1976年にノーベル経済学賞を受賞、15万ドルを受け取るミルトン・フリードマン。ほとんどの人は、彼が定義づけた「新自由主義」の本質を誤解している(写真:AP/アフロ)

昨今、新自由主義の評判が悪い。いわゆる左翼の人々が「新自由主義が悪い」と言い立てるのは昔からだったが、岸田文雄首相のような、おそらくは資本主義が何なのかをわかっていない人物まで、当然悪いもののように新自由主義を語る。

新自由主義者とのレッテルを貼られることは、今や、「人でなし」「拝金主義者」「悪魔」と呼ばれるくらいの「敵」認定だ。

「新自由主義」は正しく理解されているのか?


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しかし、新自由主義という言葉をネガティブな意味に使っている人々に、聞いてみたい問いが2つある。

1つ。あなたは、新自由主義を具体的にどのような主張だと理解しているのか。新自由主義の定義は何か?

もう1つ。あなたは、現在の日本が新自由主義の影響の下にあると考えているのか?

結論を先取りすると、新自由主義はそれほど悪いものではない。筆者自身が、私は新自由主義者だと名乗り出てもいいくらいのものだ。

喧嘩を売りたいのか? そうではない。正しい理解の下に仲良くしたいと思っている。

さて、「新自由主義」の定義はあるか。いったい、誰が新自由主義を定義しているのか。はっきりした定義などないのではないか、と言いたい向きがあるかもしれないが、文句なしの定義が見つかった。1951年にアメリカの経済学者、ミルトン・フリードマン(1912-2006)が、“Neo-Liberalism and its Prospects”というタイトルで、短い文章を書いている。

「フリードマンらの言う新自由主義がぁー、」と言われることの多い、あのミルトン・フリードマンが「Neo-Liberalism(新自由主義)」を自ら説明しているのだ。言わば本家の定義なのだから、文句はあるまい。

筆者がこの論文を発見したのは、元日銀副総裁の岩田規久男氏の「経済学の道しるべ」(夕日書房)という本に教えられたからだ。この本は、日銀の話の外にも、各種の俗論の切り捨てが小気味よいし、かつての大物経済学者のエピソードなどもあって、大いに楽しめる。とくに、経済学部出身のビジネスパーソンにお勧めしたい。

本家の「新自由主義」の定義とは?

同書によると、フリードマンがNeo-Liberalismと書いているのは、どうもこの論文だけのようだ。後の「資本主義と自由」や「選択の自由」などの著書にも、この言葉はないという。

「資本主義と自由」は、筆者が高校3年生の冬に読んで、経済学部に行くことを決める要因になった愛読書だが、確かに、新自由主義という言葉は出てこなかった。個人的に、この本には随分世話になった。以下、フリードマンに少し恩返しをしたい。

ちなみに、ミルトン・フリードマンの人間像は、一時シカゴ大学で研究した故・宇沢弘文氏の紹介によって実像以上に悪く伝わっているのではないかと思われる。

宇沢氏は世界的な評価を受けた優れた経済学者だったし、優れたお弟子さんを何人も持っている。その宇沢氏は、生前、シカゴ大の大物であるミルトン・フリードマンとゲーリー・ベッカーの2人について、人格攻撃のレベルで口汚く罵っていた。

筆者が宇沢氏の講義を聴いたのは1978年のことだったが、聞くに堪えない酷いものだった。「宇沢氏は、シカゴ大学でひどいいじめを受けたのだろうか」と推測したが、真偽の程はわからない。実際には、宇沢氏もフリードマンも、人物的にはいい面と悪い面を両方持っていて、極めて癖の強い学者だった。

さて、論文は前半に思想の変化と立法化のトレンドについて、盛衰やタイムラグについて語られていて、なかなか新自由主義の説明が出て来ないのだが、思想としては、「レッセ・フェール」という言葉に代表される自由主義の後に、「集産主義」(collectivism)の時代がある。その次が、自由主義なのだがレッセ・フェールの自由主義とは異なる「新自由主義」の時代になるべきだという、フリードマンの展望あるいは希望の下に書かれている。

思潮としての集産主義はピークを過ぎたが、立法化・制度化のレベルではまだまだ影響が続くだろうと、論文を書いた時点のフリードマンは考えている。

フリードマンが主張する政府の役割とは何か

さて、集産主義とは、かつての通産省(現・経済産業省)の行政指導や、全体主義国家の計画経済のように、政府が重点分野を決めてコントロールする経済運営のことだ。

フリードマンは、レッセ・フェール時代の自由主義と新自由主義の大きなちがいとして、前者が単に民間の政府からの自由を強調したのに対して、後者が独占など、プライベートセクター(民間部門)による競争制限行為に反対する点を強調している。

放っておくと民間の主体も競争制限的行為を行って害をなすので、こうした弊害から人々が守られるべきだと述べている。競争制限につながる企業合併などには反対なので、旧フェイスブック(現メタ・プラットフォームズ社)がインスタグラムを買ったような行為には反対だということだろう。

さて、フリードマンがこの論文で主張する政府の役割は、夜警国家的な法の執行や制度の維持以外に、以下の3つだ。原文も引用する。

(1)独占を排除した競争環境の維持
(2)安定した貨幣政策
(3)困窮者の救済

The state would police the system, establish conditions favorable to competition and prevent monopoly, provide a stable monetary framework, and relieve acute misery and distress.

The citizens would be protected against the state by the existence of a free private market; and against one another by the preservation of competition.These are broad powers and important responsibilities that the neo-liberal would give to the state.

実は「現実的」で優しい考え方をしているフリードマン

フリードマンが定義する新自由主義と聞くと、冷血な弱肉強食的拝金主義に満ちているのかと思うかもしれないが、意外に心温かな「いい人」の考えがそこにあって拍子抜けする。

とくに、困窮者の救済については、業界単位・職業単位ではなくあくまでも個人が単位であるべきで、困窮しているという事実だけで救済に値すると主張している。「民間の好意や慈善に任せるわけには行かない」とも述べていて、後の負の所得税構想(実質的にはベーシックインカムとほぼ同じ)につながる議論がすでにここにある。

税金は悪だという「リバタリアン」の考え方とは異なるし、失敗者(論文では「人生のくじで外れを引いた人」)を放置する極端な「能力主義」とも異なる、現実的で優しい考え方だ。

今の目で見ると、新規参入の自由はいいとして、独占をどの程度排除すべきなのか、国際競争やイノベーションの点で議論があるかもしれない。ビジネスの定石としては「完全競争はクソだ!」が合い言葉だ。また、アメリカ企業のハイテク分野席巻の背景には、実は集産主義的な政府のサポートがあったようにも思える。

過去30年くらいの日本は、「指示待ち集産主義」の民間経済に対して、司令塔が眠っていたような状況で、多大な時間が無駄になった。わが国は実質的にアメリカの属国なので、国民は政治に真剣な関心を持にくいのかもしれないが、政治家は無能でもいいとバカにしている間に、経済もすっかり三流になった。

また、理想はベーシックインカムだと筆者は考えるが、セーフティーネットの強調は新自由主義の良い特徴だと評価したい。フリードマンの議論はまったく古くない。

新自由主義を悪く言いたい人は、「どうせ、捨て扶持のような(少額でしょぼい)ベーシックインカムなのだろう」と言いたいかも知れないが、フリードマンはそのようなことを言っていない。後出しの決めつけは、やめたほうがいい。

さて、本家の定義を知らずに新自由主義批判をしている人々は、新自由主義を一体どのようなものだと考えているのだろうか。
 
ひとこと、感想を付け加えよう。このフリードマンの論文が書かれたのが1951年であることを思うと、経済政策の議論が何と進歩していないことかと驚く。正直なところ、がっかりする。

日本は新自由主義ではない

もう1つの問題は、今の日本は新自由主義の影響の下にあるのか、という現状認識の問題だ。

フリードマンの定義に照らすと、新規参入は多くの分野で不自由だし(例えばライドシェアが自由にできない)、ベーシックインカムは不在で補助金は多いし社会保障は非効率的だし、日本は新自由主義の影響下になどない。

また、別の機会に書いたので手短に説明するが、日本の経済は上下が分離した二層構造になっている。

経済力と権力に乏しい下半分の世界は、カール・マルクスが想定した条件よりも悪く(労働力の再生産コストを大幅に下回る条件だ)労働者をこき使う「ブラック資本主義」である。一方、恵まれた大企業の会社員以上の経済力を持つ上半分の世界は、新自由主義はおろか資本主義さえ十分に始まっておらずメンバーシップが固定的な「日本的縁故主義」の世界である。

正社員をクビにできない仕組みは、労働力が十分商品化していないのだから、資本主義ではない。縁故主義のメンバーシップは、「侍の子でなければ、侍にはなれない」というほどには固定的ではなく、例えば「陸の王者」を自称するくらいの大学に入ると末席に加わる可能性を持てる程度には流動的だが、教育を通じて階級の固定化が進行しつつあることはよく知られている通りだ。

最近は、「増税メガネ」というあだ名を気にしているらしいが、岸田文雄首相が、新自由主義の弊害を正すとの触れ込みで掲げた「新しい資本主義」がいかにポイントを外した問題設定だったかがわかる(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。

競馬はいよいよ秋のG1シーズンに入った。7〜9日の3日間は、G1競争こそないが、東西で見応えのあるG2レースが行われる。

「毎日王冠」「京都記念」の勝ち馬は?

まず、東の毎日王冠(8日、東京競馬場の第11レース、芝1800メートル)は、ソングラインとシュネルマイスターの「マイルG1馬2頭」が実績的に抜けている。

だが、両馬ともに、狙いはこのレースではない。この距離に実績があり、力をつけてきたジャスティンカフェで足りるのではないか。一足先に抜け出して、G1馬2頭の差し脚をぎりぎりしのぐ展開を期待したい。

 西の京都大賞典(9日、京都競馬場の第11レース、芝2200メートル)では、6歳馬ディープボンドを狙う。

開幕週の軽い馬場が微妙だが、ロングスパート型のこの馬に有利だと解釈したい。早めに先頭に立って押し切れるのではないか。
 
どちらも、単勝を中心に買って、TV観戦を楽しみたい。

(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

(山崎 元 : 経済評論家)