日本ハム時代からずばぬけていたダルビッシュ投手の活躍の裏側について、鶴岡慎也氏が解説する(写真:John Fisher/GettyImages)

日米通算200勝の偉業をまもなく達成するダルビッシュ有投手(2023年9月7日時点196勝)。第5回ワールド・ベースボール・クラシックでは、メジャーリーガーとしては異例の早い時期からチームに合流し、チーム最年長の精神的支柱になった。ダルビッシュ投手から変化球を教わった投手は多い。

ダルビッシュ投手の渡米前の日本ハム時代、長らくバッテリーを組んだのが元プロ野球選手で現在は野球解説者として活躍する鶴岡慎也氏だ。鶴岡氏は第5回WBCにもブルペン捕手として侍ジャパンに同行し、ここでもダルビッシュ投手の球を多く受けた。日本ハム時代から図抜けていたダルビッシュ投手の活躍の一部を、鶴岡氏の新著『超一流の思考法』から抜粋するかたちで紹介する。

私がダルビッシュの専属捕手になったきっかけ

ダルビッシュ有投手は「雲の上の後輩」です。彼の専属的な捕手になったのには、幸運な出来事がありました。

ダルビッシュ投手は、高校出1年目の2005年6月にすでにプロ初勝利を挙げ、先発ローテーションに入っていました。ドラフト1位選手なので、7月に宮崎で開催されたフレッシュオールスター・ゲームに選出されたのです。

「チーム内にご当地の宮崎出身選手がいない。ツル、同じ九州出身だから出場してこい」

高校卒業後、社会人野球を経てプロ3年目の私は、鹿児島出身という理由だけで出場し、ダルビッシュ投手とバッテリーを組んだわけです。そして、その試合で本塁打を打ち、MVPを受賞しました。

「フレッシュオールスターMVP選手は出世する」

そんな伝統があるそうですね。イチロー選手や青木宣親選手(ヤクルト)もMVPを受賞し、スターダムにノシ上がっています。

ただ私は「MVP賞金100万円を狙おう」なんていう野望は1ミリもありませんでした。しかし、そのMVPで首脳陣にアピールできたようで、私はその年の9月に1軍初出場を果たすことになりました。

さて、ダルビッシュ投手の投げる球というのは、人間の反射神経限界の球です。特に変化球。ストレートはキャッチャーの自分に向かってくるので捕れますが、変化球は他のピッチャーより大きく速く鋭く曲がります。それに対応しなくてはなりません。

札幌ドームは他の球場に比べて、キャッチャーからバックネットまでの距離が長いです。パスボールなどしようものなら、一塁走者は二塁どころか三塁まで進んでしまいます。

強肩強打でない私は、ダルビッシュ投手の変化球を必死に捕りました。彼のおかげでワンバウンドを止める、かなり高度なブロッキング技術が養われました。バッターが空振りするようなワンバウンドの変化球さえ止めておけば何とかなる。そういう自覚が私に芽生え、ダルビッシュ投手がマウンドに登るときに合わせ、いつの間にか私がマスクをかぶるようになっていたのです。

配球はダルビッシュが考える

ダルビッシュ投手の先発時、相手打線は他のピッチャー以上に対策を立てて試合に臨んでいたと思います。

「きょうは変化球を捨てて、全部ストレート狙いでいこう」
「今回は待球作戦だ。初球から打ちにいかず、球数を投げさせよう」

ただ、当然ながら相手の作戦は試合が実際に始まってみないと分かりません。試合前に2人でミーティングをして「こうきたら、ああしよう」という方向性を考えておきます。バッテリーをずっと組んでいたので、臨機応変にすぐ切り替えられる「あうんの呼吸」があったと思います。

彼は私の出す球種のサインに結構首を振ります。最後は自分の投げたい球をほうります。つまり、どういう球を投げて打者を打ち取っていくかという「配球」は、ダルビッシュ投手が最終的に決めるわけです。

「NPBはキャッチャー主導、MLBはピッチャー主導」と聞いたことがありますが、我々はMLBのバッテリーのような関係でした。首を振られたから面白くないなどと、私は1度も思ったことはありません。

2022年オープン戦での私の引退セレモニーのとき、ダルビッシュ投手は「鶴岡さんのリードのおかげでのびのびと投げさせてもらえた」と言ってくれました。高木豊さんのYouTubeでも「一番投げやすいのは鶴岡さん」。そんな発言も、「MLB的バッテリー」が理由だと思います。

ダルビッシュ投手は「変化球はアート(芸術)だ」と語っています。10種類とも11種類とも言われる変化球を持っています。だからといって球種のサインが11種類あるわけではありません。

スライダーとカットボール、フォークボールとスプリット、シュートとシンカーといった具合に、同系統の変化球に対して私が出すサインは同じです。ダブルプレーを取りたい状況や、ボールカウントに応じて、曲がり方や落ち方をダルビッシュ投手が加減するわけです。

ダルビッシュ投手の「変化球へのこだわり」と言えば、「バッターの反応」を見るのがとても好きだったように思います。

例えば、スライダーがバッターにぶつかりそうなところからもの凄く曲がったら驚くじゃないですか。縦の速いカーブで左バッターから空振り三振を結構奪ったのですが、「バッターが反応できなかったら、反応されるまで続けよう」とか……。そのときどきの自分の投球フォームや体調に合わせて、球種を投げ分けていた記憶があります。

すべての変化球をカウント球にもウイニングショットにも使えて、レベルが高かったです。その中でもどの変化球が一番凄かったかと訊かれれば、やはり「スライダー」です。ただ、ダルビッシュ投手自身がどう思っているかは別にして、実際に投球を受けていた身としては、一番凄い球種はストレートだと思います。

2006年のプレーオフ。ファイナルステージ第1戦。ダルビッシュ投手は3対1で完投勝ちを収めました。ソフトバンクのバッターたちは、ストレート狙いの予想が当たったスイングでも、バットはことごとく空を切りました。

最後9回二死、その年リーグ最多安打をマークした大村直之選手を三振に斬って取ったストレート。バットは投球の下を少し遅れて通過しました。フォーシームのきれいな回転でホップするようなストレートを、今でも鮮明に覚えています。

パワーから生まれるテクニック

一番衝撃を受けたのは2010年からの肉体改造です。ダルビッシュ投手は2012年からメジャーリーグに挑戦するのですが、その前からメジャー仕様の肉体改造に、本格的に着手し始めました。シーズン中にもかかわらず、高重量の負荷でウエイトトレーニングに取り組み、体を大きくしていきます。

もともと細身のダルビッシュ投手は、食事やサプリメントやプロテインの摂取に気を配っていましたが、意識して食事量を増やしていきました。体のポテンシャルで勝負する。パワーがあるからこそ生まれる技術がある。

今でこそその考え方が浸透していて、大谷翔平選手も体を大きくしています。日本プロ野球界において、ダルビッシュ投手がそのはしりです。ボディビルの雑誌も愛読していて、研究して知識を仕入れていたようです。

2011年2月の春季キャンプ。12月と1月の完全オフ期間を経て会ったとき、信じられないくらい体がデカくなっていて驚きました。1回り、2回り大きくなった体から繰り出される重いストレートは、「ダルビッシュ史上、最強の球」でした。例えるなら「ピュッ」という切れ味鋭いピストルの弾丸から、「ズドーン!」という大砲の砲弾になったような衝撃をミット越しの左手に感じました。

実際に2010年の12勝から2011年18勝にグレードアップしましたし、2012年メジャー1年目には16勝をマーク。「パワーから生まれるテクニック」を証明しています。

私は興味を抱いて、2011年中からウエイトトレーニングで大きな負荷をかけてみました。食事を大増量し、プロテインもサプリメントも積極的に摂取しました。体重は8キロ増の83キロ、2012年の好成績に反映したのです。

しかし、食事量を増やすのは大変で、私は長続きしませんでした。ダルビッシュ投手がみずからをストイックに徹底管理して食事増量を継続していたのには、改めて感心したものです。

投げることへの責任感

2009年11月1日の日本シリーズ、対巨人第2戦。左臀部の痛みに苦しみ、キャッチボールのような投球。ふだんは多投しない100キロ台のスローカーブを有効に使い、6回7奪三振2失点で切り抜けて勝利投手。お立ち台で「一世一代の投球ができた」と、珍しく自画自賛したヒーローインタビューを覚えているファンの方も多いのではないでしょうか。

のちに右手人差し指の疲労骨折も判明しました。無理をして、あの試合で折ったのだと思います。

あのとき、ペナントレース終盤の9月20日の登板後、クライマックスシリーズも含め、1カ月以上まったく投げていなかったのです。だから「ぶっつけ本番」で、ナインはみんな「投げられるの?」と半信半疑でした。私は試合前のブルペンで、キャッチボールをしました。

「ツルさん、座ってください」

座っても、キャッチボール投法は変わりません。

「えっ、きょうこんな感じでいくの? いつ本気で投げるの?」

「これしか投げられません。スローカーブを使っていきましょう」

ストレートは130キロしか出ない。バッターの反応を見ながら、指先、手首、腕の力加減でスローカーブを微妙に変えて、タイミングを外して打ち損じさせるしかない。

そう覚悟したのだと思います。

「ピッチングスタイルを変えたのか。いや、いつ全力で投げるのだろう」

相手にそう思わせ、バッター心理を逆手に取りながら、スローカーブで翻弄して打ち取っていきました。

それでも小笠原道大選手との二死満塁の場面では、力を振り絞って148キロのストレートを投じてピンチを脱しました。

実際はケガをしてあれしか方法がなかったのですが、残された方法で最大限の投球をする。万全ではないことはみずからが一番分かっていたはず。そこまでして投げてくれたことに頭が下がりました。もう配球うんぬんではありません。「投げることへの執念」「投げることへの責任感」「バッターを打ち取る嗅覚の鋭さ」を感じました。

味方投手のことまで考えて投げる深謀遠慮

日本ハム時代、ダルビッシュ投手に「弱点」は見当たりませんでした。それどころか彼の存在によって、相手チームは先発ローテーション変更を余儀なくされたと思います。エース同士の直接対決で負けて3連敗するぐらいなら、先発4、5番手を送り出し、「勝てばもうけもの」という、あきらめの境地だったのではないでしょうか。


ダルビッシュ投手は、火曜日から始まる6連戦の真ん中の金曜日に先発していました。当時の日本ハムは2006年・2007年・2009年と優勝していました。リードした状態で試合の終盤を迎えることが多く、リリーフエース・武田久投手の出番が多くなりました。

ただ、ダルビッシュ投手は毎年200イニングぐらい投げ、完投も10試合ぐらいありました。ふつう8回、9回に投げるピッチャーは気が抜けないものですが、「きょうはダルだから休めるかなぁ」。あの武田久投手でさえ思わずそう漏らすぐらいでした。

「次の試合のことを考えて内角を多めに投げた」

ダルビッシュ投手はそんな発言をしたことがあります。本格派・右投手の彼が第1戦で右バッターの内角をツーシームでえぐる。その軌道の残像が消えやらぬうちに、第2戦で技巧派・左投手の武田勝投手が右バッターの外角にチェンジアップを落とす。ストレートのスピード差も150キロと130キロで20キロあります。相手バッターはついていけません。

2007年から2009年あたりまで、ダルビッシュ投手と武田勝投手のセットは、とても機能した素晴らしい先発ローテーションでした。だから、日本ハムが強かったわけです。

それにしてもリリーフピッチャーや翌試合の先発ピッチャーのことまで深く考えて投げられるピッチャーが他にいるでしょうか。ダルビッシュ投手の「深謀遠慮」。やはり「野球脳」が高いのです。

(鶴岡 慎也 : 元プロ野球選手、野球解説者)