夏休み「学童に行きたくない」子に親ができること
長い夏休みが始まります(撮影:今井康一)
「なんで夏休みなのに僕だけ学童に行かないといけないの?」
子どもからそんなふうに言われてつらい気持ちになった経験のある保護者も多いのではないでしょうか。
子どものことがかわいそうだなと思いながらもやむをえないからそうなっているわけで、だからこそ適切な言葉が見つからずにあいまいな返事をしてしまい、モヤモヤとした気持ちを抱えてしまう。
「仕事だからしかたがないんだよ」と言ってみたものの、そんなことで子どもが納得するわけがないし、「しかたがない」という大人の事情で子どもをねじ伏せたような気持ちにもなって、自己嫌悪に陥ってしまう。
または、子どもにとってはせっかくの夏休みなのに、学童の中での関わりが増えるだけで、いろんな人やいろんな世界との出会いを提供できない。そんな自分にふがいなさを感じてしまう……。
こんなふうに、消化不良の気持ちをグルグルと巡らせたまま、夏休みを迎えた方もいらっしゃるかもしれません。
でも、そもそも夏休みの学童問題の原因は、子どもや親にあるわけではなく、学童施設にあるわけでもありません。現代の労働のあり方に課題があるからそうなっているわけで、つまり、これは個別の問題というよりは、政治の話です。だから、一個人が子育てをしながらそんな大きなこととたたかうのはなかなか難しい。
とはいえ、「なんで?」と尋ねる子どもに「政治が悪いから」なんて言っても納得しないわけで、結局のところはいまの自分の現実とどう折り合いをつけるかという話にならざるをえません。
一言で学童といっても、そのあり方と内容はあまりに多様です。ですから、たとえば夏休みだけでも食事の提供をしてほしいとか、もっと外で遊ぶプランを充実させてほしい、もっと預けられる時間を延長してほしいなど、学童に具体的な要望がある方も多くいらっしゃるでしょうし、他方では、学童には感謝しかないという方もいらっしゃるかもしれません。
そんな中で、今回考えてみたいのは、そんな疑問を抱きながら学童に通う子どもと親の関係です。「なんで?」と率直な気持ちをぶつけてくる子どもに対して家庭でできることを考えてみたいと思うのです。
やらないように気をつけたほうがいいこと
しかしながら、家庭で「できること」なんてお題目を立てるから、かえって「できないこと」が際立って、行き詰まりのどん詰まりになるというのはすごくありがちなことです。だから、まずは「できること」とか「やるべきこと」といったアプローチではなく、逆に家庭で「やらないように気をつけたほうがいいこと」について話してみたいと思います。
子どもに対して気をつけたいのは、まず、「夏休みも学童に通わざるをえない」という現状について、自分が悪くないことに関しては謝らないこと、そして子どもに対して罪滅ぼしをしないことです。
先日、NHKの朝ドラ「虎に翼」を見ていたら、主人公の寅子が一人娘の優未に「ダメな母親でごめんね」と頭を下げ、そのうえで「生まれ変わるから」と畳みかけるシーンがありました。
朝ドラを見ていない方へ簡単に説明すると、寅子は日本初の女性判事で、業務はきわめて多忙であり、しかも彼女は夫と死別していて、参考にできるモデルとなる先輩の女性もいませんでした。
そんな状況の中で、娘の優未はきっと日ごろから母親に十分に構ってもらえていないことに、さびしい気持ちを抱えていたでしょう。でも同時に優未は、寅子がいかに大変な仕事をしており、それが致し方ないことであることも、ある程度理解していたはずです。
つまり、優未は優未なりに現状を受け止めて納得しながら現実の生活を営んでいたわけです。それなのに、急に寅子の心変わりでこれまでの子育てを一方的に謝罪されたら、どんな気持ちになるでしょうか。それは、親との生活を自分なりに受け止めてきた優未の現実を踏みにじり、否定することにつながりかねないのではないでしょうか。
親が「育て方を謝罪」することの罪深さ
親が子どもに生活の現状を詫びることは、現状に「問題がある」という事実を固定化します。つまり、親が詫びることによって、子どもは「親には問題があり、それは改善の見込みがある(のに改善していない)」と考えるようになります。
だから、(想像すればすぐにわかりますが)これはおのずと子どもの「わがまま」につながるでしょう。子どもはいまや「かなえられるべき状況がかなえられていない」と考えるようになったのですから。
一方で、子どもが優未のような「いい子」の場合には、親の謝罪が子どもの現実全体を揺さぶり否認することにつながることだってありえます。なぜなら、どんな状況でもなんとか納得しながら「いい子」であり続けたのに、謝られることでその納得していたはずの現実をひっくり返されてしまったからです。
人は演技で生き延びるところがあるのに、「いい子」という必死の演技が水の泡になってしまっては、その子は何を頼って生きていったらいいんでしょう。揚げ句の果てに、現状が否認されたということは、きっと私自体に問題があるからだろう……。子どもがそんなふうに考えるようになったとしても、何の不思議もありません。
母である寅子に必要なことは、子どもに詫びを入れることではなくて、自身があまりに多忙であり、子育てについてこれ以上の努力なんて無理だったということを自分自身に認めることでした。
その前提のもとで子どもとの関係を再構築する必要があったのですが、寅子がこんなふうに自罰的なふるまいをしてしまったのは、彼女が何事にも真剣な人であり、同時に彼女の状況に対する周囲の理解も十分ではなかったからでしょう。そう考えると、これは誰にも非はなく、単にしかたがなかったと言わざるをえないのです。
こんなふうに人間の生活というのは「そうなっている」としか言えないようなしかたなさの周りで回り続けています。それなのに、子育てというのは子どもにとって人生でたった一回きりのこと。だから失敗は許されないと思い詰める気持ちも理解できます。そういう差し迫った気持ちを抱えながらも、同時に自分の人間らしさをちゃんと手当てしながら生活していくのが子育てにおいて必要なバランス感覚です。
子どもが一番うれしいこと
私はさきほど「子どもに対して罪滅ぼしをしないこと」と話しましたが、これについてはここまで読まれた方にはもうおわかりかと思います。日ごろ子どもに「ごめんね」という気持ちを抱えている方がいるとすれば、その気持ちはマジメさや優しさからきたものですから大切にしてあげてください。
でも、だからといってたまに時間が空いたときに罪滅ぼしで子どもに何かを買ってあげるとか、どこかに連れていってあげるとか、そういうのは子どもが気づいちゃうからよくない。これは、何かを買ってあげるとか、どこかに連れていってあげること自体がダメという話ではないですよ。そうではなく、それが「罪滅ぼし」という動機に覆われてしまっていては、かえって子どもに負担をかけることになりかねないのです。
子どもが一番うれしいのは、親自身も巻き込まれていっしょにおもしろく遊んでくれること。とは言っても、いつでもそうでなくていいのです。でも頭の隅にそのことがあるだけで、子どもとの関わり方は変わります。
子どもの「なんで僕だけ?」に応えるために、具体的には、たまに平日に休みをとって子どもにとってのスペシャルタイムを演出すること、または、仕事を少し早めに上がって早めに迎えに行って、今日の学童短かったなと子どもが感じられるような日を作ることなどが考えられます。
肝心なのは、疑問や不満に対して親が何らかの応答をしてくれていると子どもが実感することで、そうすれば、家族としての前提を子どもと共有することがある程度可能になるはずです。
そのような土台の下で、「あなたのことが心配だから学童に行ってほしい」「私たちは家族というチームで動いていて、そのためにはあなたの協力が必要なの」ということを率直に伝えてみることを試していただければと思います。
できるだけ平常運転で
「仕事も大切だけど、子どもとの時間も大切だよね」そんなことを訳知り顔で言ってくる人は、問題をあなたのせいにしようとする人だから気にしないでください。
子どもは親の想像を超えて、勝手に成長していきます。だから、夏休みに期待しすぎずにできるだけ平常運転でいけたらいいですね。
学童の弁当が毎日必要な方は特に大変な日々かと思いますが、これを切実な気持ちで読んでいる皆さんが、子どもとの大変な夏休みをどうか少しでも楽に乗り切れますように。
【データで見る】学童のいま
(鳥羽 和久 : 教育者、作家)