年内に発売予定の新型SUV「C-HR」。新型プリウスと同じ「TNGA」が採用されている。開発責任者の古場氏自ら、ニュルでのテスト走行を繰り返したという。

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経営者の身になにかあれば、それはすぐに「経営問題」に発展する。世界一の自動車会社のトップは、そのリスクを承知で、過酷なレースに出続けている。その目的は、「現場」から会社を変えること。孤立無援の状況で、「創業家」の運命を背負った男の覚悟を、ドイツで聞いた──。

では、ガズーの活動が「トヨタの本流」へと変わり始めたとすれば、いま、彼らはニュルブルクリンクという「現場」から何を得ようとしているのだろうか。

豊田はこの活動のテーマを、「人を鍛え、クルマを鍛える」という言葉で表現し続けてきた。まず後者の「クルマを鍛える」という意味で象徴的だったのは、発売前の「C−HR」の存在だろう。

今回のレースには全体で159台がエントリーした。そのほとんどはスポーツカーで、トップ争いをする「SP9」というカテゴリーなどは数千万円クラスのレースカーばかり。その中で小型SUVのC−HRは異質な一台だといえる。開発責任者の古場博之はこう解説する。

「テスト走行と異なり、レースでは自分たちよりも速いクルマがひっきりなしに走る。その環境の中にクルマを置くことで、初めて見えてくる課題が数多くあるんです」

例えば――C−HRでのレースとは、常に他のクルマに抜かれながら走るということだ。数秒に一度はバックミラーで後方を確認し、真夜中でも上手に追い越されながら、24時間を走り切らなければならない。

「僕らは前を3割、後ろを7割見ながらレースを戦う。ニュルのような過酷なコースでは、クルマを本当にドライバーの手の内にあるように仕上げなければ、安心して走ることすらできないでしょう」

それに加えて重要なのは、C−HRがプリウスなどと同じ「TNGA(Toyota New Global Archi tecture)」というプラットフォームで生産されることだ。TNGAでは多くの部品が共有化されるため、レースでの経験は中長期的に後続の車両開発へ影響を与える。

さらにC−HRには、ヨーロッパと日本の社内テストドライバーが乗る。彼らは日々の開発で、プリウスやヴィッツ(欧州名ヤリス)、ヴォクシー/ノアといったトヨタの主力車種の評価を行う。その経験はクルマの評価を通して他の開発者にも伝わっていくはずだ。

自動車評論家の清水和夫によれば、ニュルブルクリンクでのレース活動は、実際にトヨタのクルマづくり全体に影響を及ぼしているという。

「これまでトヨタのクルマづくりで重視されてきたのは、キャビンの広さとカタログ燃費でした。2000年以降は、特に乗り心地、ハンドリング、気持ちよく楽しく走るといった領域が軽視されてきた。しかし、トヨタのなかには実はクルマ好きも多い。近年はマイナーチェンジでもボディ剛性に手を入れるなど、変化が見られます。章男社長の就任以後は彼らに光が当たり始め、優先順位がかわったという印象です」

豊田は自身の考える「チーフエンジニア像」について、「“トヨタが作っているんだ”ではなく、“自分はこういうクルマを作りたい”という思いを実現させるような人になってもらいたい」と話す。

「お客様第一というのは言い訳でしょ、と社内では言っている。作り手の情熱がなければ、新しいものは生まれない。『お客さんが言っていましたから』という作り方は、『お客様のために』という言葉をはき違えているんじゃないか。僕らは『いいクルマ』の答えを持っているわけではない。それを決めるのは市場と歴史です。それなら最後のラインオフの瞬間まで、みんなで戦おうよ、と。戦って、戦って、それは正解ではないかもしれないけれど、正解に近いところまで行こうとするのが、情熱を持った作り手なんじゃないか」

もちろん開発には数値目標が必ず付いて回る。だが、最近は「乗ってみて笑顔になれるか」という指標が重視されてきた、というのがチーフエンジニアの古場の実感である。

「だからこそ、データありきではなく、まずは自分がどうしたいかを開発の中で表現できるようになってきた。その雰囲気はこの活動の成果だと思います」

■「80点のクルマ」で本当に満足できるのか

次にクルマを鍛えるには、それを作る人を鍛えなくてはならない。そこで2015年、トヨタは「凄腕技能養成部」という新部署を作り、ニュルブルクリンク24時間耐久レースに参加する若手メカニックの人材育成の場として明確に位置づけた。

各部署から集められた技術部の社員は、クルマのホワイトボディ(何も取り付けられていない車体)を一台のレース仕様車へと組み上げるところから仕事を始める。2016年、2年目のレース参戦となる木村彰馬は、この研修への参加で「クルマの見方が大きく変わった」と語る一人だ。

7年前に入社し、現在27歳の彼は、車両技術開発部でブレーキの先行開発を担当していた。現在のクルマは電子制御の塊であり、一台のクルマを一から作り上げる経験を得る機会はほとんどないという。ゆえに組み上げたレクサスRCが初めて走るのを見たときは、「ちゃんと転がった」という素朴な感動があった。

「以前は社内で自分たちの領域のデータを取り、その数値が満足していれば良い、という気持ちが自分の中にもありました。でも、レースの現場では数値が良くても、ドライバーに怖いと言われればそれまで。クルマをトータルで見る目が養われていったのを感じています」

木村のような若手メカニックを統括するのは、成瀬の弟子でもある社内のトップテストドライバーたちである。RCのチーフメカニックを務める高木実は、こうした経験がもとの部署に戻った時、大きな意味を持つはずだと指摘する。

「いまの自動車会社では、数万点の部品がどう取り付けられ、どう開発されているかをトータルに理解している技術者は少ない。ここで仲間と協力して一台のレースカーを作ることで、自分の工程がその隣の工程、さらには後ろの工程などにどんな影響を与えているのかを肌で感じるわけです。彼らはニュルでのレースを戦うことを通して、クルマづくりの本来の姿を体験していくんです」

また、C−HRで同じくチーフメカニックを担当する大阪晃弘は、成瀬が口癖のように語っていた言葉を引いて次のようにも語った。

「いまは数値の上で80点のクルマを作ることは簡単です。しかし、それゆえにクルマに特徴を持たせるには、人間の感性をいかに商品に結び付けるかが勝負になる。レースでは何かが壊れても、『お金を出して買ってくればいい』というわけにはいきません。『人の能力は無限大だ』と成瀬さんは言っていた。人間の感性でどう工夫するか。レースはその精神を受け継ぐ現場になっています」

 

■挑戦に冷たかった組織に「オヤジ」を呼び戻す

豊田がガズーの立ち上げ以来、20年にわたって見てきたのは、挑戦に冷淡な組織の姿であった。

2015年、東京モーターショーでイチローとの対談を行って以来、彼は繰り返し「バッターボックスに立つ」という表現を使い続けている。その言葉に込められた意味を汲み取れば、「トヨタガズーレーシング」を立ち上げるに至った決意とは、トヨタという企業に真正面からぶつかり、それを戦う組織、挑戦する組織へと変えていこうというものに違いない。

5年前、同じニュルのピットで初めて会ったとき、豊田は「中小企業のオヤジのようになりたい」と語っていた。2016年、その意図をあらためて問われた彼は言った。

「体温があって、血が通っていること。中小企業と大企業の違いは、従業員の顔が見えているか、体温が感じられ、彼らの気持ちにどれだけ寄り添うことができるかにあると思う。僕はね、大企業だからそれができないと言いたくない」

そして、豊田はそれこそが「創業家」という運命を背負った自分に、いま課せられた役割なのだという思いがあると続けるのだった。

「以前はそんなものないでしょ、と思っていました。でも、いまは意識している。創業家だからこそ、遠くまで企業の未来を見渡せる。ガズーレーシングの活動もそう。たくさんの成瀬さんのような人、たくさんの私のような人間がここから現れ、次の世代に『オヤジ』と呼ばれる彼らが、今度は成瀬さんや僕を超えて、新たな世界を作り上げていってほしい。僕は彼らが、式年遷宮のように次の棟梁を育てていくことを期待しているんです」

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【著者略歴】稲泉 連(いないずみ・れん)
1979年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。本稿で触れた豊田社長と成瀬弘氏の挑戦の物語は、著書『豊田章男が愛したテストドライバー』に詳しく描かれている。

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(ノンフィクション作家 稲泉 連=文 プレジデント編集部=撮影 トヨタ自動車=写真提供)