紫式部の邸宅跡である廬山寺(写真: ocasek / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は若宮(敦成親王)の誕生から50日を祝う宴の席が終わり、実家に戻った紫式部のエピソードを紹介します。

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きれいな都とは対照的な実家の姿

寛弘5年(1008年)11月1日、中宮彰子と一条天皇の間に生まれた若宮(敦成親王)誕生50日の御祝いが終わり、中旬に入りました。藤原道長の邸(土御門殿)の庭池には、渡鳥が頻繁にやってくるようになります。

中宮彰子に仕える紫式部は、その渡鳥の姿を見ながら(この土御門殿のお庭の雪景色はどんなにきれいかしら)と、もう雪景色を思い浮かべていました。

そんな中、紫式部は少しの暇をもらって、実家に帰ることにしました。初雪が都に舞って華麗な景色の土御門殿とは違う、みすぼらしい実家の庭の木。

その木を見ながら、紫式部の心はかき乱されていました。

「ここ何年か、寂しさの中、涙に暮れて夜を明かし、日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪を見ては、もうそんな季節になったのだと気づくものの、心に感じるのは、これからいったい、どうなってしまうのだろう」と不安ばかりが湧き立ってきたのです。

その不安を和らげてくれたのが源氏物語(以下、物語)を書くことと、人々と文通をして物語の内容について意見を交わすことでした。

疎遠になっていた人にまで、紫式部はつてを求めて声をかけたといいますから、その寂しい心の内が伝わってきます。夫を亡くした紫式部は、物語を媒介にし、人々とつながり、寂しさを紛らわせていたのです。

一方で、紫式部は「今、その気持ちをすべて思い知ることになった身の上の、何と憂わしいことだろう」と思い悩みます。

紫式部は実家で物語を手に取ってみましたが、「昔に見たようには感じられず」とも日記に記しています。かつて物語を読んだときの感動が、今はもうなくなってしまったということでしょうか。

気持ちが落ち込む中で女房仲間が恋しくなる

「昔文通していた友人も、私(紫式部)が女房勤めに出た今となっては『恥知らずで浅はかな女』と軽蔑していることだろう」と紫式部は想像を膨らませています。

そんな邪推をすることも、宮仕えに出たことと同じように恥ずかしいので、友人にはこちらからは連絡できない。紫式部の気持ちはどんどん落ち込んでしまいました。

紫式部が女房勤めをしていることもあり、昔は実家まで訪ねてくれた人も、今はめったにいない。幼い頃から過ごし、慣れ親しんでいるはずの実家。その実家に久しぶりに帰ってきたことで、紫式部は寂寥感を味わい、何度もため息をつくのでした。

そうなると、日頃は煩わしいと思うこともある女房勤め、女房仲間が恋しく思えてくるから、(自身が)現金な人であるとも紫式部は記します。

また大納言の君が、夜々、さまざまな話をしてくれたことが恋しいとも書いています(紫式部は宮仕えを辞めたいと思うことはあっても、女房仲間は好きだったようです)。

紫式部が実家に帰っているときでも、女房仲間から「中宮様が雪をご覧になり、あなたがいないことに大変失望していましたよ」といった内容の手紙が送られてきました。

ほんの少しの休暇(実家での滞在)にもかかわらず、わざわざ手紙を送ってくれるとは。現代人がこれをどう思うか(嬉しいか、煩わしいか)は別にして、宮中ではとても濃密な人間関係が築かれていたといえます。

そして何と、道長の妻(源倫子)からも手紙が送られてきました。そこには、「早く戻ってきてほしい」との内容が書かれていました。さすがの紫式部もこれには恐縮したようで「すぐに戻ります」と返事し、再び、土御門殿に舞い戻るのでした。


京都御所(写真: hanadekapapa / PIXTA)

中宮彰子が、内裏に戻るのは、11月17日のこと。もしかしたら、その諸々の準備のため、紫式部に早く戻ってきてほしいと言ったのかもしれません。それでも紫式部としては、自分を必要としてくれる場があることに、案外、喜んで再出勤したのではないでしょうか。

さて、中宮が内裏に戻るのは、11月17日の午後8時頃のはずだったのですが、夜は更けていきます。女房たちが30人ほど、正装し、髪を上げて並んで、待機していました。

内裏へと戻る中宮の御輿には、宮の宣旨(彰子の女房)が同乗しました。糸毛の牛車には、道長の妻と若宮、そしてその乳母が乗っていました。紫式部もまた別の牛車に乗ることになりました。同乗者は、馬の中将(彰子の女房。藤原相尹の娘)でした。

宮仕えの嫌な一面も

紫式部の日記の内容を見ると、このとき、馬の中将は(まずい人と乗った)という顔をしたようです。

馬の中将がなぜそんな顔をしたのか、その理由までは書いていません。紫式部とは元々、反りが合わなかったのでしょうか。(同車くらいで何と大袈裟な)と紫式部は思うとともに、こういったところが、宮仕えの嫌なところだとも書き残しています。(わかる、わかる)という現代の勤め人の声も聞こえてきそうですが。

それはともかく、牛車から降りた紫式部たち。その姿は月明かりに照らされます。(こんな明るい中を、人から丸見えで歩かなければならないなんて、ひどいわ)と思いつつ、紫式部は歩き始めました。

先程の馬の中将は紫式部よりも先に進んでいるものの、どこに行けばよいのかわからず、オドオドしている模様です。

その様子を見て、紫式部は(私の後ろ姿を見る人もきっと同じように見ているだろうと思い、恥ずかしい)と感じたようです。

その夜、紫式部は、細殿の三の口で、小少将の君と語り合いつつ、横になります。寒さで硬くなっていた衣を横へ押しやり、重ね着をし、火取りに火を入れて、暖を取ります。

そうしたところに、侍従の宰相(藤原実成)、左宰相の中将(源経房)、公信の中将(藤原公信)といった男性たちがやってきました。紫式部は正直、鬱陶しいと感じたようです。

その「殺気」を感じたのか、彼らも長居はせず「明日の朝、出直してきましょう。今夜は寒い、我慢できない。身も凍る」と言うと、部屋から出ていきました。

可愛らしさもある、紫式部の一言

彼らが家路に急ぐ様子に、紫式部は(お家にどれほどよい奥様がいるのだろう)と思ったようです。「これは私が未亡人だから言うのではありません」と、ある種の言い訳を書いている紫式部。少し可愛らしくもあります。


(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)