華やぐ二条院、喪失感消えぬ左大臣家のそれから
(写真:terkey/PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 2 』から第9帖「葵(あおい)」を全10回でお送りする。
22歳になった光源氏。10年連れ添いながらなかなか打ち解けることのなかった正妻・葵の上の懐妊をきっかけに、彼女への愛情を深め始める。一方、源氏と疎遠になりつつある愛人・六条御息所は、自身の尊厳を深く傷つけられ……。
「葵」を最初から読む:光源氏の浮気心に翻弄される女、それぞれの転機
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ほかの女君たちには申し訳ないと思うものの
女房たちは事情を知らなかったが、翌朝、光君がこの箱を下げさせたので、そばに仕える者だけは思い当たることがあった。いつのまに調達したのか、餅を盛る皿もほかの道具類もうつくしい華足(けそく)の小机に載せられ、餅もみごとに作ってあった。少納言は、姫君がこんなふうに正式に扱ってもらえると思っていなかったので、身に染みてありがたく、光君のこまやかな心配りに、まず泣かずにはいられなかった。
「それにしても内々で私たちにお命じくださればいいものを。用意したあの人もどう思ったことかしら」と女房たちもささやき合っている。
それから後は、宮中や桐壺院の御所にほんのしばらく参上しているあいだでも、そわそわと落ち着かず、女君の面影が目の前にちらついて恋しく思う。そんな心を我ながら君は不思議に思う。それまで通っていた女君たちからは恨みがましい手紙が届くので申し訳ないとは思うものの、新婚の女君を一夜たりとも置き去りにするのは心苦しくてならない。出かけるのも億劫になって、気分がすぐれないということにして、「妻を亡くしたばかりでこの世がひどく厭わしく思えるのです。この時期が過ぎましたらお目にかかりましょう」と返事を書いて、日を過ごす。
弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)は、今は御匣殿(みくしげどの)の別当(べっとう)となっている、妹の六(ろく)の君(きみ)(朧月夜(おぼろづきよ))が光君にまだ思いを寄せていて、それを知る父の右大臣が「なるほど、あんなにたいせつになさっていた奥さまも亡くなられたのだから、六の君が正式に妻として迎えられれば不足ないではないか」と言うのを、じつに腹立たしく思っていた。
「女御ではない、女官としての宮仕えでも、地位が上がっていけば、不足ないどころか立派なものですよ」と、妹を入内(じゅだい)させようと躍起になっている。
そんな噂(うわさ)を聞いた光君も、六の君には並々ならぬ愛情を抱いていたので残念に思うけれど、今は不思議なくらいほかの女君に興味が持てないのである。まあ、これでいいじゃないか、短い人生なのだから、この紫の女君を妻と決めて腰を据えよう、人の恨みを受けるのもまっぴらだ、と懲り懲りしてもいるのだった。
「葵」の登場人物系図(△は故人)
手厚い気遣いも女君にはうれしくない
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)には気の毒ではあるが、彼女を正式に妻として頼りにするとなれば、かならずしっくりいかなくなるだろう、これまでのような関係でも大目に見てくれるのならば、しかるべき時に文を交わす相手としてはふさわしい人には違いない……と光君は思う。まるきり見捨ててしまう気持ちはないのである。
この二条院の女君を、今まで世間の人がどこのだれとも知らずにいるのも軽々しい扱いであるから、この際父宮である兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)にも知らせようと光君は決め、紫の女君のために成女式として御裳着(おんもぎ)の用意を、あまり表沙汰にはしないけれども格別豪華にするよう下の者に命じている。この手厚い気遣いも女君にはまったくうれしくない。今までずっと光君を疑いなく信じて、ずっとそばにいた自分にあきれ果て、後悔しているのである。まともに目を合わせることもなく、光君が冗談を言っても、ただ苦しくつらいばかりでふさぎこんでしまい、今までとはすっかり変わってしまった。そんな女君の様子を、光君はいじらしくもいとおしくも思うのだった。
「今までずっとたいせつに思ってきたのに、あなたはもう私のことを思ってはくれないなんて、悲しいな」などと恨み言を言ってみたりする。
そうしているうち年が明けた。元旦は、いつも通りまず院に参上し、それから帝、東宮にも参上する。退出すると、光君は左大臣家に向かう。左大臣は、新年などどうでもいいように亡き娘の思い出を語っては、喪失感でいっぱいになっていたところに、光君があらわれたものだから、いよいよ悲しみをこらえることが難しくなる。左大臣家の人々の目には、新年を迎えひとつ年を重ねたせいか、光君は堂々たる風格も備わり、今までよりもさらにまばゆく見える。光君は挨拶がすむと夫婦の寝室だった部屋に入った。久しぶりの光君の姿に、女房たちも涙をこらえることができない。
若君を見ると、すっかり大きくなって、にこにこと笑っているのが不憫(ふびん)である。目元、口元が、東宮にそっくりで、人が見て不審に思わないかと光君は不安になる。部屋の中は以前と変わらず、衣桁(いこう)に掛けられた光君の装束も、以前と同じく新調してあるのに、その隣に女君の装束がないのが、いかにもさみしい光景である。
昔が思い出されて
女房が母宮の挨拶を伝えにくる。
「今日は元日ですので、泣かないようにずいぶん我慢しているのですが、こんなふうにお訪ねくださいまして、かえって涙があふれてしまいます」とあり、「以前と同じように調えましたお召し物も、涙で目もよく見えず、色の見立ても不出来だと思いますけれど、せめて今日だけはどうかお召しくださいませ」と、たいそう入念に仕立て上げられた装束を、もう一揃(ひとそろ)い贈った。かならず今日着てもらおうと思っていたらしい下襲(したがさね)は、色合いも織り具合も見たことがないほどすばらしい。せっかくの気持ちをどうして無視できようかと、光君はそれらに着替える。もし今日ここに来なかったら、母宮はどれほど気落ちしただろうと思うと胸が痛んだ。
「あまた年今日(けふ)あらためし色ごろもきては涙ぞふるここちする
(今まで何年も元日に、こちらで着替えていたうつくしい色の晴れ着を、今年もここにやってきて着てみますと、昔が思い出されて涙がとまりません)
とても気持ちを静めることができません」
と返事をした。それにたいし、
新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり
(あたらしい年だというのに降りそそぐものは、年老いた親の涙でございます)
と返歌があった。
みな、並大抵の悲しみではなかったのです。
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
(角田 光代 : 小説家)