卒園式で初めて「別れ」を認識 自閉症の息子に感じた“大きな成長”
ライター、イラストレーターとして活動するべっこうあめアマミさんは、知的障害を伴う自閉症がある8歳の息子と、きょうだい児(障害や病気を持つ兄弟姉妹がいる子ども)の4歳の娘を育てながら、発達障害や障害児育児に関する記事を執筆しています。
現在は特別支援学校に通う息子さんですが、幼児期は幼稚園と療育(障害のある子の発達を支援する施設)に通っていました。2年前、幼稚園と療育施設の卒園式で、これまでの「別れ」とは明らかに違う姿を見せた息子さんに、大きな成長を感じたアマミさん。そのときのエピソードを紹介してくれました。
卒園証書の受け取りを拒否
2021年3月、息子は幼稚園の卒園式を迎えました。
在園中は先生方だけでなく、他の保護者もクラスの友達も、障害がある息子を温かく迎え入れてくれたので、幼稚園は私たち親子にとって、大切な居場所でした。
ところが、卒園式の当日、感傷に浸る私を一気に焦らせる事態が起きました。卒園証書授与のとき、息子は自分の番が来ると、歩くのを拒否したのです。
両側から2人の先生に支えられ、一歩も自分の足で歩こうとはせずに、卒園証書を授与「させられ」て、通路を移動した息子。
先生によると、息子は卒園式の練習を問題なくこなしていたようで、事前に園から困り事や心配事を相談されたことはありませんでした。この出来事は、息子の障害特性を考えるとあり得ないわけではありませんが、少々予想外でした。
そして、私はそんな息子の姿が、言葉を話せないながらも必死に体を張って示した、「卒園証書授与の拒否」の意思表示のようにも見えたのです。
その後、式が終わると息子は、園生活をずっと共に過ごしてくれた加配の先生(障害のある子や発達の遅れが気になる子を支援する職員)に、抱きついて大泣きし始めました。涙で顔もマスクもびっしょりぬれていました。
すると、加配の先生が泣きながら言いました。
「息子くん、練習でもいつも、お別れの歌のときになると機嫌が悪くなっていたんです。きっとそういう雰囲気を感じ取っていたんだと思います」
恐らく、息子はもう幼稚園に行けないと分かり、悲しくてどうしようもなくなりつつも、その気持ちの吐き出し方が分からずに、パニックになっていたのだと思います。息子の号泣の意味がそこにあるのだと思うと、私も涙が止まらなくなり、親子で泣いた卒園式でした。
療育施設の卒園式でも…
幼稚園の卒園式の数日後、今度は療育施設で卒園式が行われましたが、息子は幼稚園の卒園式とは打って変わった姿を見せてくれました。落ち着いて友達と手をつないで入場し、1人でしっかりと歩いて卒園証書を受け取り、少しだけお辞儀もしたのです。
ただ、問題はこの後でした。卒園式の後、先生や職員さんたちに見送られながら、施設内の花道を通って帰る最中、息子は療育でいつも使っていた教室の前に差し掛かると、突然列を離れてスッと教室に入り、座り込んで岩のように動かなくなったのです。施設に他の卒園児や保護者が全員いなくなっても、息子は居座り続けました。
普段は脱走をするような子ではありませんでしたが、この日は恐らく、こんな考えが浮かんだのだと思います。
「お別れしたくなかったら、ここから動かなければいいんだ」
息子はその後もしばらく居座りましたが、先生たちの説得のおかげもあり、かんしゃくを起こし、泣きながら玄関まで行きました。
しかし、何とか玄関まで行けたと思ったのもつかの間。今度は玄関で座り込んで靴を履かなくなりました。
すると、園長先生が登場し、息子を椅子に座らせた後、お茶を出してくれました。「これを飲んだら帰ろうね」と息子を優しく諭し、落ち着かせてくれた先生。
息子は、永遠に飲み終わらないような速度でお茶をちびちび飲み、なかなか飲み終えようとはしません。それでも、ようやく諦めがついた息子は、泣いたり叫んだりしながらも靴を履いて、しつこく行ったり来たりを繰り返しながらも次第に別れを受け入れ、施設を後にすることができました。
この療育施設は、幼稚園よりも在籍期間が長く、息子にとっては、それまで通ったどの療育よりも長く通った施設でした。だから、この場所に通うことは息子にとって、当たり前の日常になり過ぎていて、どうしても卒園を受け入れられなかったのかもしれません。
息子は言葉を話せないため、彼の本心は分かりません。しかし、彼なりに幼稚園の卒園式という経験を経て、どうしたらお別れを回避できるか、冷静に考えを巡らせていたのかもしれないと思いました。
息子が初めて見せた感情表現
息子は1歳半健診で発達の遅れを指摘されたため、2歳から療育に通い始めました。もろもろの理由から、いくつもの施設を転々としながら幼児期を過ごしたため、毎日のように通っていた居場所を離れる経験は、初めてではありません。
しかし、どの別れのときも、親の私は悲しいのに息子はあまりにドライで、「別れ」をあまり認識していなかったように思います。それは人や居場所への思い入れが、障害の特性ゆえに薄かったからなのかもしれません。
そして、息子は別れた実感がないまま次の生活に移るので、しばらくたってから時間差で不安定になることもありました。私は息子のそういった部分に対して、どこかむなしく残念に思っていたのです。
しかし、幼稚園と療育の卒園式では、息子はこれまでの「別れ」とは明らかに違う姿を見せました。ちゃんと「お別れ」を悲しんでいたのです。
それは、知的障害があり、物事の理解が難しい息子の大きな成長の一歩でした。だから、私が最も気になっていた「息子は別れを理解できず、いつの間にか園生活を終えてしまうのではないか」という不安が払拭されたことが、何よりもうれしかったのです。
誰だって、長い間過ごした居場所を離れるのは怖いものです。それは大人も子どもも、健常者も障害者も同じです。「出会いがあれば別れがある」と言うのは簡単ですが、6歳の息子がそれを受け入れるのは相当な試練です。
これまでたくさんの出会いと別れを経験してきた息子が、初めて「別れ」を理解したこと。そして葛藤して導き出したであろう卒園式での行動は、的外れではあるけれど、私にとっては愛すべき成長の形でした。
そして、息子にとって「失いたくない、別れたくない居場所」をつくれたことがうれしく、関わってくれた方々に感謝しています。
子どもの成長を見逃したくない
息子のように障害があったり、発達に課題があったりする子を育てていると、どうしても園生活や学校生活の節目の行事でうまくいかないこともあると思います。時に、みんなと同じように行動できず、1人だけ目立ってしまうわが子にヤキモキしたり、悲しくなってしまったりすることもあるのではないでしょうか。
しかし、一見困った行動に見えた子どもの行動の裏には、意外な成長が隠されているかもしれません。
「どうしてそんな行動を取ったの?」と、本人に聞けるなら聞いてみてもいいですし、聞けないのなら想像を巡らせてみると、もっと子どもの心に近づけるかもしれません。
これからも、子どもにとって大切な一つ一つの節目をかけがえのない思い出として迎え、子どもの成長を見逃さずにいたいと思います。