パリ五輪でアジア新記録を狙う山縣亮太。意識する「自分の経験値と専門家の知見のリンク」とは?
文武両道の裏側 第11回
陸上男子100メートル 山縣亮太(セイコー社員アスリート) 後編
山縣亮太選手
広島の名門校、修道中学・高校から慶應義塾大学へ進学した山縣亮太。子どもの頃から、苦手科目も「毎日少しの時間だけでも」と努力し、文武両道を歩んできた。
そんな山縣は大学2年の時に出場したロンドン五輪で当時の自己ベストである10秒07を記録。その走りによって、「9秒台を狙える」という確かな自信を得た。それはその後、年月を経て陸上男子100メートル日本記録保持者となるスタートラインだったという。
慶應一本で受験した理由
ーー慶應大2年の時に9秒台を見据え、当時のアジア勢未到の地へと踏み出し始めました。慶應大陸上部は強豪なのでしょうか?
僕の頃は、競走部(陸上部)の部員は1学年に30人ほど、全体で100人ちょっとでした。今はもう少し増えて150人くらいいるみたいです。強いかと言われれば、言葉を選ばずに言うと「1.5部」。1部と2部を行ったり来たりしています。1部に残っていれば目標は1部残留、2部に落ちた年は1部に昇格が部の目標になるチーム。でも、個人に焦点を当てれば、日本選手権の個人種目に出られる選手も何人かいる感じです。
ーーどうして慶應大を選んだのでしょうか?
僕が慶應大を選んだのは、競走部に修道と似た自由でのびのびと勝利を目指せる環境があると知ったからです。ここしかないと、慶應一本に絞って受験しました。卒業した今も練習は、日吉キャンパス内にある競技場でしています。大学時代は、グラウンドから歩いて10分ほどのところにある競走部の寮で暮らしていました。総合政策学部だったので、湘南藤沢キャンパスまで学生服を着て電車を乗り継いで行っていました。
ーー日吉から湘南藤沢キャンパスまで通うとなると、時間はどれくらいかかりますか?
1時間半ぐらいですね。2023年には東急東横線と相鉄線が直通になるみたいですが、当時は本当に大変でしたね。でも慣れてしまえば、その電車でもできることがあるというか。東横線は結構混んでいますが、相鉄線はわりと空いているので、移動時間を活用していました。ゼミで出された課題を読んだり、調べものをしたり、資料をパソコンで作ったり。
ーーゼミではどんなことを学んでいたのですか?
僕は2年からスポーツビジネス関係のゼミに入っていました。当時は、一陸上部員でしたが、将来的にはある種の運営視点に立たなきゃいけないと思っていて選びました。ビジネスとスポーツはどういうふうに絡んでいるのか、仕組みを理解する時代だなと思って興味がありました。
ーー大学2年というとロンドン五輪に出場した頃ですね。アスリートとしての活躍の先をすでに見据えていたとは、想像だにしませんでした。それから2年後、山縣選手が4年生の時に人間工学の加藤貴昭准教授(当時)の開いたシンポジウムで、パネリストを務めた山縣選手の話を拝聴しました。今でも先生たちとのやり取りがあるのでしょうか?
加藤先生の授業は、もちろん取っていました。僕は加藤先生のゼミではなかったんですが、先日もスポーツの話をさせてもらったり、体育会系のイベントやシンポジウムへのお声がけをいただいたりしています。
ーートップアスリートであるばかりでなく、スポーツビジネスのあり方にも思いがあるだけに声がかかるのでしょう。大学卒業後は、セイコーホールディングスに入社されました。進路決定について、どのように考えていましたか?
日本で競技をさせてもらえる環境を踏まえ、どこに所属するのかを考えると、そもそもいくつかのチームに限られると思うのですが、僕の思いとすれば、既存のチームに他にも可能性があるのではないかと考えていました。
当時、セイコーには陸上部がなかった。ただ、僕の1学年上のフェンシングの三宅諒さん(ロンドン五輪男子団体銀メダリスト)が、アスリート社員としてセイコーのサポートを受け始めたという経緯はあったんです。
ーーどのようにしてセイコーにたどり着いたのでしょうか?
ひとつにはセイコーが持っているイメージが自分の競技観とすごく重なるということです。セイコーは日本のブランドでありながら、世界と渡り合っている。かくいう自分も、「緻密な走り」などと言われたりもするなか、セイコーの持つ精密な技術力と、自分の競技観とにすごい親和性があるのでは、と感じていました。
もちろん、陸上競技の現場という意味においても、セイコーのタイマーは選手にとって馴染みがあるし、競技に対する理解はあるだろうなと期待していた面もありましたね。「そうだ、ダメもとで話してみよう」って感じでした。なにより、陸上部がないところも「未開の地」に足を踏み入れる感じがあって、面白そうだなって。大学の監督やOBとのご縁もあって、すごく理解をしてもらいました。
ーー2015年にセイコーに入社し、2022年で8シーズン目です。その間、リオと東京で2回の五輪に出場し、2021年の布勢スプリントではついに9秒95の日本記録を樹立しました。今季からはさらにたくさんの選手が入ったそうですね。山縣選手がセイコーとともに切り拓いてきた道が、新しいチームの形になっているのではないでしょうか?
チームは今年、陸上以外の選手も加わって9人になりました。僕自身はパリ五輪を目指していて、基本的には、セイコーに入ってからずっと選手としての活動に専念しています。ただ、セイコーが運営している陸上教室などのイベントに講師という立場で積極的に参加しています。
ーーイベントで子どもたちと触れ合うと、どんなことを感じますか?
やっぱり子どもは素直だなって。いい意味で、反応がダイレクトに返ってくる感じです。わからなかったらわからないってハッキリしているんですよね。楽しい時には、すごく笑ってくれるので元気をもらえます。こちらが子どもたちにとっていい機会をつくってあげたいなとの思いでやっていますが、毎回、逆に元気をもらっちゃっています。
ーーパリ五輪に向け、どんな取り組みをしているのでしょうか? 足りないと感じているところはあるのでしょうか?
20年くらい競技をやってきていますが、ケガが多くて、ケガをするたびに自分に足りないことを突きつけられるんですよ。ケガを再発させないように、体の機能改善にものすごく時間をかけて練習しています。
ーー体を改善するにあたって、どんなふうに考え、実践しているのか気になります。
いくつかポイントがあって、ひとつは自分のなかにある経験値を大事にしていることですね。自分のいい時の感覚と悪い時の感覚は、データとして年々蓄積されていきます。そのうえで、現状を克服するだけでは足りないので、理学療法士やドクター、新しくつけたコーチ、いろんな方々の知見を集めて、今まで自分が蓄積してきた経験値的な部分とリンクさせようとしています。
コーチが言っていることは、「自分のあの時のあの感覚に近いな」とか。聞いたままにしておくのではなくて、それを何とか自分の頭で経験とすり合わせて処理できるようにつなげるというのは、すごく意識してます。
ーーコーチやドクターらから聞いたことを自身の経験と頭でつなぎ合わせる、と。小さい頃から勉強とスポーツを両立させてきたことは、今に活きているのでしょうか?
そうですね。勉強はサボらず、頑張らずくらいのところでやってきました。スポーツは自然と頑張っちゃうんですけど、とにかく継続をしていくことの力の大きさ、生み出すエネルギーを今すごく感じますね。
たとえば、陸上の話ですと、書き留めていたメモが5年くらいあとに、ふとした拍子で今とつながることがあるんです。書いた瞬間はつながらなくても、5年、10年先に、「自分が意識していたことは正しいことなんだ」と思える時がきたりする。本当に、サボらず続けてきてよかったなと思う瞬間ですね。
僕はわからなくなったら、わからないことはわからないで一回隅に置いておく癖があるんですよ。それが将来的に、わかる、つながる瞬間がくると期待していますね。苦労をしている時にこそリンクすることも多いですね。
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2022年、山縣は膝のリハビリに注力するシーズンと決めた。2021年8月に開催された東京五輪を走り終え、同10月に手術をした時には2022年4月からレースに復帰するつもりだったという。
しかし、パリ五輪を目指すにあたって、シーズンをまるごとキャンセルする不安より、脚に不安を抱えたままレースに臨む危うさを嫌った。
幾多の困難を乗り越えるごとに、山縣は走りのステージを上げ、日本新記録を打ち立てた。100年の時を超えてパリで再び開催される五輪まで2年を切っている。彼が目指すのは、アジア新記録の9秒82。32歳で迎える次なるステージまでの道のりに注目したい。
終わり インタビュー前編「日本最速ランナー・山縣亮太の文武両道の少年時代。『陸上選手になろうと思っていたわけではなかった』」>>
<profile>
山縣 亮太 やまがた・りょうた
1992年、広島県生まれ。陸上男子100メートル日本記録保持者(9秒95)。セイコー社員アスリート。広島市の修道中学・修道高校を経て、慶應義塾大学総合政策学部へ進学。在学中の2012年、ロンドン五輪に出場。2016年リオデジャネイロ五輪、2021年東京五輪にも出場。2021年、布勢スプリントで100メートル9秒95の日本記録を樹立。