日本人が大好きな「県民性ネタ」にもヒントがあった…「地域あるある」からも見えてくる「人類学の本質」

写真拡大 (全2枚)

「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。

※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

「アポロ型」と「ディオニソス型」

アメリカで生まれた文化人類学を知るうえで欠かせないのが、ルース・ベネディクトです。1887年にニューヨークで生まれた彼女は1909年にヴァッサー大学を卒業し、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチで人類学に出合います。1921年からコロンビア大学の大学院に入学してボアズに師事し、1923年に『北米における守護霊の観念』という論文で博士号を取得しています。

彼女は1934年に『文化の型』を出版し、1936年にコロンビア大学の助教授に就任します。そして1946年には『菊と刀』を刊行し、2年後の1948年にコロンビア大学教授に任じられましたが、その2ヵ月後にニューヨークで急死しました。

ベネディクトの主著『文化の型』の内容を押さえておきましょう。彼女は『文化の型』で、文化人類学の目的は様々な文化を成り立たせているパターン(型)の探究だと述べています。この本の中で、ベネディクトは3つの文化を比較検討しています。自らがフィールドワークを行ったニューメキシコのズニ(プエブロ)文化、ボアズがフィールドワークを実施したバンクーバー島のクワキウトル文化、イギリスの人類学者レオ・フォーチューンが実地調査をしたメラネシアのドブ島民の文化です。

ズニは儀式ばった人たちで、人を傷つけないことを尊び、太陽や死者を礼賛します。儀礼の手順はとても大切で、間違いがあると目指す結果が得られないとされます。彼女は、平和的で競争心がなく、調和を重視するズニの文化を、ニーチェのギリシア悲劇の二類型の分類に従って「アポロ型」文化と呼んでいます。これは、アポロがギリシア神話において理性の象徴とされていることにちなんでいます。

同じアメリカ先住民でも、荒々しく闘争的なクワキウトルは陶酔を象徴する神ディオニソスの名に由来する「ディオニソス型」だと言います。儀礼の踊り手は深い恍惚に陥り、口から泡を吹き、激しく痙攣します。かつて食人の習慣があって、奴隷の死体を食べる間、聖なる歌を歌い踊ったとされます。

ドブ島では誰もが不貞を働いており、見つかったら、激しい口論が起き、食器が壊されたり、自殺が試みられたり、妖術が仕掛けられたりします。彼らは絶え間ない疑心暗鬼の中で暮らしているのですが、彼らにとってはそれがふつうのことなのです。

「県民性ネタ」でイメージしてみる

穏やかで何事に関しても中庸を保ちたがる「アポロ型」のズニ、自己中心的で人に軽んじられることに敏感な「ディオニソス型」のクワキウトル、疑い深くつねに何かを恐れていて、「パラノイド(偏執症)」なドブ島民。そうしたパターン(型)の中に、ベネディクトはそれぞれの文化を描き出したのです。ベネディクトにとって文化は、その文化の中で生きる人たちのパーソナリティーに見いだすことができるものだったのです。

ここでいう文化のパターンやパーソナリティーとは何を指しているのでしょうか。これは「県民性」についての議論を思い浮かべると、イメージしやすいかもしれません。

たとえば青森や岩手県民は引っ込み思案で内向的、大阪府民は商売好きで活動的、鹿児島県民は情熱的で外交的など、「県民性」は日常会話の中でもよく引き合いに出されます。実際、こういったイメージを先行させて、ある県や地域のことを捉える人たちは読者の周囲にもいるのではないでしょうか。

もちろん、この手の話のネタは科学的根拠などまったくありません。当たり前の話ですが、人間はそれぞれ千差万別なので、「県民性」という一言で特定の地域に住む人々を特徴づけることなどできません。実際、このように文化をパターンとして捉えるベネディクトに対しては、デフォルメされているとか、主張に合致しないデータが捨象されているといった批判が出されました。「県民性」同様、「アメリカ人」という同じ括りにいるからといって、全員が同じ性格ではないはずです。また、この論法はなぜそれぞれの民族や集団が特定の型の文化を持つのか、その因果関係を説明しきれないという弱点もあります。

たしかに、特定の共同体にいる人々を特定の型にはめこむベネディクトの主張には危うさもあります。しかし、学説としては完璧ではないにしても、彼女の主張には当時の社会が見落としていた重要なポイントがありました。それが、それぞれの文化には固有のパターンがあり、そこに優劣はないとする点です。彼女の説には、それまでの人類学にはない新規性がありました。その意味で、ベネディクトの主張は文化相対主義の極致をなすものと言うことができるでしょう。

さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。

日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」