ダイエーにFA移籍した工藤公康の「ダメ出し」で城島健司も一流に。型破りの「新人類」は、常勝イズムの伝道者となった
石毛宏典が語る黄金時代の西武(3)
工藤公康 後編
(前編:プロ入り拒否→根本陸夫の強行指名で西武へ。「うぬぼれが強い」と感じた左腕はいかにエースとなったのか>>)
西武ライオンズの黄金時代に先発投手陣の柱として活躍した工藤公康。広島と対戦した日本シリーズで放ったサヨナラヒットの場面、"新人類"と呼ばれた工藤の人柄、FA移籍したダイエー(現ソフトバンク)での城島健司とのやりとり、ソフトバンクの監督時代などについて、石毛氏が語った。
1999年の日本シリーズ第1戦で勝利した工藤(左から3番目)とキャッチャーの城島(左から2番目)
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――工藤さんのプレーで印象的なシーンのひとつが、1986年の広島との日本シリーズ第5戦で放ったサヨナラヒットです。西武は初戦に引き分けた後に3連敗。崖っぷちの状況のチームをバットで救いました。
石毛 今では"二刀流"が話題になっていますが、当時の西武は東尾修さん、森繁和さん、工藤もそうですが、投手陣のバッティングがよかったんです。あと、その年の日本シリーズは、おそらくDH制を採用せずに全試合が行なわれたと記憶しています。同点の場面で工藤がリリーフで登板し、その後に打席に立ってサヨナラヒットを打ちましたね。
――このサヨナラヒットでの勝利を皮切りに息を吹き返した西武は、そこから4連勝して日本一になりました。土壇場から4連勝できると思っていましたか?
石毛 いや、思いませんよ。初戦だったかな......東尾さんが先発で完封目前のところから、9回裏に山本浩二さんに同点ホームランを打たれて、延長になって引き分け。そこからは西武球場に戻ってきても負けてしまっていましたから。
あの頃は日本シリーズ中に隔離的な合宿をやっていたんです。西武園競輪場に隣接する「共承閣」という競輪選手の宿があるのですが、そこに我々は"缶詰め"になって、朝・昼・晩と飯を食べるわけです。3連敗でチームの雰囲気は暗くなっていましたが、東尾さんと私で「ひとつぐらいは勝たないとかっこ悪いな」と話していました。
そういう開き直るような感じもあったなかで、工藤がサヨナラヒットを打ちましたが、それでも1勝です。また広島に移動したものの、「どっちみちすぐ負けるかもしれない。替えの下着もいらないかもな」なんてことを考えていました。だけど第6戦でも勝てて、2勝3敗1分けになると、チーム全体が「いっちょやってみっか」みたいな雰囲気になったんです。ファッションも先輩との付き合いも型破り
――工藤さんのサヨナラヒットが突破口となったんですね。
石毛 そういった雰囲気に持っていけたきっかけになったと思います。あいつの性格だと「野手陣は何をやってんですか。僕でも打てるのに、しっかり打ってくださいよ」みたいな気持ちがあったんじゃないですかね。そういうことを言うタイプの人間ですし(笑)。工藤たちの世代は先輩にも物怖じしないというか、それまでの若者とは違う印象でした。
――工藤さんをはじめ、渡辺久信さん、清原和博さんらも含む世代は"新人類"と呼ばれていましたね。言動やファッションなどに新しい価値観を持っていることが注目され、"新人類"という言葉が流行語大賞・流行語部門金賞を受賞(1986年)しました。
石毛 まずファッションが違いました。野球選手でジーパンをはき始めたのも彼らだと思いますし、いわゆる『メンズノンノ』とかファッション雑誌のトレンドを取り入れた格好をしてくるわけです。それがもう、我々にとっては真新しかった。「なんや、その格好は。野球人が、ようそんな格好をできるな」となるというか、そういう固定概念を壊してくれたんです。
ただ、ナベちゃんはスラッとしていてスタイルがいいから格好良よかったけど、工藤はちょっとぽっちゃり系だからそんなに似合っていませんでした。それを、あたかも似合っているように着こなしている、という感じでしたね(笑)
――明るいキャラクターだった印象もあります。
石毛 いつも挨拶は「おはようございまーす!こんちわー!」みたいな軽いところがあったし、先輩から食事に誘われると「今日は用事がありますから無理です」と平気で断るんですよ。私なんかは東尾さんや森さんから「今日、飯食いにいくぞ!」と言われれば、「はい、わかりました!」と当然のようについていった。でも、彼らは先輩に対して「NO」と言える。そういう感覚や振る舞いがありましたね。
――コミュニケーションの感覚も違っていた?
石毛 私たちの世代は、先輩が誘ってくれた食事の席でいろいろな話を聞いたり、人脈を作ったりしたものですが、"新人類"と言われた彼らにとってそれは必要なくて、「俺たちで遊ぼう」みたいな感じだったんじゃないかな。
――石毛さんと工藤さんは、長らく西武の投打の中心として活躍されたあと、ともに1994年オフにダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍されました。ダイエー時代の工藤さんは西武時代と比べて変化はありましたか?
石毛 ダイエーは専務の根本陸夫さんが王貞治さんを監督として招聘したり、秋山幸二や工藤、私もそうですが、強かった西武の選手を獲得することで、「ホークスの野球を強くしたい、優勝したい」という熱意にあふれていました。
私もそうだったし、工藤もそうだったと思いますが、移籍した人間は周囲の目がけっこう気になるものです。そういうこともあり、練習からしっかりと取り組む姿勢を周囲に見せる意識でやっていましたね。工藤は子供ができた時期だったこともあって、責任感が生まれたのか、野球により真摯に取り組んでいる姿が印象的でした。
――ダイエー時代の工藤さんといえば、若い頃の城島健司さんとバッテリーを組み、配球などを指導していた姿が見られました。
石毛 私と工藤がダイエーにFA移籍した年のドラフト1位が城島でした。当時の城島はキャッチングが下手だったんです。オーストラリアでのキャンプの時だったと思いますが、工藤のボールを受けていた城島がキャッチングのダメ出しをくらっていました。
でも城島はへこたれず、工藤に「こういうときはどうしたらいいんですか?」などと質問したりして、食らいついていた。そのおかげもあって上達していきましたね。城島は一流の捕手になりましたが、プロ入りしてすぐに工藤のような投手の球を受け、厳しい指導を受けたことは大きかったと思いますよ。
――1999年に11勝を挙げた工藤さんは、同年のダイエー初の日本一に大きく貢献するも、シーズンオフにFA宣言して巨人に移籍します。その際、ダイエーのファンから工藤さんの残留を願う17万人以上の署名が集まったそうです。その後、7年もの歳月をかけ、署名したファンの全員に感謝の手紙を書いて送ったといいます。
石毛 自分もその話を聞いたことがありましたが、凄いと思いますよ。本人だけで書いたのか、奥さんとの共同作業なのかはわかりませんが、仮に誰かからアドバイスを受けていたとしても、なかなかできることではありません。それだけファンに対しての思いがあったんでしょうけど、工藤の人間性を感じる話ですよね。
指導者としても「名将」に
――2015年にはソフトバンクの監督に就任し、7年間チームを率いて、5度の日本一、3度のリーグ優勝に導きました。かつて常勝軍団・西武で選手として培ってきた"常勝イズム"のようなものが活かされていたんでしょうか。
石毛 それはゼロではないでしょうね。勝つことが"普通"な球団の中心選手として活躍し、広岡達朗さん、森祇晶さんのような名将のもとでプレーして感じたものはあったでしょうし、指揮官としての工藤を形成する要素になっていたと思います。
――名将と呼ばれる定義にもいろいろあると思いますが、これだけの実績を残した工藤さんはやはり名将といえる?
石毛 実績を見れば、名将でしょう。セ・リーグもパ・リーグも各6球団ですから、単純計算になりますが「6年に一度は優勝」というのが普通の成績。それを踏まえると、7年で3回のリーグ優勝、日本一を5度達成するのは凄い結果です。
名将の定義として、「実績を残せばいいのか?」「実績はイマイチでも、名選手を育てたから名将なのか?」など考え方はいろいろあると思いますが、やはり結果が重視される世界ですから、工藤は十分に名将と言っていいと思います。