私たちが生きる現代社会では、騒音や情報がかつてないほど増加しており、人々は何かに集中したり、注意を向けたりするのが困難になっています(写真:Graphs/PIXTA)

私たち現代人は、かつてないほど騒音の影響を受けている。ここで言う「騒音」とは街中に響く音だけではない。日々接している大量の情報という騒音や、ネガティブな考えが頭から離れない「頭の中の独り言」という騒音もまた、増加し続けている。

これほど多くの刺激が人々の注意を消費している今、私たちはどうすれば心の平穏や明確な思考を維持できるのだろうか? これら危険な3つの騒音から逃れる方法はあるのだろうか?

今回、日本語版が9月に刊行された『静寂の技法』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

ニクソンが静寂のためにしたこと

リチャード・ニクソンはひどいクエーカーだった。ホワイトハウスから漏出した多数のテープが実証しているように、やたらに口汚く罵った。

クエーカーとして信仰上の理由から良心的徴兵忌避をせざるをえなかったので、第2次世界大戦中は戦場に出るのを避けることができたものの、後にアメリカの第37代大統領としてヴェトナム戦争を段階的に拡大し、カンボジアに対して壊滅的で違法な爆撃を実施した。


彼が、政敵や、彼らに不利になる材料を執拗に追い続けていたことが、ウォーターゲート事件の調査で暴露された。「汝の敵を愛せよ」という、子ども時代から親しんできた宗教を特徴づける倫理的な教義には、ほとんど関心がなかったらしい。

それでもリチャード・ニクソンは、アメリカ史上2人しかいないクエーカーの大統領として(もう1人はハーバート・フーヴァー)、静寂を崇める宗教の信奉者にふさわしいことを1つした。

ニクソンは、もっぱら騒音を管理するための、アメリカ初の政治体制を発足させたのだ。

1972年騒音規制法は、ある程度静かな環境への権利をアメリカ人に与えることを目指していた。

この法律によって新設されたのが連邦の騒音対策局(ONAC)で、騒音公害を緩和するために、騒音抑制の研究を調整したり、製品の騒音発生に対する連邦基準を広めたり、州政府や地方自治体――特に、都市の中心部の自治体――に助成金や技術的支援を提供したりする権限を持っていた。

ONACは飛行機と列車の騒音を規制する権限は与えられていなかったが、社会啓発活動を主導し、こうした課題への認識を高め、最終的には、空港や航空会社や運送業者に真剣な騒音対策の実施を促すことができた。

1970年代には、騒音が健康に与える影響を、依然として疑う向きもあった。製造業界や公共輸送当局をはじめ、利益団体が、義務的な騒音規制に反対したが、政府はそうした規制を推し進めた。

1968年、公衆衛生局長官のウィリアム・H・スチュワートは、騒音緩和の動きを支持する意見を表明し、「因果関係の鎖の環を1つ残らず証明しおわるまで待たなければならないのだろうか?」と問うた。そして、こう続けた。「健康を守るときには、絶対的な証拠は後回しだ。証拠を待っていたら、惨事を招いたり、無用の苦しみを長引かせたりすることになる」

ロナルド・レーガン政権は、1982年に反規制政策の一環として、騒音抑制プログラムの予算を取り消して、このプログラムを廃止した。それでもなおONACは、人の真のウェルビーイングを優先する予防的公共政策の称賛すべき例であり続けている。

人間の注意という価値を擁護する

ニクソン時代の騒音管理体制は、アメリカの政府では――いや、それを言うならほとんどの政府でも――今なおおおむね前代未聞の考え方に基づいている。すなわち、人間の純粋な注意には固有の価値があり、社会にとってこの価値を支持・擁護することは、必要不可欠の利益である、という考え方だ。

ニクソンの騒音改革の話は、まさに今、おおいに意義がある。

オンラインのプラットフォームとそのプロプライエタリー・アルゴリズム〔訳注 入手、利用、複製などに関して、法的手段や技術的手段で制限が設けられているアルゴリズム〕が経済と公の議論でますます大きな役割を果たすなか、人間の注意にまつわる政策をめぐって激論が戦わされている。

特に政治家たちは、どうやってプライバシーを守り、言論の自由を保証し、偽情報と戦い、大手テクノロジー企業の独占的な力の増大に対処するかを決めるのに苦労している。

これらは重大な問題だ。だが私たちは、他にも対処しなくてはいけない、もっと大きな包括的問題があると考えている。それは、社会をどう構成すれば、人間の純粋な注意を維持することができるか、という問題だ。

ノーベル賞受賞者のハーバート・サイモンが「豊富な情報は注意の貧困を生み出す」という言葉を書いたのが、ニクソンの騒音改革の頃だった。

静寂を尊ぶ社会のあり方

もちろん、騒音問題全体を規制したり法律で統制したりすることはできない。だから、もっと幅広く深いもの、すなわち静寂を尊ぶ社会を思い描くことにする。

たとえば、クエーカーのミーティングのロジックに倣う公の議論を行ったらどうなるか、想像してみる。そういう議論では、言葉が静寂を向上させると思えないかぎり、軽々しく発言がなされることはない。

私たちはさまざまな可能性を探る。もし議会や企業の重役会が純粋な注意を維持する重要性の真価を理解したなら、どうなるか?

気候変動や不平等のような複雑で困難な問題を解決するには、工学や解析や議論だけではなく、人々が本当に望んでいる未来について熟考してビジョンを持つための余地も必要であることに、もし社会が気づいたならどうなるか?

もし、間(ま)――「間にある」静かな空白の力を意味する日本語――の原理が、公の議論で活かされたならどうなるか?

これはみな、突拍子もない空想に聞こえるかもしれないが、これまでのやり方――たとえば、経済の「外部性」の計算方法や、新しい規制のコストと便益の評価法、賢明な公共投資の見定め方、難しい公の課題の検討の仕方――に妥当な変更を加えれば、前述のような変容を引き起こすのに役立つだろう。

(翻訳:柴田裕之)

(ジャスティン・ゾルン : コンサルタント、講師)
(リー・マルツ : コンサルタント、リーダーシップコーチ)