コペルニクスが科学研究を進めるうえで頼りにした数学的手法は、アラブやペルシアの文書から拝借したものでした(写真:Perszing1982/PIXTA)

コペルニクスやガリレイ、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった科学者の名前は、誰もが知っている。そして近代科学は16世紀から18世紀までにヨーロッパで誕生し、19世紀の進化論や20世紀の宇宙物理学も、ヨーロッパだけで築かれたとされている。
しかし、科学技術史が専門のウォーリック大学准教授、ジェイムズ・ポスケット氏によれば、このストーリーは「でっち上げ」であり、近代科学の発展にはアメリカやアジア、アフリカなど、世界中の人々が著しい貢献を果たしたという。
今回、日本語版が12月に刊行された『科学文明の起源』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

コペルニクスの地動説


近代科学はどこから生まれたのか? ごく最近までほとんどの歴史家は、もっぱら次のようなストーリーを語っていた。近代科学は1500年から1700年までにヨーロッパで編み出されたと。

そのストーリーはたいていポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスから始まる。著作『天球の回転について』(1543)の中でコペルニクスは、地球が太陽のまわりを公転していると唱えた。革命的な学説だった。

古代ギリシア時代から天文学者は、地球が宇宙の中心であると信じていた。しかし16世紀にヨーロッパの科学思想家たちが、その古代の学説に初めて異議を唱えはじめた。

コペルニクスに続いて、「科学革命」と呼ばれる運動の先駆者たちが何人も活躍した。イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイは1610年に木星の衛星を初めて観測し、イギリスの数学者アイザック・ニュートンは1687年に運動の法則を導き出した。

ほとんどの歴史家は、このパターンがそれから400年間続いてきたと論じるのが常だ。従来、近代科学の歴史はほぼ何人かの人物に絞り込まれてつづられてきた。19世紀イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが自然選択による進化の理論を展開し、20世紀ドイツの物理学者アルベルト・アインシュタインが特殊相対論を提唱したと。

19世紀の進化論から20世紀の宇宙物理学まで、近代科学はヨーロッパだけで築かれたとされている。

近代科学はグローバルな交流から生まれた

しかしこのストーリーはでっち上げである。本書では近代科学の起源について、それとはまったく違うストーリーをつづっていきたい。科学はヨーロッパ文化固有の産物ではなかった。つねに近代科学は、世界中のさまざまな文化の人々や考え方が一緒になることで発展してきた。

コペルニクスもその好例だ。彼が筆を執った頃のヨーロッパは、シルクロードを行き交う隊商やインド洋を渡るガリオン船によってアジアと新たな関係を築きつつあった。コペルニクスが科学研究を進めるうえで頼りにした数学的手法は、アラブやペルシアの文書から拝借したもので、その文書の多くはヨーロッパに持ち込まれたばかりのものだった。

同様の科学的交流はアジアやアフリカの至るところで起こっていた。同じ時期、オスマン帝国の天文学者たちが地中海を渡り、自分たちの持っていたイスラム科学の知識と、キリスト教やユダヤ教の思索家から拝借した新たな考え方とを組み合わせた。

西アフリカでは、ティンブクトゥやカノの宮廷で数学者たちが、サハラ砂漠を越えて持ち込まれたアラブの手稿を学んだ。東方では北京の天文学者が、中国の古典と合わせてラテン語の科学の文書も読んだ。

そしてインドではある裕福な大王が、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒、キリスト教徒の数学者を雇って、それまででもっとも精確な天文表を編纂させた。

これらの事実を踏まえれば、近代科学の歴史をまったく違った形で理解できる。本書で言いたいのは、近代科学の歴史はグローバルな歴史における数々の重要な瞬間に当てはめて考える必要があるということだ。

15世紀の南北アメリカの植民地化から話を始め、現代へとたどっていく。その途中で、16世紀の新たな天文学から21世紀の遺伝学まで、科学史における大きな発展について探っていく。いずれの出来事についても、近代科学の発展はグローバルな文化交流に負っていたことを示したい。

今の世界に求められる歴史観

しかし強調しておくべきは、それがグローバリゼーションの勝利という単純な話ではないことだ。

そもそも文化交流といってもさまざまな形があり、その多くは非常に搾取的である。近世の大半を通して、科学は奴隷制と帝国の拡大によって方向づけられていた。そして19世紀になると産業資本主義の発展によって一変した。

さらに20世紀の科学史は冷戦と脱植民地化に当てはめて説明するのがもっともふさわしい。しかしこのように大きな力の不均衡がありながらも、近代科学の発展には世界中の人々が著しい貢献を果たした。

どの時代に目を向けようとも、ヨーロッパだけに焦点を絞ったストーリーとして科学の歴史を語ることはできないのだ。

今日、そのような歴史観がかつてなく求められている。科学の世界のバランスは大きく変わりつつある。中国は科学研究予算の点ではすでにアメリカを追い抜いているし、ここ数年、中国を拠点とする研究者の書いた科学論文の数は世界中のどの国よりも多くなっている。

アラブ首長国連邦(UAE)は2020年夏に火星無人探査機を打ち上げたし、ケニアやガーナのコンピュータ科学者が人工知能の開発に果たす役割は日に日に増している。

一方でヨーロッパの科学者はブレグジットの悪影響に見舞われているし、ロシアやアメリカの国家安全保障機関はサイバー戦争に明け暮れている。

科学自体も論争に苦しめられている。2018年11月に中国の生物学者、賀建奎(がけんけい)が、ヒトの赤ん坊2人の遺伝子編集に成功したと発表して世界中に衝撃を与えた。

多くの科学者は、そのようなリスクの高い処置をヒトに対しておこなうべきではないと考えていた。しかし世界中が思い知らされたように、国際的な科学倫理規範を守らせるのはきわめて難しい。

中国政府は公式には賀建奎の研究から距離を取って、彼を懲役3年に処した。しかし早くも2021年にはロシアの研究者が、異論の多いその研究を再現しようとしている。

科学が直面している著しい不平等

倫理をめぐる問題に加え、今日の科学はかつてと同じく著しい不平等にさいなまれている。

少数民族出身の科学者がトップの地位を占める割合は人口比に対して低いし、ユダヤ人の科学者や学生はいまだに差別されているし、ヨーロッパやアメリカ合衆国以外で働く研究者は国際学会出席のためのビザの申請を却下されることも多い。

このような問題の解決に取り組むには、新たな科学史、我々の暮らすこの世界をより正確に反映した科学史が必要だ。

(翻訳:水谷淳)

(ジェイムズ・ポスケット : ウォーリック大学准教授)