結局、守備的なサッカー、という言葉のイメージが悪いのだと思う。もしくは、守備的なサッカー、というものに対して、考え方の間違いを起こしている、という事もあると思う。つまり、以前にも書いたが、守備的に戦う=ベタ引きの戦い方をする、守備的に戦う=アグレッシブな守備をしない、という事ではない、という事。ベタ引きの戦い方になってしまうかどうかは実力差の問題であり、また、守備的な戦い方をしたとしてもアグレッシブな守備をする事の重要性は変わらない、という事。従って、ベタ引きの戦い方をしたくないと日本が思っていても、そうできるかどうかは試合が始まってみなければ分からないし、また、ベタ引きの守備をしようとハイプレスの守備をしようと、アグレッシブな守備ができなければ守れない、という事。

常に一人称で語ってしまう、というのが日本人の悪い癖だと思う。今回のコンフェデでの3試合にしても、ブラジルの実力や調子や戦い方、イタリアの実力や調子や戦い方、メキシコの実力や調子や戦い方、そこを考えて日本はどうするべきだったのか、という視点が足りていない。ほとんどの場合が、結果論であったり、あるいは、日本だけを観てあれこれと考えている人が多い。そしてそれは選手にしてもそうで、日本はああすべきだったこうすべきだった、という事に終始し、ブラジルはこうだったからこうだった、こうするべきだった、イタリアはこうだったからこうだった、こうするべきだった、メキシコはこうだったからこうだった、こうするべきだった、というコメントはほとんど聞かれなかった。つまり、選手にしても、戦っている相手をよく見てない、という事。

日本の選手は真面目すぎる、監督のオーダーをやろうとしすぎる、という事もそうだが、しかし、そうである事によって実際のピッチでは何が起きているのかと言えば、相手を見ながらプレーしていない、相手を見ながらプレーできていない、という事。それは、考えるのではなく、感じる、という事でも良いのだが、プレーしている時には、常に相手のあらゆる事について素早く察知しながら戦わないといけない。ハッキリ言って、相手に合わせた戦い方をしてはいけない、相手に合わせた戦い方では勝てない、という考え方は、日本では常識でも世界では非常識、であって、かなりのナンセンスな考え方。ブラジルやスペインの強さは戦い方の柔軟性にもあるし、イタリアの伸び悩みは戦い方の柔軟性の無さにもあるし、それはメキシコにしてもイタリアと同じ。

試合巧者、というのはどういう事なのかと言えば、常に相手や状況に適した戦い方ができる、という事であり、マリーシアとはどういう事なのかと言えば、やはり常に相手や状況に適した戦い方ができる、という事。真っ向勝負で競り合ったら勝てないからファールをもらいにいくプレーをするとか、流れの中から得点を取るのは難しそうだからセットプレーを取りにいくプレーをするとか、相手が激しく対応してきているからイエローカードを誘発させるようにするとか、空中戦は背の低い選手のところを狙ってやるとか、相手が前掛りになっているからカウンター攻撃にしようとか、相手がリトリートしているからハイプレス&ポゼッションをしようとか、とにかく書き切れないが、そうやって相手の嫌がる事をして主導権を握る(握り返す)のが試合巧者。

しかし、自分たちのサッカーに固執していては、相手がどうこうよりも自分たちがどうなのかという視点でばかりプレーしていては、やはりいつまで経っても試合巧者にはなれないし、更には、ハマれば強いけどハマらなければ弱い、こちらのコンディションが良くて相手のコンディションが悪ければ良い内容のサッカーができる、得点は取れても結局は競り勝てずに負ける、という袋小路に迷い込んでしまう事になる。つまりは、攻撃的なサッカーをするべきか、守備的なサッカーをするべきか、というのは、日本がどうしたいかではなく、相手や状況によって決まる、という事。重要なのは勝利する事。勝利という目的に向かわない戦い方は、得点を取るという目的に向かわないポゼッションと同じ。試合は良い内容の戦い方をするためにやっているのではなく、試合は勝利するためにやっている。当たり前の事なのだが日本人はすぐにそこを忘れる。