宇都宮駅東口に到着したLRT(編集部撮影)

2023年8月26日、宇都宮駅東口―芳賀・高根沢工業団地間の約14.6kmを結ぶ宇都宮芳賀ライトレール線(芳賀・宇都宮LRT)が開業した。国内で新しい路面電車が開通するのは75年ぶりのことで、全国から注目を集める。

約51万3000人の人口を擁する宇都宮市は栃木県の県庁所在地として確固たる地位を築いているが、明治初期は不遇をかこっていた。栃木県の前身の一部である宇都宮県は、1871年に発足。しかし、1873年には栃木県と合併し県庁は栃木に移転した。そして県名も栃木県になった。

県庁所在地の座を奪われたが…

江戸期から城下町として栄えた宇都宮は、時代が明治に移っても引き続き商業が盛んだった。実際、1872年には東京・浅草の有志たちが千住―宇都宮間を結ぶ乗合馬車の開業届を提出している。

乗合馬車は、浅草の有志のみならず宇都宮側でも手塚五郎平といった有力者が運行に協力。旅客輸送のみならず荷馬車の機能も果たし、それはくしくも1871年から明治新政府が東京―京都―大阪間で開始した郵便事業を北関東にも拡大させる先導的な役割を担う。

商業都市として発展していた宇都宮であっても、県庁を奪われた。住民たちにとって、それは屈辱的な出来事だった。そうした思いは消えず、宇都宮の有力者たちは水面下で県庁を取り戻そうと画策する。

県庁を取り戻す動きは、1883年に三島通庸が県令に就任したことで本格化していく。三島は明治新政府内でも、都市計画の重要性を熟知していた数少ない人物だった。

三島は1872年に起きた銀座大火後の街の再建で現場を指揮し、銀座煉瓦街を完成させた。その後、県令として鶴岡県(現・山形県)、そして山形県へ赴任し、擬洋風建築を建てまくった。明治初期の山形は農村然とした街並みが広がっていた。そこに、異国情緒あふれる建築群が出現したのだから、人々は度肝を抜かれたことだろう。

建物ばかりではなく、三島はインフラ整備にも力を入れた。とくに道路建設には執念を燃やし、それは1882年に福島県令に着任した際にも発揮される。翌1883年に福島県令と兼任で栃木県令にも就任すると、三島は宇都宮の道路整備から着手。これは宇都宮が人の往来が盛んで商業発展が見込めることが理由だった。道路整備の成果もあり、1884年に県庁が宇都宮へと移転した。

鉄道開業で注目を浴びたのは「日光」

日本鉄道(現在の東北本線、常磐線などを敷設した私鉄)が設立されると、栃木県内から大きな期待が寄せられた。栃木県民は日本鉄道に資金的な協力を惜しまず、宇都宮が属していていた河内郡だけで当時の金額で約8万5000円、県内全体では約71万円の寄付金が集まっている。

それほどまでに宇都宮の住民たちが鉄道に期待を寄せていたのは、栃木新聞が繰り返しメリットを強調していたからにほかならない。他方で、線路建設が進むにつれて鉄道反対の声も大きくなっていく。

反対の主だった理由は、宇都宮は目立った地場産品がなく商業都市としての発展は単なる流通によるものにすぎず、鉄道開業は東京の商圏が拡大するだけで宇都宮は飲み込まれてしまうという理由からだった。これは、現代におけるストロー現象を不安視するような心情と言っていいだろう。

そうした反対はあったものの、1885年に日本鉄道は宇都宮駅を開設。利根川の架橋工事が遅れたこともあり、利根川は渡船連絡になったが、それも翌1886年には解消。名実ともに東京と宇都宮は鉄道でつながった。


現在の宇都宮駅西口。開業以来長らく東口は存在しなかった。市中心部の東武宇都宮駅との間には頻繁にバスが運行されている(筆者撮影)

先述の乗合馬車は鉄道開業によって旅客営業を廃止。郵便物の運送は1887年まで続けられたが、それも日本鉄道に役目を譲る。乗合馬車に協力した手塚は、その後に運送店を開業。引き続き、日本鉄道から送られてくる荷物を取り扱っている。

駅が開業したことで宇都宮は北関東の商業都市として存在感を強くしたが、それ以上に日光が注目されるようになった。それまで東京―日光間は宇都宮での安息日も含めて4日以上を必要とした。これが鉄道開業により東京―宇都宮間は半日、安息日は不要になり日光までの移動は2日に短縮された。日光参詣者は小休止するために宇都宮に寄ることはあったが、宿泊需要は激減した。

その後、1890年に宇都宮駅―日光駅間が開業すると、日光参詣者の滞在需要はさらに減少。反対派が不安視していた宇都宮の衰退は、観光という面で顕著に現れた。

政府が計画した「宇都宮飛ばし」

東京から見れば、宇都宮はあくまでも途中で立ち寄るための都市でしかない。宇都宮をショートカットできれば、東京―日光間の所要時間は短縮できる。そう考えた政府は、1930年頃から宇都宮駅―日光駅間の日光線のルート変更を検討している。

東京から日光へと向かうルートは東北本線で宇都宮駅を経由することになるが、宇都宮駅から日光へと向かうルートはいったん南へとバックするような線形になっている。これは現在も変わっていない。このいったん南へと移動するルートが無駄だとして、政府は東北本線の雀宮駅から日光線の鶴田駅を直接つなげる路線の計画を立てた。

政府の“宇都宮飛ばし”とも言える計画は、1940年に東京五輪と東京万博が同時開催される予定になっていたことと無縁ではない。東京五輪・東京万博を開催すれば、諸外国から多く観光客が訪れる。五輪・万博の後、少しでも長く滞在してもらうために、東京近郊を観光してもらう。そうした経済的な算段が政府にはあり、日光への所要時間を短縮するためには宇都宮駅を経由しないルートが望ましかった。


宇都宮―日光間を結ぶJR日光線の電車(写真:Jun Kaida/PIXTA)

宇都宮政財界は宇都宮駅をショートカットする路線変更を断固として認めず、鉄道大臣に反対の陳情書を提出。日中戦争が激化したことで五輪と万博は中止となり、同計画は立ち消えた。

鉄道開業により日光参詣者の宿泊需要減という憂き目にあった宇都宮だったが、それを上回る経済効果もあった。

開業当初の宇都宮駅は、平屋木造建ての駅舎にホームが1つで上りと下りの線路が1本ずつと、側線が1本という構造だった。小規模な駅ではあったが、開業と同時に貨物の取り扱いを開始したことで、東京と東北とを中継する物流拠点に変貌したのだ。その後、日本鉄道は青森を目指して線路を建設していくが、段階的に北へと伸びていくにしたがって宇都宮駅の重要性も高まっていった。

宇都宮駅が貨物輸送の集散地になった理由としては、なによりも地理的要因が大きい。北関東や東北地方の内陸部は舟運に頼れず、ゆえに物資輸送は陸路を選ばざるをえない。

1891年に青森駅までの路線を全通させた日本鉄道は、1892年に水戸鉄道(現・JR水戸線)、1897年に両毛鉄道(現・JR両毛線)を買収。東日本に網の目のように線路を張り巡らせる一大私鉄になった。宇都宮駅の重要性も高まり、1902年にはそれに見合う駅舎が求められ、拡張を意図した改築を実施している。

貨物輸送でも高まる重要性

日本鉄道が宇都宮駅を重要視していたことは、2代目宇都宮駅舎の意匠からもうかがい知ることができる。簡素な初代駅舎とは異なり、2代目の駅舎は中央に車寄せを配し、入母屋造の屋根、鴟尾といった豪華な社寺建築になった。

荘厳な意匠は宇都宮の人々を魅了したが、京都鉄道(現・JR西日本嵯峨野線に相当)の社長だった田中源太郎もこの駅舎に一目惚れしている。田中は京都鉄道が本社を置いていた二条駅を宇都宮駅のようにしたいと考え、わざわざ図面を取り寄せた。そして、実際に同駅の駅舎は宇都宮駅そっくりにデザインされる。

宇都宮駅が改築されて間もない1906年に日本鉄道は国有化され、経営主体は変わったが駅の重要性は揺るがなかった。むしろ物流量が増えたこともあり、1910年には宇都宮商工会議所が鉄道当局に対して複線化を急ぐように陳情するほどだった。

地元財界からの強い要望を受け、1913年に宇都宮駅―小山駅間が複線化。1923年に宇都宮駅構内の貨物線が増設。これで駅の7番線から16番線までが貨物線になる。こうして宇都宮駅の貨物取扱量は歳月を経るごとに増加していく。

宇都宮駅では、陶器・綿糸・タバコ・肥料・木材などの取扱量が多かった。なかでも石材の取扱量は突出していた。

宇都宮は大谷石の産地として知られ、大谷石は古くから建材として使われてきた。鉄道開業により石材の輸送が容易かつ迅速になったことは言うまでもないが、大谷石の評判を全国区へと押し上げたのが、アメリカの著名建築家であるフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルのライト館だった。

同館は大谷石を主な建材として用い、1923年に竣工。同年に関東大震災が発災したがライト館は倒壊せず、避難所として活用されている。

「東口」ができるまで

1945年、宇都宮駅は戦災により駅舎を焼失。終戦直後に応急処置ながらも復旧された。早期に復旧されたのは、言うまでもなく貨物が重要視されたからだが、進駐軍が日光の玄関口であることに着目してRTO(=Railway Transportation Office、鉄道司令部)を設置したことも大きな理由だろう。

そうした状況が奏功し、宇都宮は早くから鉄道が復旧。戦災復興も他都市より早く進んだ。そして、それは駅東口の宅地化を促していく。それまで宇都宮駅の東側は何もない駅裏で、ゆえに東口もなかったが、住民から駅東口の開設運動が起きるまでに宅地化が進んだ。


宇都宮駅東口に停車中のLRT。戦後の宅地化進展で住民による東口開設運動もあった(筆者撮影)


かつての宇都宮駅東口。LRTをPRする看板が立てられていた=2017年5月(筆者撮影)

この際は東口の開設は実現しなかったが、宇都宮市は駅東側に工業団地の造成を検討。市が工業団地の造成を進めた理由は、東京では大規模な工場を建設する用地がなく、多くの企業が業務拡張のための用地を探していたからだ。近隣の自治体は東京の工場移転地として手を挙げ、宇都宮市もそれに倣った。

市は1960年に宇都宮工業団地の用地買収と造成に着手し、翌年から分譲を開始。同工業団地には松下電器産業(現・パナソニック)や三菱製鋼といった大企業のほか、日本信号といった鉄道と関係が深い企業も進出した。宇都宮工業団地は1970年に分譲を完了するが、それまでに66社を誘致している。

宇都宮工業団地に続いて、1973年からは清原工業団地の造成を開始。こうして、宇都宮は工業都市としての趣を強くし、これらの工業団地も宇都宮駅東側の宅地化を加速させた。

宇都宮市が内々に工業団地の計画を進めていた1958年、東北本線の大宮駅―宇都宮駅間が電化。電化は宇都宮駅を変え、同年には4代目となる新駅舎が完成した。4代目駅舎は民衆駅方式が採用されて駅ビルが併設されたが、駅の場所は地盤が悪いことから駅ビルを2階以上にはできなかった。

旧来、宇都宮市の中心部は東武宇都宮駅側に寄っていた。そのため、民衆駅方式が採用された4代目駅舎は宇都宮駅そのものを商業化するとともに駅周辺地域の商業的な振興という役割も期待されていた。しかし、実際には2階建てというコンパクトな駅舎になり、依然として街のにぎわいは東武側に偏重していた。


東武鉄道の東武宇都宮駅は1931年開業。JR宇都宮駅からは西に約1.8km離れている(筆者撮影)

こうした状況は、その後も変わらない。それでも、宇都宮市が工業都市として発展していくにつれて、宇都宮駅の重要性は増していった。

1973年、政府は鬼怒川左岸の開発を計画。その動きに栃木県も呼応し、芳賀・高根沢工業団地が造成された。同工業団地は宇都宮市外にあるが、本田技研工業をはじめとする大企業が事業所を進出させたことで、宇都宮市から通勤するサラリーマンが増加。そして、この通勤動線が冒頭で触れたLRT誕生の要因になっていく。

LRT整備で大変貌

そして、1982年に東北新幹線が開業すると駅東側はさらに飛躍を遂げていく。東北新幹線の工事は1977年に始まったが、1971年に宇都宮貨物ターミナル駅が完成したこともあり、貨物基地だった駅東側は新たに開発される。これが、念願だった東口の開設につながる。

東北新幹線は宇都宮と東京の距離を縮めた。それは宇都宮市が東京の衛星都市化することを意味したが、1990年には東北本線の上野駅―黒磯間に宇都宮線の愛称がつけられるなど、北関東屈指の都市として存在感を発揮している。

2001年には湘南新宿ラインが運転を開始。宇都宮駅から一本で池袋駅・新宿駅・渋谷駅といった山手線西側にも乗り換えなしでアクセスできるようになった。これにより、ますます宇都宮市は衛星都市化していく。


駅西口にもLRTの計画を知らせる看板が設置されている(筆者撮影)

他方、市内の道路渋滞が激しいことから、宇都宮市は公共交通の整備が急務になっていた。このほど開業したLRTは、それら渋滞の解消を目的に建設が検討され、今回の開業にこぎ着けた。LRTの整備とともに駅東口も開発され、大きく変貌。西口側でもLRT延伸計画が進んでいる。まだまだ宇都宮駅の変化は続く。


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(小川 裕夫 : フリーランスライター)