ふくはら・よしはる/1931年生まれ。1953年資生堂入社、新入社員から現場を経験し、1978年取締役外国部長。専務取締役、副社長などを経て、1987年代表取締役社長。直後に大胆な経営改革を断行する。1997年代表取締役会長、2001年から名誉会長。2023年8月30日老衰により逝去(写真は2010年、撮影:尾形文繁)

「賭けよね、いい会社にしてね」

2014年、日本コカ・コーラ出身の魚谷雅彦氏を社長に選任するという報告を受けた福原義春氏は、こう答えたという。

「福原さんらしいジョークだろう」、同氏と外国部などで長年にわたってともに仕事をしてきた資生堂の元幹部社員は、発言の真意についてこう推測する。

「あなたはまだ社長をやりたいの」

今年8月30日、資生堂の福原名誉会長(1987〜1997年に社長)が92歳で逝去した。福原氏に近い関係者によれば、創業家出身のトップでありながら茶目っ気のある穏やかな性格だったという。

役員会議などでもこうしたジョークを好んで使い、場を和ませていた。また、会議で賛成のときは「これいいわね」とほめる一方で、反対の際はあえて言葉にせず、部下はその雰囲気を察したという。

だからこそ厳しい言葉を使うときには重みがあった。「あなたはまだ社長をやりたいの」。前田新造元社長が2013年に社長に再登板したときにはこう聞いた。

福原氏は「社長や団体の長は3年6期」という持論を持っていた。前田氏は社長を6年務め会長に退いた後に、再び社長の座に就いていたのだ。その1年後に前田氏は魚谷氏に社長のバトンを渡すことになる。

福原氏は、資生堂にとっては「中興の祖」といえる経営者だった。商品開発と海外事業の経験が長く、多くのヒットブランドを生み出したほか、海外進出の足がかりを作った。

福原氏の経営の特徴は、「不易流行」を重視したことである。創業家出身社長として、資生堂らしさにこだわった世界観を追求し、化粧品ブランドの育成に注力した。

1976年に誕生したメーキャップブランド「インウイ」も福原氏が開発に携わった。「赤の色味」について福原氏からダメ出しをされ、何回も什器を作り直したと資生堂OBは打ち明ける。同ブランドは2023年に化粧品専門店ブランドとして復活する。

また高級フレグランスの「セルジュ・ルタンス」も福原氏が取締役外国部長時代に進めたフランス進出がきっかけで生まれたブランドといえる。

「芸術や長い歴史といった企業文化に裏打ちされたブランドストーリーを作るうまさは圧倒的」。化粧品大手の社員はこう指摘する。

世界視点で化粧品業界を見ることができた


福原氏は、これまで国内中心だった資生堂の海外展開を一気に推し進めた(撮影:今井康一)

また、これまで国内中心だった資生堂の海外展開を推し進めた。福原氏はもともと英語が堪能。入社時には当時の松本昇社長から「英語がおできになるようですが、この会社に入っても使い道はありませんよ」と言われていた。しかし、苦境に立たされていたアメリカ子会社の社長に就任し、立て直しを図る。

1978年には取締役外国部長に就任。中国進出や化粧品の本場であるフランスでの事業開始などを推し進めた。「海外経験もあったことから、世界視点で化粧品業界を見ることができた」と、同社のOB幹部は福原氏の経営手腕を評価する。

現在、資生堂は中国やアメリカ、欧州などへ進出しており、海外売上高は7割を超える。この成長基盤を築いたのはほかならぬ福原氏であった。

多趣味でも知られている。2010年12月発売の『週刊東洋経済』では福原氏を取材しているが、特集内容は何と「カメラ新世紀」である。当時、東京都写真美術館の館長でもあった福原氏が写真を上達させるコツについて次のように語っている。

「『写真の定石』を知ること。それは理屈で覚えるのではなく、写真をたくさん見ていけばわかってくる。中でも大事なのは『写真の角度』と『構図』」。そのほかにも蘭栽培、読書家、絵画コレクターなどさまざまな面を持つ経営者だった。こうした福原氏の芸術センスが化粧品の商品開発につながっていたことは間違いないだろう。

資生堂経営には課題もあった

一方で、福原氏の資生堂経営には課題もあった。それが後継者の指名である。1997年、福原氏は後任として弦間明氏を社長に指名した。その後、池田守男氏、前田新造氏、末川久幸氏と社長のバトンをつないでいく。これらの後継指名に福原氏は強く関わっていた模様だ。


1990年代後半は化粧品の定価販売制度が崩壊し、ドラッグストアなど新しい販売チャネルが台頭し始めた激動の時代だった。資生堂にとって主力販売チャネルだった化粧品専門店は閉店が続いていた。

本来であれば販売戦略の転換や、専門店へ派遣をしていた美容部員制度の改革、値下げされにくいブランドの創出などが求められるタイミングであったといえる。

こうしたタイミングで秘書畑の池田氏を社長に指名した采配には今でも疑問の声が多い。資生堂は国内の難題に対して根本的な改善策を打つことができなかった。

そして前田氏は「uno」や「TSUBAKI」を立ち上げてドラッグストアの販売を強化したが、アメリカの化粧品会社ベアエッセンシャル(現在は社名変更)の買収で大失敗し、社長を引き継いだ末川氏時代の2012年度には最終赤字に転落をしている。最終赤字は2004年度以来だった。

当時を知るOB社員らによれば、社長になるべきだった人望・実績のある人材はほかにいた。取締役専務などを務めた斎藤忠勝氏だ。福原氏の下で多くのブランドを生み出した。商品開発のエースといえる人物だ。

「イエスマン」を社長に指名する傾向も

しかし、福原氏は斎藤氏を社長に任命しなかった。「福原さんは自分の言うことを聞く『イエスマン』を社長に指名する傾向があった」。OB幹部はこう指摘する。


福原氏は、1987年から社長を10年務め後任に譲った(写真は1997年、撮影:高橋孫一郎)

末川社長の後任には、当時資生堂の取締役だったカーステン・フィッシャー氏や岡澤雄氏らが社長レースを競った。だが結果的に、外部人材である魚谷氏が社長の座を勝ち取った。

現在、資生堂の会長CEOを務める魚谷氏は、過去にとらわれない独自路線で改革を進めている。

コロナ禍前のインバウンド特需に沸いた時期は高成長を続けたが、足元の業績はかつて低迷をしていた時期と変わらない水準にまで落ち込んでいる。業績回復のためには、これまで誰も手を着けてこなかった美容部員のリストラなどが不可避の状況だ。(土俵際の資生堂、24年に魚谷会長が「退任表明」

現在の資生堂を福原氏はどう見ているのだろうか。「魚谷氏の社長指名という賭けには勝ったのでしょうか」。そう聞いてみたかった。

(星出 遼平 : 東洋経済 記者)