『万葉と沙羅』(中江 有里)

 本には不思議なはたらきがある。そう思いながら、この本を読み直していた。この作品が刊行されたとき、ある新聞に書評を書いたのだが、当時とはまったく異なる印象を抱いた。よき作品は、時に流されるのではなく、成熟する。この小説もそうした一冊であることがこの歳月のなかで証しされたように感じた。

 よき本は、読む人を何かに出会わせる。何かとは、愛する人であり、よき友であり、時代であり、言葉であり、また自分自身でもあるだろう。そしてよき本は、出会うものとのあいだにふさわしい「あわい」を生む。

 書名は、主人公たちの名前から取られている。万葉と沙羅は小学校に入る前からの知り合いで、物語は彼、万葉が大学生になり、世の中に出て行こうとするところまでが描かれている。

 二人の関係は、ある本との邂逅によって変化し、進化し、また深化もする。言葉に向きあう態度が、二人の関係の密度に強く影響する。

 ある読者は、この小説を読みながら、自分の大切な人とのあいだをつないだ本を想い出すかもしれない。自分が発する言葉では、つむぐことのできない関係の深さを他者の言葉が実現することに静かに驚く者もいるかもしれない。私は、この小説を読みながら、自分が大切に思った人に手紙のように贈った本も、本作に幾度も名前が出てきた遠藤周作の小説だったことを感じ直していた。

 人と人の関係は、その当人たちが感じているよりも深いものである。「沙羅は万葉と同じ小学校へ行くと思っていたのに、ある日、万葉の姿は消えた」と記されたあと、次のような記述が続く。

「万葉くんはお父さんの転勤で引っ越してしまったの」

 あとからお母さんに聞かされた。それ以来どうしているのか、わからないままだった。

 万葉は、沙羅が友だちという言葉を知る前からの友だちだった。誰よりも近しい、兄妹みたいだった。

「友だちという言葉を知る前からの友だち」という一節にふれたとき、この秘密をかいま見たように思った。もしもこんな人物に出会うことができたら人は、友情だけでなく、信頼や運命の意味の深みもまた、その言葉との遭遇以前に認識するようになるだろう。

 万葉は本を愛する人だった。沙羅も再会した万葉との日々のなかで本との関係を深めていくのだが、彼女は、傍らに本がなくても世界の深みにふれるのにあまり不自由を感じない、そんな人だった。万葉にとっては、言葉が存在の深みへの扉だった。沙羅には人との邂逅が同じ役割を担っていた。万葉という人間が人生への窓になっていくのである。

 沙羅は、誰かが言ったことを鵜呑みにして、世界を分かったような気分には、けっしてならない。どんなことも自分の心に問い質しながら生きている。万葉との会話においても、沙羅の生きる姿勢が率直に物語られている。

「『好き』の種類っていくつあるんだろうね」

「さあ」

 佑月から「万葉が好きなのか」と訊かれた時、驚くほど自分の中に反発する気持ちがあった。佑月の意味する「好き」に自分の気持ちを収めたくなかった。

「こないだ青春はなぜ青いのかって訊いてたけどさ、一口に青っていうけど、いろんな青がある。それと同じだよ」

「……言葉って狭いね」

「狭い?」

「青って単語ひとつだと、それぞれの人がそれぞれの青を思い浮かべちゃうじゃん」

 言葉を狭いと感じる人は、意味の世界の広さと深みを知る人である。沙羅にとって語るとは、語り得ないことにふれることだった。語り得ないことの重みを確かめることだった。

 それは、彼女が本を読むときの理でもあった。読むとは言葉をなぞることではなく、言葉の奥に潜む意味を感じ取ることだった。

 あるところで沙羅は「意味」をめぐってこんな言葉を口にする。

「――(略)――当たり前だけどね。同じ言葉でも人によって意味とか重さとか、やっぱり違うんだよね」

 文字情報に重みはない。それは意味だけになる。情報化された言葉は花瓶のなかの花のように存在している。華美に見せることもでき、配列を変えることもできる。だが、けっして大地に根差すことがない。

 沙羅はそうしたものを信頼しない。言葉に対するときだけでなく、相手が人間のときも、彼女は自身の内なる法則に忠実であろうとする。万葉を信頼している根拠は、彼が自分の思いを深く理解してくれているという実感よりも、深い場所に根差そうとしている彼の生きる姿勢にある。あるとき、万葉は沙羅にこんなことをいう。

「本と木という字は似ているだろ。本がたくさんある場所はさしずめ森だ。森には森にふさわしい歩き方がある。森で木を探すのは宝探しみたいなものだ。本という宝を探すにはコツがいる」

 人は探しているものを見出す、といった人がいる。この人物はそういったあと、こう続けた。虚しいものを探していた者が虚しいものを見出したとして何の不都合があろうか。この人物は皮肉を語っているのではない。生きる現場を貫く厳粛な問いの本性をそのまま言葉にしているだけだ。

 ここでいう「宝」とは何か。それは珍しいものではなく、かけがえのないものの異名だろう。ある人にとってそれは有益な情報かもしれないが、万葉が探しているものはまったく質を異にするものである。彼が一冊の本に探そうとする「宝」もまた、語り尽くせない何ものかだった。自分にとっての読書という経験をめぐって、万葉は沙羅に次のように語っている。

「食べ物の味を表わす言葉は、まろやか、こくがある、滋味深い……数え切れないほどあるけど、その食べ物が美味しければ美味しいほど一言では収まりきれない。読書だって同じで、言葉をかき集めてその面白さを表わそうとするけど、言葉が、自分の語彙が足りないって感じるんだよ。結局読み終わっても、ずっとその本のことを考えている」

「そっか……読み終わっても、読書はずっと続いてるんだね」

 この言葉を聞いたとき、沙羅の胸に湧き上がった心情を想像してみる。彼女は万葉が、自分と同質の認識を抱いてくれていることを鋭敏に感じ取っていたはずである。

「読み終わっても、読書はずっと続いて」いるように、万葉と沙羅のあいだにも互いのことをおもう時がある。多くの小説は、ここに恋という心情を当てはめる。

 この小説の大きな魅力は、恋とは別種のおもいによって人は、他者とつながり、そこに生きる意味の片鱗をかいま見ることができることを描き切っているところにある。恋愛も一つの愛のかたちには違いないが、それはしばしば燃え尽きる。沙羅と万葉のあいだにも愛がある。しかし二人はまだ、それに明確な名称を与えることができないでいる。沙羅も万葉も、自分たちが経験しているのが「好き」とは次元を異にする人生の地平であることだけは、心の奥でしっかりと感じ取っている。それでよいのである。愛とは、語る対象である以前に、生きてみるほかない一つの道のようなものだからである。

 愛の道を見出すのは簡単ではない。しかし、文学に秘められた幾つかの言葉は、その暗がりの道を照らす光になり得ることを、この小説は教えてくれている。