「古文の勉強に意味は無い」と思っていませんか?(写真:photochic/PIXTA)

学生時代に勉強した古文。もう使うことはないだろう……、そんなふうに思っている人も多いのではないでしょうか。実は、大人になってから必要になる要素がたくさんあるのです。全国屈指の名門校である西大和学園の現役国語教師、辻孝宗氏の新著『一度読んだら絶対に忘れない国語の教科書』を一部抜粋・再構成し、古文を勉強することで身に付く国語力を解説します。

古文の勉強は意味がない?

「一生使わない古文なんて勉強するくらいなら、プログラミングや投資などの、社会人になってから役に立つ知識を勉強した方が良いのでは?」という「学校教育における古文不要論」を、最近よく耳にするようになってきました。

学校で古文を教えている国語教師としてはとても悲しい言説ですね。これは、古文を勉強する意味を全国の国語の先生がきちんと伝えられていない「国語教師の怠慢」が原因であり、国語教師としては受け入れなければならない世の中の本音なのだろうと思います。

さて、今回は「古文不要論」に対する一つの反論として、「現代の文章や言葉を理解するために、古文を勉強する必要がある」ということをお話ししたいと思います。

古文が不要であるという考え方の根本にあるのは、「古文を勉強する意味は、昔使われていた言葉や昔書かれた文章を読解できるようになるためだ」という前提だと思います。

たしかに、昔使われていた言葉を理解するためだけに古文を勉強しているのであれば、古文は優先順位の低い、不要なものであると言ってもいいでしょう。

しかし、この前提は間違っています。古文を勉強するのは、昔の文章を勉強することで、現代の文章を読んだり、日常会話で不便しないようにするためにやっているものです。

昔日本人が使っていた言葉や文章を勉強することで、今日本で使われている言葉や、文法や、文章全体が、より深く理解できるものだから、古文は勉強する意味があるのです。

例えば、一つクイズを出しましょう。

現代において、物事が終わる時に「けりをつける」という言葉を使うことってありますよね。「Aさんとの関係にけりをつけてきた」みたいな感じで使いますね。

では、この「けり」って一体どういう意味なのか、みなさんは知っていますか?

これは実は、キックという意味の「蹴り」ではないんです。古文を勉強したことがある人なら、助動詞で「けり」という言葉があるのは知っているはず。古文の勉強でもよく、文章の中には、「〜にけり」のように、言葉の終わりに「けり」をつけることで「文の終わり」を示しているものがあったはずです。

実は、今でもその名残で「けり」=「終わり」という意味で使われていて、「けり」をつけるというのは「文章の終わりをつける」という意味になるのです。

だからこそ、「けりをつける」というのは今でも「決着をつける」「結論を出す」という意味の表現として使われているのです。これを知っていれば、「けりをつける」という言葉を間違って使うことはなくなりますし、この言葉をより深く理解できるでしょう。

このように、古文を勉強すれば、現代の言葉を知ることにも繋がるのです。

あなたは小学生ですか、と聞かれたらどう解釈?

また、たとえばみなさんは、「あなたは小学生ですか」と言われたら、どのように解釈しますか?

まず考えられる解釈としては「質問」があると思います。12歳くらいの親戚の子供に対して、「ねえねえ、君は小学生かな? 中学生かな?」ということを聞いている場面で、「あなたは小学生ですか」と聞くと思います。

もう一つ、考えられる解釈があると思います。例えば会社で、ミスをした自分を上司が怒ってきています。「こんなミス、小学生でもなきゃしないだろう!」という意図で「あなたは小学生ですか」と言うことがあるでしょう。このような、答えがわかり切っているけれどあえて疑問のように聞くことで、強く相手にメッセージを伝える用法のことをなんというか、みなさんはわかりますか?

正解は、反語です。古文でも漢文でも、反語表現というのはよくあるものです。

整理すると、「あなたは小学生ですか」には2つの解釈があります。

A 相手に対して「小学生かどうか」を質問している、『疑問』の表現

B 相手に対して「あなたは小学生じゃないだろう。それなのに、小学生でもできることができないというのは良くないことではないか」と怒ってきている、『反語』の表現

この反語という表現をきちんと理解するためには、古文の勉強をしておいた方が頭に入りやすいです。

なぜなら、古文の世界では、反語を表す助詞が存在していて、「その言葉が使われていないと基本的には反語や疑問にならない」という原則があるからです。

「この『や』が使われている場合は、反語になる場合が多い」

「『かかるようやはある』と言ったら、『このようなことがあるだろうか、いやない』という反語表現になる」

ということを、古文では勉強します。そして、この反語の表現が、特定の言葉を使わなくても使えるようになっているのが、現代語なのです。先ほどの「あなたは小学生ですか」は、反語の表現ですが、古文のように「反語を表す助詞が存在しているから反語だとわかる」ということではありません。完全に文脈で判断しないといけないのです。

古文を疎かにするとどうなるのか

何が言いたいのかというと、現代語の方が、古文より難しいのです。昔はしっかりと助詞や助動詞を使って表現されていた言葉が、今はもうそれを使わなくても表現できるようになってしまっていて、昔より日本語が難しくなってしまっているのです。

ここで一つ、想像してみてください。もし、古文の勉強を一切しないで、現代の言葉だけを勉強していて、「質問の形になっている表現で、答えがわかり切っていることを聞いて、『〜だろうか? いやない』なんて訳す場合がある」と習ったとして、使いこなせるでしょうか? おそらくは、多くの人は使いこなせないと思います。(ちなみにこの「使いこなせるでしょうか?」も反語です)

これは言い過ぎかもしれませんが、古文の勉強を疎かにしていたことが原因で、反語表現を理解できていないまま大人になっている人って、多いのではないかと思います。

例えば人から「本当にそう思いますか?」と言われた時に、「はい、本当にそう思いますよ」なんて答える人っていますよね。

多くの場合、「本当にそう思いますか?」というのは反語で使われていて、「本当にそう思いますか? あなたは、本当には、そう思っているはずがないですよね?」という意図でつかわれています。

でも、この表現を反語だと気付かないで会話を続けてしまう人って多いように感じます。これは、私から言わせていただくと、反語の表現をしっかり古文漢文で勉強してこなかったから起こっている現象なのではないでしょうか。

古文は今を生きる私たちの糧にもなる

このように、古文の勉強を疎かにしてしまうと、現代語の解釈がうまくできなくなってしまうのです。「なんでこんなに助動詞とか助詞を覚えなければならないんだ!」と古文の勉強をしている時に感じた方も多いと思うのですが、それは、古文を読めるようになる以上に、現代語の解釈や、日常会話で不便しないようにするための勉強でもあるのです。

「古文が不要である」と考える人が多いのは、多くの教育現場で「古文を読むための古文」が横行してしまっているからだと感じます。

本来はこんなに、今を生きる私たちの糧になるのが古文なのに、それを誰も伝えられないまま古文を勉強している人があまりにも多い。これは本当に悲しいことだと思います。この記事が、みなさんが「古文」という科目を捉え直すきっかけになってもらえれば幸いです。


(辻 孝宗 : 西大和学園中学校・高等学校教諭)