家計の困窮やネグレクトなどによる弊害は問題の本質ではない(写真:Graphs/PIXTA)

統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の問題をめぐって、政治と宗教の癒着が大きな焦点となる中で、特定の信仰などを持つ親の下で育った「宗教2世」に対する関心が高まってきている。

ただ、これまで新興宗教などに馴染みがなかった一般の人々にとってみれば、「カルト」と称される信仰を利用した反社会的な集団で育った子どもの問題、異端とされる過激な宗教思想による被害者というイメージが先行し、あまり身近な感じはしないかもしれない。

カルトではなく、ごく普通の宗教であっても

しかし、社会に溶け込んでいる伝統宗教などであっても、宗教2世の問題は多かれ少なかれついて回る。なぜなら、信者の子どもはもともと「自ら進んで入信した」立場にはなく、遅かれ早かれ自分でその決断を迫られる立場にあるからだ。しかも人間関係を抜きには語れないことが、ただでさえ複雑な状況をさらに複雑にしている。

私は、奈良県天理市生まれで、両親が天理教の信者だった。実家から歩いていける距離のところに天理教教会本部の神殿があり、その神殿の中心にある聖地「ぢば」で、創造神である「天理王命(てんりおうのみこと)」が最初の人間をお造りになったと教えられて育った。教祖の中山みきは、姿を「お隠し」になっているだけで、魂は今も存命で人類の救済のために働いている、と。

天理教は、PL(パーフェクト リバティー)教団などと並んで高校野球の印象が強く、世間では比較的よく名前が知られている新興宗教の一つだ。そんなごく普通の新興宗教でも、やはり宗教2世ならではの問題があった。このことは非常に重要なポイントであり、私が信仰集団の中で生まれ育つ中で経験した苦しみや悩みは、程度の違いはあるものの、どのような信仰集団にもつきまとう普遍的な課題であるといえる。その主なものを箇条書きにすると、以下のようになるだろう。

1、親の信仰を受け入れることが愛情の前提条件となっており、承認問題を引き起こしやすい
2、個人としてみなされないため、思想信条の自由が蔑ろにされる
3、信仰集団とコミュニティが一体化しており外部がない。孤立の可能性が高い

順に説明していきたい。

私が最初に違和感を覚えたのは、小学校2〜3年生の頃で、自分もいずれは死ぬという「死の恐怖」に襲われたのがきっかけだった。天理教では、人の死は「出直し」と呼ばれ、「生まれ替わり」があるとされていたが、当時、動物の死骸を観察することに取り憑かれ、宇宙にも終焉があることを知ってショックを受けていた私には、とてもそれを信じることはできなかった。

その少し後だったと記憶しているが、(死後の再生が確信できないのと同じく)「神様がいるとは思えない」というようなことを、熱心な信者だった親戚のおじさんに話したら、えらい剣幕で怒られたことがあり、信仰への疑念を表明することはタブーなのだと強く意識するようになった。

家には神棚のある部屋があり、そこで定期的に「おつとめ」という祭儀を行っていた。家族全員で、時には、親戚や教会の関係者を交えて、拍子木やちゃんぽんなどの鳴り物の音律に合わせて、地歌を唱和し、手振りなどをする重要な宗教儀礼の1つであった。物心がつく前からそれが当たり前の光景で、日常生活に組み込まれていたが、信仰が受け入れられなくなるに従い、儀礼への参加や教会の関係者による講話が耐えがたい苦痛に変わった。

信仰のないところに「親の愛」はない

儀礼への参加は当然とされており、そこに選択の余地はなかった。「信仰の否定」は「親への反抗」とみなされ、親戚などには問題児のいる家族と認識され、前述のおじさんのような人が説得に来ることが容易に想像できた。

私は、家族に迷惑がかかることを恐れていたため、表面上迎合したふりをする面従腹背を貫くことにした。巨大な信仰共同体の内部にいながら、常に周りの顔色をうかがう「隠れ無神論者のような立場」になったのだった。まだインターネットも定着していない時代で、同じ悩み事を相談する相手もいなかった。さまざまな祭儀をこなさなければならない憂鬱な時間は、心ここにあらずの状態で空想の世界を旅していた。

宗教2世問題の本質は、家計の困窮やネグレクト(育児怠慢)などといった信仰への傾倒による弊害というより、親が従っている教団の信仰を受け入れることが、子どもにとって親から愛情が得られる前提条件となっていることにある。つまり、親から自分の存在を承認してもらうためには、信仰の世界に入らなければならず、信仰のないところに「親の愛」はない。

このような不条理に幼くして直面しなければならないということにこそ問題の根源がある。単に、異常な親による子どもの支配といった「毒親問題」と大きく異なるのはこの点で、信仰を拒否したことによる精神的・身体的・経済的虐待は二次的なものといえるかもしれない。宗教2世が自尊心、自己肯定感に問題を抱えやすいのはこのためだ。

ここには、2つ目の個人として取り扱われず思想信条の自由がないという側面が絡んでくる。

通常、子どもは自動的に信者(と同等の存在)としてカウントされるため、例えばある程度成長した時点で、儀礼への参加の有無などについて個人の意思が尊重されるなどということは基本的にはない。この一心同体化の圧力は、信心のある子どもには心地良いかもしれないが、信心のない子どもにはただの苦役となる。

私の場合は、学校の行事やアルバイトなどを理由に欠席を繰り返すようになり、少しずつ距離を取っていくことができたが、外部との接触を制限している教団やその方針に従っている信者の家族の場合は、子どもに逃げ場がない可能性が高い。

裏を返せば、分別がつく年齢であれば、親が子どもを独立した個人として取り扱えば済むのであり、家族全員の信仰を一致させること自体にそもそもの無理がある。だが、多くの親は家族と信仰を切り分けられず思考停止に陥る。私は決して教団や親が嫌いだったわけではない。「信じてもいない宗教の儀礼(=信仰の世界)を強制されること」が嫌だったのだ。

代替的なコミュニティがないと孤立する

3つ目の信仰集団とコミュニティが一体化していて外部がないという問題は、宗教2世が安心して過ごせる居場所がないことを意味している。これは、後述するように社会のあり方にも関係してくる重大な問題を孕んでいる。

私は、県外の大学に進学してから教団以外の人間関係を形成することができ、実質的な転機となった。親の無理解は続いたが、信者になる気がないことだけは伝わった。けれども、これは各教団や各家庭によって相当事情が異なるうえに、代替的なコミュニティとなりうるもの――教団以外の所属集団、支援者、理解してくれる友人などがないと孤立するリスクが高いといえる。

一家でエホバの証人に入信した後、自ら脱会し、最終的に家族全員を脱会させたという異色の経歴の持ち主である佐藤典雅氏は、自身の体験を綴った『カルト脱出記 エホバの証人元信者が語る25年間のすべて』(河出文庫)で、組織に長期間身を捧げてきた義兄についてこう述べている。

「もっとも彼の立場も分かる。二〇代の時からずっと全時間奉仕一筋できた。もう五〇代である。ここで宗教をやめてどうしろというのだ。ベテルを出て仕事をするには遅すぎる。しかも今の立場であれば、日本中の信者仲間から尊敬の目をもって慕われる。組織を捨てれば、ただの脱藩者で孤独な世界だ。組織の外に彼に友人や知り合いはいない。自分の慣れ親しんだ価値観と環境と人を捨てることは容易なことではない」

とりわけ信仰集団と、生活圏のコミュニティが完全に重なっている場合、そこから切り離されることは物理的に孤立するだけでなく、アイデンティティの危機をもたらす。宗教コミュニティを離脱した際の孤立のリスクは、教団の閉鎖性の度合いにおおむね比例する。

身を寄せられる場所や集まれる機会の提供を

そのため、宗教団体が絡む虐待といった緊急性が高いものに対する法的整備や、サポート体制の充実が重要であることは言うまでもないが、社会ができることはそれだけではない。宗教コミュニティからの離脱を考えている宗教2世が進んで身を寄せられる場所や集まれる機会の提供も同じぐらい重要である。

しかも、これは、宗教2世だけの問題にはとどまらない社会全体の包摂性に関わっている。社会学者のエリック・クリネンバーグは、図書館や公園、遊び場、学校、市民農園など、わたしたちの交流の形や暮らしの質を左右する「社会的インフラ」の重要性を説いた著作でこう説いている。

「強力な社会的インフラが存在すると、友達や近隣住民の接触や助けあいや協力が増える。逆に、社会的インフラが衰えると、社会活動が妨げられ、家族や個人は自助努力を余儀なくされる」と主張した(『集まる場所が必要だ 孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』藤原朝子訳、英治出版)。

わたしたちが外部との接点を持ち得るのは、こういった場の効用によるところが大きかったりするのだが、残念なことに普段意識されることはほとんどない。社会からクリネンバーグのいう「開かれた場」がなくなってしまうと、人々は問題を抱え込みやすくなり、共有される可能性は低くなる。最悪の場合、それが自殺などにつながることも起こりうる。

宗教団体に限らず、集団からこぼれ落ち、孤立する例は枚挙に暇がない。わたしたちはそのようなリスクと無関係に生きていくことはできない。だが、リスクが現実化した際のダメージについて想像を巡らせ、どのような社会が良いのかについて再考し、具体的に働きかけていくことはできる。

それは、結局のところ、わたしたち自身の境遇へと直接跳ね返ってくるのだ。


画像をクリックすると公開中の連載記事一覧にジャンプします

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)