部の若手にまで筒抜けになることをも意味するそうだ。大げさなように聞こえなくもないが、「田舎暮らしとは、そうしたプライベートも情報も筒抜けのムラ一家に住まうことにほかならない」と著者は主張するのである。

テレビの田舎暮らし番組が映し出すのは、日本全国どこもかしこもまるで桃源郷ばりの話ばかり。そんな実態がどこにあろうか、という思いを募らせている移住者は決して少なくないだろう。だがいまさら都会生活に戻る気にはならない。戻りたくない、と思える移住者は絶望することはない。別荘地という選択肢がある。(194ページより)

つまり、このように都会からの移住者に別荘地を勧めるのも、そんな事情があるからだということだ。

とはいえ、集落といっても、心構えひとつで理想郷にもなりうる。だからこそ、最初の菓子折りの配り方から間違ってはいけないというのである。

やはり覚悟が必要だ

新入りはもっとも下層として扱われるのであり、そう振る舞うことでのみ、地元の者から親しげを装われることが許されるのである。(246ページより)
人間関係の濃密さでは集落に敵う場所はないだろう。それが好き、なうちは集落移住、もうダメ、となったら別荘地移住と、棲み分けてもいいだろう。(247ページより)


こうした記述を見ると、さすがに極端すぎるようにも思える。しかし、最悪のケースを想定しておくに越したことはないということ、それが著者の考え方なのだ。

冒頭でも触れたとおり、本書における著者の言葉や表現はいちいち厳しい。それどころか、「ここまで書くか?」と戸惑ってしまうような部分すらある。だから、「不快感を覚える人もいるかもしれない」と念を押したのだ。しかし、やはりそれは書かなければならないことなのだろうとも思う。本当に田舎での生活を軌道に乗せたいのであれば、やはり覚悟が必要だからだ。

なお、巻末の「おわりに」の部分に、著者の考え方が集約されている。大切なことだと思うので、少し長いが引用しておこう。

よくよく覚悟したほうがいい。
移住は不都合と不条理の宝庫である。自分が想定するメリットよりもデメリットが必ず上回るのが都会に対する地方であり、田舎である。
そこへの了解がないままに都会の資産をすべてなげうっての田舎暮らしは、それはまさに土地を開拓するに等しい苦労にほかならない。
話題に欠き、取り付く島がなくなると、移住者はまず風光明媚さを褒めるのだが、それはほとんど地元住民の心を打たない。何をのんきなこと言ってやがんでえ、と思われるのがオチである。
山間部であれ海沿いであれ、共通するのは、開拓の苦労である。
田舎はことごとく開拓、開墾の地である。どこまで行っても山岳地帯しかないこの日本列島に田園風景、畑が広がるのは、彼らが戦前から戦後も永く、開墾し続けてきたからである。
それは北海道への開拓移民や満蒙開拓団に並ぶ、それぞれの土地の者の血と汗の結果としての風景にほかならないのだ。
その歴史を直視せずして、素晴らしい風景、素晴らしい空気に水、などという表現は、それこそまず移住第一歩からして歴史を顧みぬ、風土と地元民に敬意を払わぬ、おちゃらけにしか映らない。
(「おわりに」より)

とても説得力のある文章だと感じる。そして、もしここに共感できる移住希望者であるなら、「物件探し」「お金」「人間関係」などさまざまな角度から「田舎暮らしのコツ」をレクチャーしてくれる本書を、きっと役立てることができるだろう。