2024年8月24日、ウクライナの首都キーウ市内で、独立記念日を祝う広場に陳列された前線で使用された軍事用ドローンなど(写真・SOPAImages/GettyImages)

ウクライナ戦争が始まって、ちょうど2年と半年である。戦争としてこの2年半が遅いのか早いのか、いろいろと議論はあろう。総力戦ではない条件付き戦争という近代戦においては、つねに全力投球ではなく、有利な条件をもって交渉にあたり、停戦を考えるのがつねである。

だから、交渉という問題を考えるとこの時間の長さは当初より考えられていたことではある。しかし、戦争の被害の大きさを考えるとき、2年半はとても長いといえる。

ウクライナの新たな選択

8月24日は、ウクライナの独立記念日だった。この日を祝うべき日であるが、ロシア軍の総攻撃の噂もあった。各国大使館にはウクライナから避難命令が出ているという話も出たほどだ。

なぜそうした事態が起きたのかは、2週間前のウクライナ軍によるロシア領クルスクへの総攻撃に原因がある。

2月にドネツク近郊の要塞アウディーイウカ(アフディフカ)が陥落して以後、ロシアの東部戦線における進撃は止まることがない。だから、防戦一方のウクライナが、いわばそのロシアに奇襲攻撃をかけたということである。

これは陽動作戦なのか目くらまし作戦かはわからないが、ロシア国境を越えて侵入したという点で、ウクライナは新たな選択をしたといえる。しかし、正直に言えば、宣伝効果的側面は評価されるものの、実質的意味は悲劇的なものといえるかもしれない。

実際、西欧諸国のメディアは一斉にこの侵攻を大勝利と報道し、あるメディアはロシアの弱点を見つけたウクライナは、ロシアを敗北させるのではとさえ報じた。

もちろん、ウクライナ軍のロシアへの侵入は今回が初めてというわけではない。1年前にベルゴロド方面に侵攻してロシア軍に撃退されている。

今回はその兵の数(1万人を超す兵隊が投入されたともいう)において、その武器の量において格段に違う。さらには、このクルスクという場所は、ある意味、因縁の場所でもある。これらを考えると、まったく違っているともいえる。

因縁とは何か。この侵攻が第2次世界大戦当時のドイツ軍によるクルスク奇襲作戦を思い出させるからである。

ドイツ軍によるクルスク大戦車戦

今から81年前の1943年7月5日、ドイツ軍は最後の決死作戦に出る。これがクルスクの戦いといわれるもので、第2次世界大戦では最大の攻防線である。

結局ドイツ軍はこの戦争で敗退し、その2年後にドイツ第三帝国は壊滅する。当時の司令官はソ連側がジューコフ、ドイツ側はマンシュタインであった。

この戦いは独ソ戦において決定的攻防線であり、この勝敗が、少し前の「スターリングラードの攻防戦」(1942年7月から1943年2月)とともに、ドイツのソ連への侵攻、すなわち1941年6月から始まったバルバロッサ作戦の転機となった。

2度あることは3度あるというが、2024年8月にウクライナ軍が突然にクルスク攻撃作戦を開始した。最初はナポレオンのベレジナでの戦い(1812年11月)だ。ともに激しい戦いの後、ロシアの勝利に終わっている。

クルスクはとりわけ戦車戦として有名で、上映時間8時間というソ連映画の大作『ヨーロッパの解放』の第1部が「クルスク攻防線」であった(青木基行『クルスク大戦車戦』学研M文庫、2001年参照)。

クルスクという町は昔から交通の要衝で、川の合流点でもある。1000年の歴史を持つ町でもある。また、ロシアの工業地帯であると同時に、チェルノブイリと同じ種類の原子力発電所があることでも有名で、しかも北極海のガス油田から来るガス・パイプラインの分岐点でもある。

それは、ウクライナを通ってポーランドとドイツに流れるキーステーションである。そしてウクライナ戦争後もこのガス・パイプラインは西欧にガスを供給していたのだ。

原子力発電所はクルスク以外にも、ロシアとウクライナ国境沿いにはいくつか存在する。ロストフ、ノヴォヴォロネシュスカヤ、スモレンスク、クリムスカヤ、ザポロージャなどだが、いずれもロシアが支配している地域にある。

原子力発電所はウクライナ独立以後もロシアが管理していた。それは、原子力発電がロシアに依存していたことを意味している。

なぜクルスクに軍を向けたのか

しかし、この2年半にわたる戦争で、ウクライナはドンバスの領土を失い、戦争の行く末がすでに見え始めたと思われている今、なぜクルスク攻撃を始めたのだろうか。

2024年8月になって、世界戦争の不安はガザで高まっていた。それはガザでの戦争が、イスラエルとイランとの戦争に発展するのではないかという懸念があったためだ。そうなると大規模な中東戦争、ひょっとするとNATO(北大西洋条約機構)との戦争に発展する可能性があるからだった。

そんな矢先、このウクライナ軍のロシアへの越境攻撃が始まったのだ。心配なのは、これにアメリカを含むNATO軍が参加しているのではないかという、疑念である。

これまでの戦争は、突発的侵攻は別として、戦争はウクライナ領土内で行われていた。そして戦争当事者も2つの国に限られ、だからこそウクライナ戦争はロシアの侵略戦争ともいわれていた。

しかし、ロシア侵攻ともなればロシアへの侵略戦争、そしてその背後にNATOがいたとなれば、ロシア対NATOの戦争という事態となり、ウクライナ戦争ではなくなる。誰もが懸念したのは当然であった。

しかしながら、アメリカですらウクライナの侵攻について十分説明されていなかった可能性も出てきている。この侵攻の目的について知らなかったというのである。

確かに侵攻の目的によっては、この戦争は世界大戦へ飛び火する。プーチンはこの侵攻はNATOが仕掛けたものだと主張したが、それは定かではない。では何の目的で計画されたのであろう。

ドイツのクルクス攻撃は、ソ連の突出部であるクルスクを攻撃し敗北させることで、戦争の大逆転を狙ったものだとされるが、今回の目的は何であったのか。独立記念日のための花火としては、あまりにも危険すぎる冒険である。

クルスク攻撃という危険な作戦

そこで考えられるのは、一種の陽動作戦だったということだ。ドンバス地域での不利な状況を打開するため、ロシア軍の手薄なクルスクを攻撃することで、東部のロシア軍をそちらに移動させるという考えである。しかし、ロシア軍の総合力からいって、移動させる必要もないことは明らかである。

とすると、停戦に向けて有利に進めるための交渉作戦か。クルスク地域はガス・パイプラインと原子力発電所という、ロシアにとっても世界にとっても重要な施設がある。この地域に威圧をかけることで、停戦合意を有利に進めることなのか。これはとても危険な作戦といえる。

すでにロシア占領下にあるザポロージャの原子力発電所に、ウクライナ軍は何度も攻撃している。しかし原子力施設の破壊は、世界を大混乱に陥れる可能性がある。

その意味で、原子力発電所は戦争の外になければならない施設といえる。ガス・パイプラインもそうだ。これによって不利益を被るのはウクライナ、そして西欧諸国であるからだ。

もちろん危険にある施設を使って、戦争の危険性を訴えるプロパガンダにはなる。ウクライナは何度かそれを試みてはいる。

NATOがこの作戦に対して危惧をもったのは、まさにこの問題であろう。原子力発電所などの攻撃は、世界に悲劇的な衝撃をもたらすからである。それはロシアとて同じであろう。考えたくはないが、もしそうなれば核戦争の可能性が近付くからだ。

おそらく、考えられることは、ウクライナ側の攻撃の出発都市スームィへの攻撃を避けるために先手を打った作戦であったということかもしれない。これならば、世界戦争に発展する可能性はないだろう。

スームィは、キーウ(キエフ)に近い地域である。比較的正しいロシア側情報を知らせてくれるイギリスのユーチューバー、アレクサンダー・メルクーリス(Alexander Mercouris)が8月23日に報道したところによれば、その作戦の意味は、2022年2月にロシアが行ったスームィ攻撃にずいぶんな恐怖を抱いたからだ、というものである。

ウクライナ戦争が始まった当初、ロシアはウクライナ全土、とりわけキーウ近くに侵攻を進めた。これによって、首都陥落の可能性を憂慮したゼレンスキー政府は、首都をリヴィウ(ルヴォフ)に移転させようとまで考えたようだ。スームィからキーウまでは直線で300キロメートルしかない。

2022年3月にスームィは陥落し、一時ロシアに占領されていた地域である。ロシアは開戦当初全面攻撃に出ていたが、これは陽動作戦だった。ウクライナ軍を分散させ、ドンバス防衛を弱体化する作戦であったともいわれている。

もし本格的にこの地域を占領されると、首都防衛は困難となる。だから、逆に防衛的攻撃に出たのだというのである。

一方で、クルスク攻撃は成功したのかどうかという問題が残る。東部戦線では兵力が不足している状況で、この地域に大きな兵力を回せるのかどうか。

また、一気に1000平方キロメートルの広大なロシア地域を占領したものの、それを維持する能力があるのかどうか。そのために武器などの支援物資を運ぶ兵站は維持されているのかどうかといった問題などが、残る。

かつて日本軍がやったように、ひたすら兵士の死を無駄にする万歳作戦のような結果にならないのか。一時的な勝利によって、全体の戦略が見失われるのではないか。

一時的な勝利に酔ってはならない

いずれにしろ問題は、この戦争の落ち着きどころである。戦争を拡大すること自体が目的で、原子力やガス・パイプラインが交渉の隠し球だとすると、世界にとってそれは恐怖だ。

たとえそうでなくとも戦争を拡大することは、世界戦争を惹起し、ロシア側の攻撃の激化を進めるだけである。

私はこの戦争が勃発した頃から、これは中ロ対西欧という構造になるべき問題ではなく、スラブ人の問題であると述べてきた。それは今でも変わらない。

世界の両極が対立する中で、一触即発の危険は増している。それだからこそ、この戦争を世界戦争への引き金にしてはならないのだ。

(的場 昭弘 : 神奈川大学 名誉教授)