プーチン大統領と習近平国家主席(写真:ABACA PRESS/時事通信フォト)

ロシアによるウクライナの軍事侵攻やパレスチナでの衝突など、世界情勢は深刻さを増しています。経済と安全保障の専門家であるジャーナリストのビル・エモット氏の著書『第三次世界大戦をいかに止めるか 台湾有事のリスクと日本が果たすべき役割』より一部抜粋・再構成してお届けします。

抑止ではなく先制攻撃に方針を切りかえる流れに

冷戦時代に戦略の柱だった「抑止」は、21世紀の最初の10年でその看板をおろすことになった。西側世界と敵対するのが核を保有する超大国ではなく、非国家主体やならず者国家に変わってきたからだ。世界唯一の超大国になった米国は、ジョージ・W・ブッシュが大統領になり、2001年9月11日に同時多発テロ事件が発生してからはとくに、抑止ではなく先制攻撃に方針を切りかえる流れになった。

1990年、米国の評論家チャールズ・クラウトハマーは、不動の米国支配を「単極の瞬間」と呼んだ。けれども同時多発テロによって、単極の瞬間が終わっただけでなく、今後テロ攻撃の危険に対処するには、敵をあらかじめ叩く「先制攻撃」が必要になることがはっきりした。同時多発テロを引き金とするアフガニスタンおよびイラクでの戦争を経て、テロ攻撃の懸念が一段落したいま、大国間の競争がふたたび不安材料になっている。以前とちがって核兵器だけが焦点ではないものの、抑止の概念を表舞台に呼びもどす必要が出てきた。にもかかわらず、抑止は最初の大きな試練で失敗してしまった。

2022年2月、ロシアはウクライナに侵攻する。経済制裁や国際社会での孤立、国際法および国際連合憲章の違反、米国が収集した機密情報から得られた証拠、そのどれもが抑止にはならなかった。2014年にロシアが違法にクリミアを併合し、東部のドンバス地方を実効支配してから、西側諸国はウクライナに兵器や軍事訓練を提供しており、それを強化する可能性があっても、ロシアはひるまなかった。プーチン大統領は、数日かせいぜい数週間で決着がつくと高をくくっていたようで、そうなるとウクライナ軍だけが唯一の抑止力になりそうだった。

さらにロシアは、ウクライナのみならず西側の支援諸国に対する核兵器使用までちらつかせた。幸いいまのところ実行に至っておらず、ありがたいことにプーチン大統領の頭のなかでは、核抑止という冷戦伝統の枠組みがまだ機能しているようだ。抑止には保障がともなうのが本来の形だが、ロシアの安全保障は脅威を受けないとプーチン大統領に約束する外交努力は、これまですべて失敗している。おそらく最初から方向がずれていたのだろう。

ロシアと中国による共同声明の意図

実際のところ、プーチン大統領に働きかけた最大の外交努力は、むしろ侵攻を奨励する形になってしまった。侵攻が3週間後に迫った2022年2月4日、プーチン大統領と中国の習近平国家主席は北京で会談した。両国が調印した共同声明には、次のように書かれている。「共通の隣接地域において、安全と安定を損なおうとする外的勢力に立ちむかい、あらゆる理由をつけて行なわれる主権国家の内政干渉に対抗する」。

つまりロシアと中国は、国境を接する周辺諸国までを自国の勢力圏と見なし、その「安全と安定」を勝手に定義して、他国に干渉する意図を明言しているのである。

この共同声明もまた、西側への抑止効果を意図したものだ。世界最強の核保有国のうち2つが手をたずさえることが見てとれる。さらに、西側の主導体制や国際法解釈に反発を覚え、中国やロシアの後ろ盾がほしい国々に結集を呼びかける役目も果たしている。

共同声明は、中露の戦略的パートナーシップに「制約はない」とうたっている。たとえそれが軍事同盟の形を取らないとしても、西側の抑止戦略が直面する壁はいっそう高くなった。

その理由は単純明快だ。中露戦略的パートナーシップから明らかなように、いまや大国の競争はどの国境、どこの地域が舞台になってもおかしくない。2022年6月、シンガポールで開かれた国際戦略研究所のシャングリラ対話で、開会の辞を述べた日本の岸田文雄首相は「今日のウクライナは明日の東アジア」だと表現した。地域の悲劇が別の場所で繰りかえされるだけでなく、欧州と東アジアがひとつの戦略的空間としてつながっているという意味だろう。

そして東アジア、なかでも台湾をめぐって紛争が起きる可能性は、ウクライナよりも高い。それは米中という世界の二大国家が直接対決する戦争に発展し、ほかの強国もたちまち引きずりこまれて、最後は核兵器が使用されることになる。まさに「第3次世界大戦」と呼ぶにふさわしい紛争になるだろう。

なぜ台湾はリスクが高いのか

2021年から2022年にかけて、台湾とウクライナのリスクの差を鮮明にしたのは米国のジョー・バイデン大統領だった。ロシアと戦うことが「第3次世界大戦の始まりになる」といって、米軍あるいはNATO軍をウクライナに派遣する可能性を慎重に排除したのだ。しかし2021年10月と2022年5月には、もし中国が力で台湾の支配を試みるならば、米軍は直接介入して阻止すると表明した。2022年にも同様の発言を二度繰りかえしている。


ホワイトハウスと国務省はそのたびに、1972年の米中共同声明での台湾の扱い、すなわ「ひとつの中国」とする政策に変わりはないと「釈明」に追われた。米国は台湾の帰属を力で決定することには反対しつつも、台湾はどうあるべきかの判断はあえて避けてきた。

バイデン発言は、少なくとも自分が大統領であるあいだは、武力行使に軍事介入で対抗するという明確な意思表示だ。欧州では、ロシアと戦闘状態になって「第3次世界大戦を始める」つもりはない。けれどもアジアでは、台湾をめぐって中国と衝突し、第3次世界大戦を始めるつもりがあるということである。

同じ発言を4度も繰りかえしたバイデン大統領は、台湾の立場について「戦略的あいまいさ」を保ってきた米国の方針を、「戦略的明確さ」に切りかえようとしている。米国の鮮明な態度が、台湾独立の刺激になることも恐れていない。こうでもしておかないと、中国の台湾侵攻の恐怖が現実になるかもしれないのだ。

この姿勢に偽りがなく、その後の大統領も踏襲するとしたら、もう空母を派遣するどころの話ではなくなる。1996年、台湾をめぐって米中関係が緊張したとき、当時のビル・クリントン大統領は台湾海峡に空母を二隻派遣して中国に警告した。だがこれからは、世界最大の軍事力を誇る国と、世界第2位の軍事力を持つ国が、全面戦争に突入する事態も起こりうる。米国は1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下して以来、初めて核兵器を使用する事態も想定しているだろう。

(ビル・エモット : 英『エコノミスト』元編集長)