『つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』(ダナ・ボイド著、野中モモ訳 草思社刊)著者のダナ・ボイドは、米国の若者とインターネットに関する研究の第一人者。本書でも客観的なデータや社会学理論を用いながら、ティーンのソーシャルメディア上での振る舞いについて、わかりやすく分析・解説している。

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「ネットが世界がひとつにする!」「世界中の人達とつながれる」みたいな希望論があるかと思えば、「ネットにハマるのはバカばかり」「ひきこもりやキレる若者もネットが作り出す」といった真逆の意見もあったりと、インターネットに対する人々の態度は極論に振れてしまいがちだ。

そんなアジテーションめいた言葉に惑わされずに、インターネットが社会にもたらした影響について理解を深めるには、客観的なデータや観察にもとづいた研究書に触れるのがいちばん。

そこでオススメしたいのが、米国のティーン(13歳から19歳)のネット上の営みを2005〜12年の8年間にわたって調査した、『つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』(ダナ・ボイド著、野中モモ訳 草思社刊)。日本のインターネットの現状を考える上でも、非常に示唆に富んだ一冊だ。

その本の中では、われわれが何となく知ったつもりでいる、インターネットにまつわる定説が次々と覆されているので、いくつか具体的な例を紹介してみよう。

たとえばSNSにおけるティーンの友達づくりのパターンを分析した章では、SNSにおいても人種や社会階級による分断が歴然と存在することを指摘。そしてネットを通じて、「ティーンはいつのまにか人種と階級の歴史に根ざした文化的要素の多くを受け入れ強化」(P.275)しており、「ソーシャルメディアが既存のアメリカ社会の社会的区分を再生産」(P.280)すると分析している。

つまり「ネットが世界がひとつにする」どころか、バラバラ具合を固定・強化しているというわけだ。

また本書では、そのように人が自分と似たような考えかたの相手とつながりがちな傾向を「ホモフィリー(同類志向)」という言葉で説明しているが、「日本のSNSでも(自分のSNSの使い方でも)似たような部分はあるんじゃないか」と思えてくる。

自分としてはいろんな人と交流したり、幅広い意見やニュースに触れたりして知見を広げているつもりでも、かえって考え方は狭まっていて、違う考えを持つ人達との対立もより強化されている……なんて話は大いに起こり得ることだろう。

本書の分析対象は米国のティーンたちだが、そのようにして日本の状況に置き換えたり、自分の行動を振り返ったりすると、本書は何倍も面白くなってくるのだ。

また、「最近の若者はメールやSNSをしてばかりで友達と直接会おうとしない」というような意見や、SNSを犯罪の温床として危険視するような意見も、本書では否定されている。

まず前者の意見について。著者は、離れた学校に通う子供が増えて近所の友達と遊ぶ機会が減ったこと、無数の外出・徘徊禁止法が施行されて、ティーンたちの公共空間や商業空間へのアクセスが制限されたことなどが、彼らが熱心にSNSに向かう一因になったと分析している。

ティーンたちは友達と会いたい、遊びたい。けれども会えないし遊べない。だからこそSNSに向かう。つまり、「ほとんどのティーンはソーシャルメディア中毒ではない。もし中毒だとしたら、それは友達同士お互いに中毒になっているのだ」(P.131)。そしてそれは、人生にさまざまな不安を抱えた若い時期には、ごく当たり前のことだろう。

また親たちは、若者のSNSの利用を「危ないから」と制限しようとする。日本でも若者が巻き込まれたネット上のトラブル・事件は大きく報じられるが、米国でも状況は似ているようだ。本書では「SNSで知らない男たちに誘惑された」とメディアで大きく報道された行方不明の少女たちが、発見されて事情を聞いてみるとただ家出をしただけだった……というエピソードが紹介されている。

若者のネット関連の犯罪や事件では「ネットの危険性」ばかりが強調されがちで、その裏側のさまざまな事情は見過ごされがちだ。著者いわく、虐待や両親との不和・つながりの薄さ、薬物乱用、鬱(うつ)といったネガティブな問題を経験していた子どもたちは「オンラインでも問題のある行動を見せる傾向が明らかに強」(P.199)いそうだ。

そして、「不健康なオンラインの人間関係の存在は、インターネットに由来する性的搾取の危険を大きくさせているとも言えるかもしれない」(P.200)とも述べている。それらの家庭事情や、その家庭事情を生み出した社会の問題をすっ飛ばして、「ネットが危険」とだけ言うのは、確かにおかしな話だろう。

つまり「大人にとっては、望ましくない結果をすべてテクノロジーのせいにするほうが、他に関係しているかもしれに社会的、文化的、個人的要素について考えるよりも簡単」(P.128)なのだ。若者の問題にかぎらず、何から何まで「ネットのせいにする」というのは、多くの人がやってしまいがちなことなのではないだろうか。

本書はほかにもティーンたちのネットでのプライバシー、いじめ、リテラシーの問題などについて、その背後に潜む社会的、文化的、個人的要素を考慮に入れながらさまざまな分析を加えている。ネットと社会の関係に興味がある人はぜひとも読んでみてほしい。
(古澤誠一郎)