39000人もの観衆を集めることになったその試合で、日本の五輪チームは11対0の勝利を収めた。しかし、その代償は大きかった。小野がフィリピンのディフェンダーから激しいタックルを受け、左膝靱帯断裂の大怪我を負ったのだ。その後の彼のサッカー人生に、この怪我は大きな影響を与えたと言われている。

シドニー五輪本大会に出場した中田英も、いまひとつ冴えないサッカー人生を送ることになった。トッティとのポジション争いに敗れ、定位置を失うことになった。移籍した先でも、ペルージャ時代の輝きが蘇ることはなかった。

シドニー五輪前、僕はある雑誌で「中田英は出場するべきではない」と書いた。例のイタリア人記者の言葉を引用し、日本の常識は世界の非常識的な調子の原稿を書いたところ、予想通り、多くの読者からお叱りを受けた。いまはどうだろうか。少なくとも宮市、香川は呼ぶべきではないと言ったら、どんな反応をされるだろうか。

1人でも多くの人材がA代表クラスの選手に成長することが、五輪チームに求められている最大の責務だ。五輪本大会で結果を出しても、A代表の戦力アップに貢献しなければ、本末転倒。やるからには勝って欲しいが、まずありきは勝利ではなく、個人の強化だ。すでに高い評価を得ている選手を、リスクを犯して招集し、結果を欲することではない。

もっとも僕には、日本人が本当に結果を欲しがっているようには見えないのだ。アテネ五輪、北京五輪ともに、本大会には出場したものの、結果はグループリーグ最下位だった。メダル候補にまで祭り上げられながら、惨敗した。しかし、日本人の反応は鈍かった。そこに熱を感じることができなかった。ガッカリしたり、怒りを露わにする人は少なかった。

メダル候補とぶち上げたメディアもしかり。惨敗しても、さあ次はW杯予選だと、さっさとチャンネルを切り替えた。五輪チームが、大会前の盛り上げの材料に使われてしまった哀れな集団に見えた。

ただ、今回は女子がいる。メダル候補が他に存在する。女子がいる限り、メディアにとって五輪サッカーは安泰なのだ。だとすれば、男子は気楽だ。勝利至上主義とは別の、まさに世界の常識と同じテーマで臨めるはず。また、そうあるべきである。女子重視。それはそれで結構なことだと僕は思う。