2002年W杯で中田英寿と肩を組む三都主アレサンドロ【写真:Getty Images】

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【あのブラジル人元Jリーガーは今?】三都主アレサンドロ:第2回――日本代表時代の今だから語れるエピソード

 三都主アレサンドロが日本に帰化したのは、清水エスパルスで絶好調だった2001年11月のこと。

 翌2002年3月には、親善試合ウクライナ戦で当時のフィリップ・トルシエ日本代表監督に招集され、代表デビューを果たした。サッカー大国ブラジルに生まれ、16歳で日本に渡る決意をした彼が、日本代表選手としてプレーし、2度のワールドカップ(W杯)を戦った、その5年間の思いと、今だから語れるエピソードの裏側を振り返る。(取材・文=藤原清美/全3回の2回目)

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「帰化すると決めたのは、多分、1つのプロセスだったと思うんです。それまで長かったんですよね。高校生活があって、エスパルスでの1年目があって、MVP(Jリーグ最優秀選手賞)を獲ってからは、違った喜びを知って。

 MVPの選手としていろんな学校を訪ねて、例えば、子どもたちが自分の髪を触るだけで、『すごい!』ってなったり、自分が夢見ていたプロになったことで、逆に自分が夢を与える仕事ができている。そのチャンスをくれたのは、やっぱり日本じゃないですか。

 明徳(義塾高等学校)じゃなかったら、ああいうアレックスにはならなかったかもしれないですし。必死だったんですよ。チームも弱くて、自分が頑張らないと次に進めない。パスを出しても、戻って来ないレベルだったので、僕がみんなの分も頑張ろうって。そういう意識があったから、多分エスパルスに合格できたと思う。

 7年いたら、友達も彼女も日本人。自分の人生はもう日本だったんです。だから、日本人になるという話を聞いた時に、すごく前向きに考えたんですよね。

 申請したあとは1年半以上かかって、やっぱり難しいなぁって思っていたから、許可が下りた時にはすごい嬉しかった。2か月後にトルシエさんから日本代表に呼ばれて、期待されているのも感じられた。

 もちろん、どう見ても日本人に見えないので(笑)、外国に行って赤いパスポート見せても、何回も僕の顔と見比べて『お前、日本人なんだ!?』って(笑)。でも、僕にチャンスを与えてくれた、日本のために頑張りたい、自分の道は、日本で日本人として戦うことだって決めていました」

 日本代表での彼について、今も言われているのは、中田英寿との関係だ。“日本代表で唯一、中田に言いたいことが言える”というのが評判だった。

「いや、ツネ(宮本恒靖)やほかにも、そういう選手はいましたよ。でも多分、中田のミスでも普通に怒るのは、僕だけだった(笑)。必死だったから。『アレと中田、喧嘩してる?』って何回も聞かれたんですけど(笑)、全然もうヒデとは仲良かった。でも、試合ではヒデも海外で、チームメイトに怒って怒られて、チームのために頑張るっていうのは普通だったので。

 まだあの頃、海外に出てた選手が少なかったんですよね。今の代表なら、ほとんどの選手が海外でそういう経験をしていて、だからこそ日本が強くなってきているのもあると思う。まぁその時は、みんな大人しかったんですよね」

今でも忘れないW杯で通したスルーパス「試合中に鳥肌まで立つのはなかなかない」

 中田とのエピソードでもう1つ印象的なのは、2002年W杯でアレックスが初スタメンとなった、決勝トーナメント1回戦の日本対トルコ戦でのことだ。

 前半12分に日本が失点したあとの同42分、中田が倒されて、中央左寄り、絶好の位置でFK(フリーキック)を得た。しかし、アレックスが蹴ったそのボールは、バーを叩き、枠の外側へと跳ね返ってしまった。

「あの角度と、チーム内での重みで言うと、もう絶対、中田が蹴る場面じゃないですか。でも、あの時、自分が入れる自信があって『ヒデ、(小野)伸二、僕に蹴らせろ、僕、絶対蹴る』って必死で言って。多分彼らも蹴りたかっただろうけど、あそこで譲ってくれたのが有難かった。あれだけ言ってるんだから、まぁアレもやってくれるだろうって信じてくれたので、そういうのがチームメイトですよね。

 決めてたら、もっと良かったんですけど(笑)。中田は『僕が蹴ったほうが良かった』って言ってましたよ(笑)。『決めなかったら、意味ないじゃないか』って」

 トルシエ、ジーコ、イビチャ・オシムと、3人の監督の下でプレーした代表の経験から、得るものは多かった。

「トルシエさんとジーコさんは、全然やり方が違った。トルシエさんはすごい厳しく指導するし、全部決めてあって、それにハマるようにやっていく。3-5-2ならこの選手で、こういうことをやる。サイドから攻める、中からこう選手が入るっていう感じで。

 ジーコは大違いで、選手の中に入っていって、こういう風にしたほうが良いよ、とは言うんだけど、自分たちが決めないといけない。オシムさんもそうだったけど、そのプレーをする時は監督がいないよって。もちろん、守備には決まり事がある。攻撃もいろんなパターンを練習して、その中で自分が決めるんだけど、自分のリズムで、自分のやりたいことをやりなさいって。それで評価されて、代表に入ってるんだからと。

 日本代表がどういう時期だったかというのもあるし、それぞれの伝えようとしていたことが、すごい大事ですよね。選手たちはそれを自分のプラスにして、代表のためにさらに良くなろうと考えないとダメなので、すごく勉強になりましたね」

 日本代表で心に刻まれる瞬間がある。

「W杯で玉田にスルーパスを出した時。試合中に鳥肌まで立つのは、なかなかないんですよ」

 それは、2006年W杯グループリーグ第3戦、母国ブラジルとの対戦でのこと。立ち上がりから猛攻を受けた日本だったが、前半34分、アレックスのスルーパスから、抜け出した玉田圭司が左足で強烈なシュート。ブラジルから先制点を奪った瞬間だった。試合はその後、ロナウドの2点を含む4ゴールを決められ、最終的に1対4と大敗した。

「玉田が決めた時、鳥肌が立って、何、あの感じ! 『僕らブラジルに勝てるぞ! 頑張ろう、頑張ろう』って。

 もう1つ、アジアカップ優勝した時もそう。あの時期は中国と日本の間で、ちょっとバツバツっていうのがあって、そういう時に、中国の満員のスタジアムで、もう絶対に日本に負けないっていう雰囲気の中で優勝した。

 そういう経験ってなかなかできないですし、今はそれを子どもたちや選手たちに伝えたりもしてるのでね。みんなの成長をサポートして、ああいう経験に近づくための機会を与えたいですよね」

 インタビューの第3回では、アレックスが「日本で学んだことを活かしている」と語る、現在の活動と、尽きることのない夢について綴る。

[プロフィール]
三都主アレサンドロ(さんとす・あれさんどろ)/1977年7月20日生まれ、ブラジル出身。清水エスパルス―浦和レッズ―レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)―名古屋グランパス―栃木SC―FC岐阜―マリンガ(ブラジル)―グレミオ・マリンガ(ブラジル)―PSTC(ブラジル)。鋭い突破力と正確なキックを持ち味とする攻撃的アタッカーとして活躍。2001年に日本へ帰化。日本代表メンバーとして2004年のアジアカップ優勝、2002年に日韓W杯ベスト16進出に貢献した。(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)