逝去したフランスの経済学者・思想家、ダニエル・コーエン氏(写真:Alain DENANTES/Gamma-Rapho/Getty Images)

テクノロジーの発展が経済成長につながらないのはなぜなのか? 労働者が常に「クリエイティブであること」を強いられる社会は幸せなのか?

現在の世界的な「脱成長」論ブームにもつながる問いを投げかけた欧州の代表的な知性の一人、経済学者・思想家のダニエル・コーエン氏が、先日、70歳で逝去した。

本稿では、大阪大学大学院経済学研究科教授の安田洋祐氏によるダニエル・コーエン氏へのインタビューが収録されている『欲望の資本主義2』から、一部抜粋・編集のうえ、お届けする。

失われた雇用の受け皿となる産業がない

安田洋祐(以下、安田):新しいテクノロジーにより多くの仕事が奪われ、雇用が失われる不安が増殖する一方で、新たな雇用も創出されています。全体的な影響をどのように評価されますか。

ダニエル・コーエン(以下、コーエン):人間の労働がロボットやソフトウエアに完全に取って代わられるのではないかという議論ですね。それは随分昔から懸念されていたことです。専制君主制を創始し軍人皇帝時代を終わらせた古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝にも有名な逸話があります。


労働者の生活の糧が奪われることを心配して、円柱をつりあげる機械の導入に反対しています。テクノロジーや機械が人間に取って代わることに対する懸念は常にありました。そして、事実として、テクノロジーは人間の労働に大きな影響を与えてきました。

最たる例が農業です。技術革新によって、世界中の農民が職を奪われたのは明らかです。先進国には農民はもうほとんどいません。フランスでは1〜2%です。日本でも農業人口は少ないでしょう。人口比率ではフランスと同程度ではないでしょうか。技術革新で生産性が向上したため、以前より労働力が必要なくなったのです。その結果、何が起こったか。今の状況との興味深い類似点が見られます。

コーエン:20世紀を通して、フランス、アメリカ、そしておそらく日本でも、農業人口は急激に減少しました。その動向はフランスとアメリカで始まり、日本にも波及していったと思います。20世紀初頭には労働者の40%を占めていた農業従事者は、今では1〜2%程度です。

農村を離れた農民は都市部に移動し、工場労働者となりました。農業は供給過剰でしたが、産業革命最中の都市部では労働力が不足していました。産業革命、つまり技術革新が、農民を新しい工場で働く労働者に変貌させたのです。そして、労働者の農村から都市部への移動が、産業革命による経済成長をさらに大きくしました。

20世紀の経済が急成長したのは、この二つの出来事が同時に起きたからです。農業の生産性の向上により食糧が安くなる一方で、機械化された新しい工場で働く労働者が増えたのです。

仕事を失った人々が農村を離れ都市部に流入したのと同時期に、もし、産業革命が起こっていなければ、どのようなことになっていたでしょうか。都市部では大きな社会的な緊張が生まれたはずです。そして、経済があのように急成長することはありませんでした。経済を牽引するのは農業の生産性向上だけである上、農村での仕事は失われるからです。

私たちが今経験しているのは、そのようなことかもしれません。技術革新で生産性が上がって多くの人が職を失っているのに、それに代わる受け皿となる産業がありません。銀行、保険などの第三次産業では、すでに職を離れた人がたくさんいます。

成長分野で適切な賃金が得られない現実

新しいテクノロジーに職を奪われたわけですが、その人々は以前よりも生産性を高めること、即ち、前より報酬の高い職業に就くことができていません。新しい仕事を探しても、見つかるのは生産性がさほど高くない仕事ばかりなのです。そこに大きな格差が生まれています。

コーエン:しかし、それは人間の労働力が不要になったということではありません。労働力が必要な職場はたくさんあります。病院、教育分野、老人介護施設など、労働力が必要な仕事は非常に多岐にわたります。

しかし、そうしたサービスは料金が高く利用したい人が利用できない状況にあります。老人が自分の世話をしてくれる人を二人も三人も雇うことは不可能です。言い換えれば、老人がサービスを利用できるほどには、その分野の生産性がまだ十分に上がっていないということです。

そのため、世界で最も高齢化が進んでいる日本では、介護ロボットが導入されつつあるのだと私は理解しています。介護サービスの労働力が足りないのです。

つまり、問題はテクノロジーに職を奪われ、人々の仕事がなくなったことではありません。人々が成長分野において適切な賃金を得ながら働くことができず、以前よりも生産性の低い分野で低賃金に甘んじなければならないことが問題なのです。

高学歴でも職を失うリスク

安田:農業から工業への移行期には、農業の技術革新と産業革命がほぼ同時に起こり、都市部の工業が農村で生まれた余剰人員の受け皿となった。けれど、今回は、ICT(情報通信技術)やAI(人工知能)技術といった新しいテクノロジーで生まれた余剰人員の受け皿が用意できていない。そのため、失業者が大量に発生する可能性があり、人々が不安になっているということでしょうか。

コーエン:おっしゃる通りです。今、私たちは移行期にいます。この移行の性質を理解することは非常に重要なことです。農業から工業、工業からサービス業への移行が何を意味するのかは容易に想像がつきました。農地で働くか、工場で働くか、銀行や保険会社でホワイトカラーの仕事をするかという違いでした。

今日の世界で難しいのは、移行期に差し掛かりながら、その後の世界が明確にイメージできないことです。新しく職を得る人とこれまでの職を失う人との分断は、同じ分野、同じグループの中で起こっています。同じ産業、同じサービス業の中で、新しいテクノロジーが労働者の生活パターンを変えているのです。

コーエン:こうした変化の性質を理解するために、経済関連の文献から読み取れる一つのコンセプトは、ルーティンワークと非ルーティンワークの区別です。これはとても興味深いコンセプトです。

以前は、工業と農業、あるいは高スキルと低スキルなどの観点で職業を捉えていました。その区別にはある意味で安心感がありました。

特に1980年代には、技術の進歩はスキルや知識を持つ働き手、つまり、高学歴の人々に有利だと考えられていたため、教育を受けさえすれば誰もがスキルを身に付け技術の進歩の恩恵を受けられると信じることができました。だから、ある意味では安心できたのです。

しかし、ルーティンワークと非ルーティンワークの区別は、ある意味で人々の不安をかき立てます。どんな仕事をしていても、どんな地位にいても、同じことを繰り返すような仕事は、テクノロジーに取って代わられ仕事を奪われる危険性があるからです。

たとえ、高学歴で知識と技量を十分に備えた高給取りのトレーダーでも、コンピューターで代替可能な仕事をしていたら職を失う危険性があるということです。

かつてのように、単に高学歴だというだけでは職を守ることはできません。事態はより複雑です。今までの脅威とは性質が異なります。同じことを繰り返すようになったら、職を脅かされるようになります。私のような経済学者も同じです。

今では動画を再生すれば、誰でも、どこにいても、同じ話を何度でも聞くことができるのですから、いつも同じ話をしているのでは、講演の仕事は減っていきます。私たちは繰り返しのリスクに晒されているのです。

全員が芸術家のように生きねばならない社会の到来

コンピューターに代替えされないのは、非ルーティンワークだけだという強迫観念は、人々の大きなプレッシャーになります。それは、私たちが皆、芸術家のようにならなければいけないということです。常に自分を改革する必要があるということです。

フロイトは『文化への不満』に、「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家はいつも創造性の欠如への恐怖に晒されている」と語っています。それは本当に大変なことです。

コーエン:ずっと愛人として生きたいと思いますか? 恋愛はいいものですが、恋愛だけに基づいた生活には不安が伴います。常に愛されなくなったらどうなるかという脅威に晒されているからです。ですから、恋愛のみに生きるのは危険です。同じように、芸術家のように生きられると思い込むのも、危険なことです。

安定した仕事があるのは非常に良いことです。毎日、するべきことがわかっていて安心できます。職場に行って挨拶をして、同じ日常を繰り返せることは、フロイトの観点から言うと良いことなのです。外界との緊張を和らげることになるからです。個人が外界と接することで生じる緊張を和らげること、それこそが文明です。

今、始まろうとしている、あるいは、始まっている新しいテクノロジーの世界には、常にそうした緊張があります。いつも「自分が得意なことは何か」と自分自身に問いかけていなくてはなりません。それがストレスと緊張を生むため、燃え尽きてしまう人が大勢います。

人々は能力を限界まで出し切ることを求められています。そこが昔の労働者とは異なる点です。つまり、新しいテクノロジーの本質はこれまでの文明の破壊です。

これまでの文明、つまり産業文明は、繰り返しの文明でした。工場のライン作業などは、システムの効率を最大化するためのものでした。効率化のために、同じ作業を繰り返すことが求められたのです。

私たちは、かつて工業が農業生活を破壊したように、古い工業のコンセプトを破壊する新たな世界に足を踏み入れています。私はこれが、前世紀に人々の生活をすっかり様変わりさせた革命と同じくらい重要な革命になると考えています。

「創造的であれ、さもなくば死だ」 

安田:ルーティンワークと非ルーティンワークの区別について、もう少し、話を続けさせてください。これはカール・マルクスの「疎外」に関係していると思います。ルーティンワークか非ルーティンワークかを区別する考え方は、マルクスのもともとの考えに近いのではないでしょうか。

コーエン:そう思います。現代のパラドックスの一つです。ルーティンワークは疎外です。機械やロボットのように同じことを繰り返す労働者は「奪われた」状態にあります。もともとマルクスが考えていたように生産した商品を奪われるだけではなく、スキルも奪われるのです。工場でライン作業をする時は、いわば人間としての側面は忘れるように要求されます。

コーエン:例えば、1968年の五月革命[パリの学生運動を端緒にフランス全土、さらに多くの国々に拡大した大衆運動。ド・ゴール大統領退陣の契機となった]で、資本主義社会が最も批判されたのはそこでした。学生や労働者たちは、労働者に反復作業をさせて人間をロボット化していると批判しました。

現在では皮肉なことに、その声が聞き届けられたのか(笑)、テクノロジーによってそうした反復作業は消えつつあります。しかし、それでも1968年5月にベビーブーマーが思い描いていたような、平和で創造的な世界は訪れないというパラドックスが生じています。

今度は、創造力の追求が新たな義務になったのです。人々は創造的でなくてはならなくなりました。「ロボットになりたくない。ありのままの自分でいたい」と願うことと、「創造的であれ、さもなくば死だ」と迫られることは別のことです。

ベーシックインカムがあれば、ちょっと待ったと言える

安田さんに倣ってマルクスの用語を使うならば、今度は創造性の剰余価値を「搾取」されることになるからです。一つの搾取が別の搾取へ移行するだけです。

けれども、もし、ベーシックインカムのような社会保障制度が用意されるのであれば、私はこの移行は好ましいことだと思います。私たちは疎外の世界から搾取の世界へ移りました。グローバルなシステムに創造性を投入するという要求に応えることで、本当に搾取されるようになるのです。そこにはストレスがあります。

剰余労働は、工業の時代にそうだったように、またしても最大限まで押し上げられています。しかし、そこにベーシックインカムがあれば、人々は「ちょっと待った、その要求まではのめません」と言えるのです。

安田:基本的には利潤最大化という面では同じだということですね。利潤の源泉は変わったとしても。

コーエン:そうです。ルーティンワークの世界では、搾取されるのは体力でした。今ではそれは創造力です。ある意味で進歩したと言えますが、同じ矛盾を抱え、同じように極端な状況になっています。

コーエン:今の状況は後からでないと完全には理解できないでしょう。1968年5月や、その前後には、工業社会は限界に来ていると考えられていました。その認識は正しかった。しかし、工業社会から抜け出しさえすれば、その後には永遠の平和が待っているとの予測は外れました。当時の人々は、消費社会は存続しないと考えていたのです。

経済のルールに支配された世界

ケインズが1930年代に示唆していたように、働く必要がどんどんなくなり、別の世界に変わっていくと信じていました。

実際、ベビーブーマーは、日本でも、フランスでも、アメリカでも60年代に大きな声をあげていました。自分たちの使命はポスト物質主義の世界を構築することだと考えていました。当時の人々はそう信じていましたが、それは実現しませんでした。

実際には今でも、経済の問題は変わらず存在しています。そして、今日、ポスト物質主義の世界に入るために求められているのは、生産性を向上させ、創造力を高め、仕事がルーティン化した途端に職を奪ってしまう機械に勝つことです。私たちは、物質主義のレースから抜け出した途端、別のレースに参加させられ、同じ緊張感に晒されているのです。

私たちは経済の世界からポスト経済の世界に移ったわけではありません。それどころか、かつてないほどに経済のルールに支配された世界に生きていると言えます。

ただし、その性質は変わりました。工場制度が終わり、ポスト工業化の世界に移行し始め、やっと少しずつ見えてきた実態は、私たちに大きな幻滅と失望しか与えていません。

(丸山 俊一 : NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー/東京藝術大学客員教授)